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きょうの福祉

「障がい者というコトバを
    使わなくて済む社会になればいいなぁ」
 障がいのあるひとが、
 地域で役割を担い、ふつうに生きる。。。
 この願いに向かう kyokyo の日々をつづります。


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ことばよりも [2018年05月03日(Thu)]

過日、目にした
ほぼ日刊イトイ新聞
「 今日のダーリン 」の
コラムを読んでの ひとりごとです。



―― ぼくは、なにかをことばにすることを
  仕事にしている。
  人はそう思っているようだけれど
  ほんとうのことを言えば、
  ぼく自身は半分くらいしかそう思ってない。

  ことばにできたような気がするときというのも
  そういう照明の下で、
  そう見えた写真みたいなもので、
  そう表現されたものの
  ほんとの大きさ豊かさのほうが、
  ことばで言えてることの何百倍もあるのだ。

  ことばにできるというのは、いわば、
  ニックネームをつけるくらいのことである。
  ゴリラというあだなの人がいたとして、
  「なるほどなぁ」といくら人が納得していても
  それはゴリラのように撮れた
  写真の一枚にしかすぎない。
  ゴリラ氏を大好きな人から見た
  彼のいいところなんかは、
  ほとんど見えてないことだろう。
  
  ことばにする前の、
  ことばになってないなにかを、
  どれくらい受け止めているかのほうが、
  ほんとうは、
  ことばにする以上に大事なことなのである。
  そういう意味では、ぼくが実際に、
  なにかをことばにする仕事をしているとしても
 「さぁ、できた」と
  ことばで表現するその前のところで、
  いちばん仕事をしているというわけだ。

  どうしても、まだ言いたくなっちゃうのだけれど
  「うちの犬は、いいこ」と、ぼくも含めて、
  いろんな人がそう言ってるよね。
  そのときに、
  「どういうところがいいこなのですか?」と
  あらためて問うのは、
  ほんとうは野暮というものなのだ。
  ああいうところ、こういうところと
  説明をはじめたら
  「うちの犬は、いいこ」と言うときの、
  まろやかでにこやかで、
  こころがふるふるするような
  あの気持ちよさは消えてしまうのである。
  「いいこ」と感じて、そう言っているときの、
  「うちの犬とわたしの間」にある
  「とてもいいもの」は、
  すでにそこにあったものなのだから、
  それでいいのです。
  ことばでなんでも言えたような気になるなよ、と。
  それを知りながら、
  ことばを使うんだぜ、と、ね。 ――




ことば。
それは 日々必要なものですが、
時として
厄介なものだな と
感じることがあります。

たとえば、
障がいのあるひとのことを
伝えるために
「 ことば 」を 使うことがありますが、
ほんとうは
ことばよりも
体感することで 知ってほしいと
思うことが 多々あることも
事実です。

「 ことばにできたような気がする 」。

私たちの
周りに在る「 ことば 」は
すべて、そうなのかもしれません。


このコラムを読んで、
ことばで受け入れるより、
体感して知り 受け入れることの大切さを
あらためて 感じました。

障がいのあるひとのことを
理解してもらうには、
時を 共にする、
いつも そばに居る、そう
小さい頃から
一緒に遊び、学び、暮らすことに
大きな意味があると
あらためて 思いました。


いつも そばに居る・居た存在ならば、
あれこれと
「 ことば 」にすることなく
「 あたりまえのこと 」として、
障がいのあるひとのことを
理解できるのではないでしょうか。















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