比残留日系2世 新たに姉弟3人の就籍認める 3件目、父は沖縄出身 [2008年03月28日(金)]
![]() 日本国籍取得が認められた神山さん3姉弟(提供:PNLSC) 戦争の混乱で日本人の父親の戸籍が確認できないままフィリピンに残された日本人2世の姉弟3人が日本国籍取得に向け就籍を求めた審判で東京家裁は3月26日、これを認める決定を出し、28日までに3人に伝えられた。フィリピン残留2世の就籍が認められたのは3回目、計7人となった。近く本籍地を置く東京都千代田区に就籍届けを提出し、晴れて日本国籍を取得する運びとなる。 新たに就籍が認められたのはフィリピン・ミンダナオ島タグム市に住む神山ローレンシアさん(85)=日本名ツキコ=、アンドレスさん(82)=同シゲル=、サルッドさん(79)=同サツコ=の3姉弟。父親の神山鴻助さんは沖縄県・名護の出身で、戦前、ミンダナオ島に渡り塩や米、砂糖などの行商をし、1915年、現地女性と結婚、3人を含め計9人の子をもうけた。(写真:3人が住むミンダナオ島の街なみ) ところが1930年、マラリアで急死。残された妻子は、その後、勃発した第2次世界大戦で日本軍に自宅を提供するなど協力を求められたが、終戦時には、10年以上前に鴻助さんが亡くなっていたこともあって日本に送還されることなく現地に残留した。5男4女の姉弟のうち6人は既に亡くなり、残った3人が2006年8月、就籍の申し立てを行い、同10月には父親の出身地、沖縄を訪れ、父親の戸籍は確認できなかったものの従兄弟との面会を果たし、今回の就籍に道を開いた。(写真:沖縄を訪れた神山さん姉弟)東京家裁は従兄弟の存在のほか、フィリピンの教会に残された「コウスケ カミヤマ、出身日本、沖縄県」の記載などを決め手に申し立てを認めた。3人には日本財団などの支援を受け現地で残留2世の支援活動を進める「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」(PNLSC)のメンバーから東京家裁の決定が伝えられ、3人はそれぞれ「うれしいのひと言」(ツキコさん)「我慢してきた甲斐があった。就籍が認められたことですべてが報われた気がします」(シゲルさん)「日本人の子と認められ何の問題もなくなった」と喜びを語った。 3人はいずれもフィリピン人と結婚、8人から13人の子宝に恵まれ家族と生活している。3人が日本国籍を取得すると、3世、4世にも日本での就労の道が開かれることになる。 これまでに就籍が認められた3件のうち1件は父親の身元が判明していたケースで、父親の戸籍が確認できないまま就籍が認められたのは2件目。東京家裁にはこのほか55人が就籍の申し立てを行っており、PNLSCや代理人を務める「さくら共同法律事務所」によると、ほかの残留2世に関しても順次、就籍の申し立てが行われる予定。 (英文記事はコチラ) |






新たに就籍が認められたのはフィリピン・ミンダナオ島タグム市に住む神山ローレンシアさん(85)=日本名ツキコ=、アンドレスさん(82)=同シゲル=、サルッドさん(79)=同サツコ=の3姉弟。父親の神山鴻助さんは沖縄県・名護の出身で、戦前、ミンダナオ島に渡り塩や米、砂糖などの行商をし、1915年、現地女性と結婚、3人を含め計9人の子をもうけた。(写真:3人が住むミンダナオ島の街なみ)
ところが1930年、マラリアで急死。残された妻子は、その後、勃発した第2次世界大戦で日本軍に自宅を提供するなど協力を求められたが、終戦時には、10年以上前に鴻助さんが亡くなっていたこともあって日本に送還されることなく現地に残留した。5男4女の姉弟のうち6人は既に亡くなり、残った3人が2006年8月、就籍の申し立てを行い、
体験クルーズは、1978年に「少年の船」として中学生・高校生を対象にスタート。寄港地はグアム・サイパンだった。98年からは現在の体験クルーズに名前を変え、99年からは小中学生(小学4年生−中学3年生)を対象にし、02年からは寄港地を「東洋のガラパゴス」といわれる小笠原に変更し、現在に至っている。(写真:あいさつする笹川会長)

