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芥川賞受賞作品「苦役列車」に見える子どもの影 [2011年02月17日(Thu)]
第144回の芥川賞が1月17日に発表され、2名の方の受賞作品が掲載される3月の文藝春秋を楽しみにして購入した。

朝吹真理子氏の「きことわ」は、26歳という若さでこれだけの文章力があるとは凄いと感動したが、最後まで読み上げるのに労力のいる、私にとっては退屈な小説だった。

一方、西村賢太氏の「苦役列車」をは、西村氏自身の体験をもとにした私小説とのことだが、一気に最後まで読め、後々心に残る重さ田があった。主人公の底辺社会での自虐的な生活のせめてめの救いは、破滅的にはならず、淡々とその日ぐらしの生活を続けていることだろうか。

学校教育に関わっていると、小学生高学年くらいから大変になりだし、中学ですでに学校に毎日通学ができず社会にでてしまい、小説にあるような暮らしをすることになっていくのではないかと心配になる子どもに出会うことがある。

当然、きっかけは本人の罪ではなく、たまたま生まれ育った家庭環境に恵まれず、学校の勉強どころでなくなるというのがほとんどである。学歴や技術がなく、安定した職に就けないなか、頼る人もなく投げやりな暮らしをせざるおえない若者を、今の日本の福祉制度では、十分支援する仕組がない。

審査員の選評で、村上龍は、両者の小説ともに「現実へのコミットメントが希薄だ。・・・作家は、『現在の日本』という状況内で小説を書く以上、現実と向き合い、そのテーマに現実に対する態度・対応が織り込まれる。・・・作家は無意識のうちに、また多くの場合は無自覚に、現実に対峙し、作品はその哲学や人生の戦略を反映するのだ。・・」と述べている。私は、小説家が社会的問題にたいして対策を提案すべきとまでは思わないが、西村氏に小説があったように、環境に恵まれない子供達がなんとか不のスパイラルから抜け出る道がないものかと思ってしまう。

それにしても、審査員によって受賞作への評価コメントが様々で、作家の特性を映しているのが面白い。例えば、高樹のぶ子氏。「苦役列車」について、「人間の卑しさと浅ましさがひたすら連続するだけで物足りなかった。」と述べ、「何も起こらず、現実を映しているだけでは小説ではない」と言っているが、私は、これには賛同できだい。
気にいったのは石原慎太郎のコメント。選評も、”真面目”だけでは、おもしろくない。

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