NPO法人抱樸 理事長 奥田知志さん「いのちの意味が問われる時代に 伴走型支援の可能性」
[2017年05月28日(Sun)]
昨日、岡山・ホームレス支援きずな 総会 記念講演会が開催されました。
講師として、NPO法人抱樸 理事長 奥田知志さんが来岡され「いのちの意味が問われる時代に 伴走型支援の可能性」と題して講演がありました。
まずは、北九州で起こったアパート火災のお話から。
北九州市であったアパート(簡易宿泊所)火災、そこで多くの犠牲者が出ました。貧困ビジネスを疑われていましたが、実はそうではないというお話やそのアパートに住んでいた住人の方とも抱樸は関わっていたということも伺いました。
現在の日本における住宅政策の課題についても話をされました。
低所得で、高齢者で身内がいなくて保証人が立てられない方は住むところが見つけられない現状。 高齢者、低額所得者、子育て世帯、障害者、被災者等の住宅の確保に特に配慮を要する者について国土交通省では住宅確保要配慮者と言うそうです。
国土交通省のHPで
【平成29年2月3日に民間の空き家・空き室を活用して、高齢者、低額所得者、子育て世帯等の住宅確保要配慮者の入居を拒まない賃貸住宅の登録制度を創設するなど、住宅セーフティネット機能を強化するための「住宅確保要配慮者に対する賃貸住宅の供給の促進に関する法律の一部を改正する法律案」が、閣議決定された】という記事を見つけました。
それだけ、多くの住宅確保要配慮者が存在しているということだと思いました。
「暮らし」とは「人との関係」であり、「暮らしの質」を住まいとセットで考えないといけない。
住宅確保の際の債務保証と生活支援をNPOが行うというメニューを商品化しているところだそうです。
また、障害者施設で障害者19人の方が虐殺された相模原の事件のこともお話されました。
彼は確信犯であった。確信犯というのは「道徳的、宗教的または政治的信念に基づき、本人が悪いことでないと確信してなされる犯罪」のこと。
彼は日本のため、世界のためにやったのだと社会に貢献していると思ってやったと主張していました。
昔、横浜であった「横浜浮浪者殺人」。犯人は横浜市内に住む中学生を含む少年のグループだった。彼らは「おまえらのせいで横浜が汚くなるんだ」と叫びながら浮浪者に暴行を加えていたことや、警察の取調べに対しても「横浜を綺麗にするためゴミ掃除しただけ」と自供していたという。
社会の中で語られていない「本音」に彼らが応えただけではないかと奥田さんは言われていました。
経済至上主義における「生産性(金儲け)」が重要視され、生産性のないもの無用論にはしってしまっている。
カジノ法案が可決されたのもお金が儲かったらなんでもいいという発想から。
一方でギャンブル依存症対策を打ち出している。これはギャンブル依存になることを前提とした法案であることを白状していると同様。
「生産性圧力」の元で生きてきた少年
横浜ホームレス襲撃事件の犯人少年たちは、学校の中でまた家庭の中で生産性を上げられなかった子たちではなかったか。生産性を上げられない = 生きる意味がない
しかし、生産性を上げられない人を襲撃という手段で一掃することが「生産性を上げ、生きる意味を見出すことのできる唯一の方法」だったのかもしれない。
加害者である少年たちはまた生産性の圧力の中での被害者だったのではないだろうか。
奥田さんはこれまで「感情」を「仕組み」に変えてきたとのこと。
これこそNPOの原点ですよね☆.。.:*・
■奥田語録■
生産性って何ですか?
抱樸では自立率93%ですよ
生きる意味も希望も失っている方に関わって自立していく
これってすごく生産性高くないですか。
「意味のあるいのち」「意味のないいのち」があるわけではない
「いのち」に意味があるんです。
「出会い」に意味があるんです。
憲法13条 〔個人の尊重〕. 全て国民は、個人として尊重される。 生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限の尊重を必要とする。
「個人」として尊重され、幸福追求の権利があるんです。
わたしとあなたは「違う」。違っていても「尊重される」権利を有しているんです。
人は出会いによって変わる…しかし、変わらないホームレスも居る
変わるホームレスがいいホームレス?
変わらないホームレスは悪いホームレス?
そういう視点で見ると「分断」されていく(差別、排除の理論)
自立していく、自立の可能性のあるホームレスだけに関わればいいのか?
そういう方にだけ関わっていきたい思いになる。
「いいホームレス」と「悪いホームレス」という分断
「人はいつか変わる」と「人は変わらなくても生きる」2つのテーマの間で
身を裂かれ続けること。
効率性、生産性ではないところの出会いに感謝できるかどうか。
非合理的な選択が可能。それが人間であるということ。
安保法案成立のとき
「まず総理から戦場へ」という皮肉ったポスターが話題になった。
いのちの普遍的価値から見ると「誰ひとりとして戦場に行かせない」「安倍総理も戦争に行かせてはいけないんです!」ということなんです。
存在そのものに意味が有る
弱さを前提に社会構築をする
子どもはどうして「助けて」と言わないで死んでいくか
大人が「助けて」と言わないから
助けてというのは負けだから
親に迷惑掛けたくない
家族から迷惑をとったら何が残りますか
地域から迷惑をとったら何が残りますか
迷惑をかけることは悪いことという価値観
人はひとりでは生きていけない存在なんです
伴走支援というのは
関係に重きを置いている支援
誰に助けてと言えるか
例えていうと
専門家数人と太いパイプでがっちりつながるのではなく
(数本の太い線で専門家とつながるのではなく)
庶民の生活感の中にある感覚で、素人でたくさんの人とつながる
100本の糸で、途中で何本か切れても影響ない、そんな関係でのつながりづくり。
たくさんの人との細く長い糸でつながっていく感じ。
NPOと行政との関係性で大事なこと
@「言われなくてもやる 言われてもやらない!」
やるべきことは言われなくてもやる
言われてもやらない決断を担保できるか ポリシーに合わないことはしない決断
Aアドボカシー(提言)できるか
声無き声の代理的提言を届ける
B行政の委託事業だけではいけない
委託事業48%
自主事業と寄付 52%
寄付金は2,000〜3,000万円
団体の自由の担保を考える
オリジナルの事業、現場の強みを活かした事業をする
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
〜個人的感想〜
「人はいつか変わる」と「人は変わらなくても生きる」この2つテーマの間で身を裂かれ続けることです。
この言葉ものすごく心に響きました。
つい、相手に対してよりよい変化を求めてしまう、しかし、どうやっても変わらないことも多々多々あるわけです。大きなお世話なのか?けど、このままでいいの?矛盾と葛藤だらけ。
「変わる人がいい人、変わらない人が悪い人」という視点で見てしまったとき、人を差別して分断しているんです。人を分断をしている自分に対しても支援者なのにどうして相手を受け入れられないんだろうと自分を責めてしまい苦しくなることもあります。
分断することで自分自身をも分断の苦しさに晒してしまうという2重3重の苦しさを感じていました。
しかし、そういうことか〜と
【「人はいつか変わる」と「人は変わらなくても生きる」この2つテーマの間で身を裂かれ続けることです。】
そういうものなんだ。それでいいんだ、と思えとても勇気づけられました。
私自身がいつ「分断される側」になるかわからない
分断されないように頑張るのではなくて
生産性があるかないかという軸ではなく
生産性があってもなくても人は生きるという軸で
物事を捉えることができれば
どんな自分も生きていていいって思えとても楽になります。
生産性圧力から解放されることが人が自由に生きていけることにつながるような気がします。
そして「助けて!」って言っていいということ!
大人が「助けて!」って言わないから
子どもも「助けて!」って言えなくしている
生産性優先主義という圧迫された空気の中で孤立している子どもがいるだろうと思うと
苦しくなりました。
「弱いものが夕暮れさらに弱いものを叩く」そんな社会にしないために
「弱さ」を元にした社会構築ができたらな★
人間は弱い、ひとりでは生きられない存在だから助けてって言っていい。
人はいつか変わる
けど、変わらない人も居る
変わらなくても人は生きる
そんな普遍的なところに立ち返ることができたとても貴重な講演でした。
普遍的な「いのちの価値」というところに戻していただけたとても素敵な講演会でした。
いつか抱樸を絶対訪ねたいと思いました。
奥田さんの放っているエネルギーというかオーラ
それに触れるとすごく優しくたくましくなれる。
「このままでいいんだ」という安心感と
「でも現状に甘んじ続けていてはいけないな。よりよく変化していきたい。傷ついても
人と関わり合いたい。」という前向きな気持ちを
後押ししてくれるような強さも感じました。
こんな存在になりたいって思ってしまいました。
こういうことなんだ!
伴走型支援って!
美味しかったよ〜★格別☆.。.:*・
「人の弱さを認めること」ができる社会になれば
弱い「自分」が救われることにもつながっていく。
誰もが価値あるいのちをもった存在なのです★
講師として、NPO法人抱樸 理事長 奥田知志さんが来岡され「いのちの意味が問われる時代に 伴走型支援の可能性」と題して講演がありました。
まずは、北九州で起こったアパート火災のお話から。
北九州市であったアパート(簡易宿泊所)火災、そこで多くの犠牲者が出ました。貧困ビジネスを疑われていましたが、実はそうではないというお話やそのアパートに住んでいた住人の方とも抱樸は関わっていたということも伺いました。
現在の日本における住宅政策の課題についても話をされました。
低所得で、高齢者で身内がいなくて保証人が立てられない方は住むところが見つけられない現状。 高齢者、低額所得者、子育て世帯、障害者、被災者等の住宅の確保に特に配慮を要する者について国土交通省では住宅確保要配慮者と言うそうです。
国土交通省のHPで
【平成29年2月3日に民間の空き家・空き室を活用して、高齢者、低額所得者、子育て世帯等の住宅確保要配慮者の入居を拒まない賃貸住宅の登録制度を創設するなど、住宅セーフティネット機能を強化するための「住宅確保要配慮者に対する賃貸住宅の供給の促進に関する法律の一部を改正する法律案」が、閣議決定された】という記事を見つけました。
それだけ、多くの住宅確保要配慮者が存在しているということだと思いました。
「暮らし」とは「人との関係」であり、「暮らしの質」を住まいとセットで考えないといけない。
住宅確保の際の債務保証と生活支援をNPOが行うというメニューを商品化しているところだそうです。
また、障害者施設で障害者19人の方が虐殺された相模原の事件のこともお話されました。
彼は確信犯であった。確信犯というのは「道徳的、宗教的または政治的信念に基づき、本人が悪いことでないと確信してなされる犯罪」のこと。
彼は日本のため、世界のためにやったのだと社会に貢献していると思ってやったと主張していました。
昔、横浜であった「横浜浮浪者殺人」。犯人は横浜市内に住む中学生を含む少年のグループだった。彼らは「おまえらのせいで横浜が汚くなるんだ」と叫びながら浮浪者に暴行を加えていたことや、警察の取調べに対しても「横浜を綺麗にするためゴミ掃除しただけ」と自供していたという。
社会の中で語られていない「本音」に彼らが応えただけではないかと奥田さんは言われていました。
経済至上主義における「生産性(金儲け)」が重要視され、生産性のないもの無用論にはしってしまっている。
カジノ法案が可決されたのもお金が儲かったらなんでもいいという発想から。
一方でギャンブル依存症対策を打ち出している。これはギャンブル依存になることを前提とした法案であることを白状していると同様。
「生産性圧力」の元で生きてきた少年
横浜ホームレス襲撃事件の犯人少年たちは、学校の中でまた家庭の中で生産性を上げられなかった子たちではなかったか。生産性を上げられない = 生きる意味がない
しかし、生産性を上げられない人を襲撃という手段で一掃することが「生産性を上げ、生きる意味を見出すことのできる唯一の方法」だったのかもしれない。
加害者である少年たちはまた生産性の圧力の中での被害者だったのではないだろうか。
奥田さんはこれまで「感情」を「仕組み」に変えてきたとのこと。
これこそNPOの原点ですよね☆.。.:*・
■奥田語録■
生産性って何ですか?
抱樸では自立率93%ですよ
生きる意味も希望も失っている方に関わって自立していく
これってすごく生産性高くないですか。
「意味のあるいのち」「意味のないいのち」があるわけではない
「いのち」に意味があるんです。
「出会い」に意味があるんです。
憲法13条 〔個人の尊重〕. 全て国民は、個人として尊重される。 生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限の尊重を必要とする。
「個人」として尊重され、幸福追求の権利があるんです。
わたしとあなたは「違う」。違っていても「尊重される」権利を有しているんです。
人は出会いによって変わる…しかし、変わらないホームレスも居る
変わるホームレスがいいホームレス?
変わらないホームレスは悪いホームレス?
そういう視点で見ると「分断」されていく(差別、排除の理論)
自立していく、自立の可能性のあるホームレスだけに関わればいいのか?
そういう方にだけ関わっていきたい思いになる。
「いいホームレス」と「悪いホームレス」という分断
「人はいつか変わる」と「人は変わらなくても生きる」2つのテーマの間で
身を裂かれ続けること。
効率性、生産性ではないところの出会いに感謝できるかどうか。
非合理的な選択が可能。それが人間であるということ。
安保法案成立のとき
「まず総理から戦場へ」という皮肉ったポスターが話題になった。
いのちの普遍的価値から見ると「誰ひとりとして戦場に行かせない」「安倍総理も戦争に行かせてはいけないんです!」ということなんです。
存在そのものに意味が有る
弱さを前提に社会構築をする
子どもはどうして「助けて」と言わないで死んでいくか
大人が「助けて」と言わないから
助けてというのは負けだから
親に迷惑掛けたくない
家族から迷惑をとったら何が残りますか
地域から迷惑をとったら何が残りますか
迷惑をかけることは悪いことという価値観
人はひとりでは生きていけない存在なんです
伴走支援というのは
関係に重きを置いている支援
誰に助けてと言えるか
例えていうと
専門家数人と太いパイプでがっちりつながるのではなく
(数本の太い線で専門家とつながるのではなく)
庶民の生活感の中にある感覚で、素人でたくさんの人とつながる
100本の糸で、途中で何本か切れても影響ない、そんな関係でのつながりづくり。
たくさんの人との細く長い糸でつながっていく感じ。
NPOと行政との関係性で大事なこと
@「言われなくてもやる 言われてもやらない!」
やるべきことは言われなくてもやる
言われてもやらない決断を担保できるか ポリシーに合わないことはしない決断
Aアドボカシー(提言)できるか
声無き声の代理的提言を届ける
B行政の委託事業だけではいけない
委託事業48%
自主事業と寄付 52%
寄付金は2,000〜3,000万円
団体の自由の担保を考える
オリジナルの事業、現場の強みを活かした事業をする
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
〜個人的感想〜
「人はいつか変わる」と「人は変わらなくても生きる」この2つテーマの間で身を裂かれ続けることです。
この言葉ものすごく心に響きました。
つい、相手に対してよりよい変化を求めてしまう、しかし、どうやっても変わらないことも多々多々あるわけです。大きなお世話なのか?けど、このままでいいの?矛盾と葛藤だらけ。
「変わる人がいい人、変わらない人が悪い人」という視点で見てしまったとき、人を差別して分断しているんです。人を分断をしている自分に対しても支援者なのにどうして相手を受け入れられないんだろうと自分を責めてしまい苦しくなることもあります。
分断することで自分自身をも分断の苦しさに晒してしまうという2重3重の苦しさを感じていました。
しかし、そういうことか〜と
【「人はいつか変わる」と「人は変わらなくても生きる」この2つテーマの間で身を裂かれ続けることです。】
そういうものなんだ。それでいいんだ、と思えとても勇気づけられました。
私自身がいつ「分断される側」になるかわからない
分断されないように頑張るのではなくて
生産性があるかないかという軸ではなく
生産性があってもなくても人は生きるという軸で
物事を捉えることができれば
どんな自分も生きていていいって思えとても楽になります。
生産性圧力から解放されることが人が自由に生きていけることにつながるような気がします。
そして「助けて!」って言っていいということ!
大人が「助けて!」って言わないから
子どもも「助けて!」って言えなくしている
生産性優先主義という圧迫された空気の中で孤立している子どもがいるだろうと思うと
苦しくなりました。
「弱いものが夕暮れさらに弱いものを叩く」そんな社会にしないために
「弱さ」を元にした社会構築ができたらな★
人間は弱い、ひとりでは生きられない存在だから助けてって言っていい。
人はいつか変わる
けど、変わらない人も居る
変わらなくても人は生きる
そんな普遍的なところに立ち返ることができたとても貴重な講演でした。
普遍的な「いのちの価値」というところに戻していただけたとても素敵な講演会でした。
いつか抱樸を絶対訪ねたいと思いました。
奥田さんの放っているエネルギーというかオーラ
それに触れるとすごく優しくたくましくなれる。
「このままでいいんだ」という安心感と
「でも現状に甘んじ続けていてはいけないな。よりよく変化していきたい。傷ついても
人と関わり合いたい。」という前向きな気持ちを
後押ししてくれるような強さも感じました。
こんな存在になりたいって思ってしまいました。
こういうことなんだ!
伴走型支援って!
美味しかったよ〜★格別☆.。.:*・
「人の弱さを認めること」ができる社会になれば
弱い「自分」が救われることにもつながっていく。
誰もが価値あるいのちをもった存在なのです★