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子どもの持つ可能性 [2019年04月19日(Fri)]
子どもはみんな、どんな子であっても、たくさんの可能性を持っています。

もちろん、すべての子どもたちが同じ可能性を同じだけ持っているわけではありません。が、どの子どもも、とても大きな可能性を秘めています。

その可能性がどう引き出されるか、また、それらをふいにしてしまうのかは、子どもたちが子どもである時をどう過ごすかにかかっています。よって、子どもたちの過ごしている今という時間は、人生の中で非常に大切な時である、と言えます。

この貴重な時間の中で、子どもたちは学校に通っていろんなことを学びます。

子どもたちは好奇心旺盛で、あらゆることに興味を持ちます。そして夢中になれば、大人にも負けない集中力を発揮し、物事を習得することができます。この“学び”に最適な時期をどう使うかということが、子どもの秘めた可能性を活かせるかどうかに大きく係わってきます。

“学び”とは、がむしゃらに暗記することや、知識をただ受動的に記憶しておくことではありません。

新たな知識を自分の頭の中で処理する、つまり、“考える”ということを行うことで、それを理解して吸収することが、“学ぶ”ことです。そして学んだことは、次の“学び”につながります。またそれは、数年後には頭からすっかり消えてしまうような、一過性のものではありません。

親が子どもの“学び”をどれだけ真剣に捉えるかということが、子どもの可能性を左右します。しかしこれは、どんないい学校や塾などに通わせるかというようなことを指しているのではありません。念のために確認しておきます。
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私たちの個性 [2019年04月12日(Fri)]
人には個性があります。

私たちひとりひとりは、それぞれに違った素質や特性や能力を持って生まれてきました。そして、それぞれが違う環境の中で育ちました。その結果出来上がった、私たちの持つ性質が、個性です。

では、なぜ私たちに個性があるのでしょうか。

人類が皆同じように、知能が高く、容姿端麗で健康で、身体能力も優れていれば、今より優れた世界ができると考える人もいるでしょう。昨今では、デザイナーベビー(受精卵の段階で遺伝子操作を行うことによって、親が望む外見や体力・知力等を持たせた子供の総称。出典:ウィキペディア)なるものまでが取沙汰されています。

けれども、私たちがみんながすべてにおいて優れているというわけではなく、得意不得意を持ち合わせているその多様性は、偶然できた、不完全なものではありません。個性には、意味があります。

もし私たちが、工業製品のように画一的で、同じような質を持った個の集団であったなら、まず生物として、ひとつのウィルスか何かの襲来で、一気に消滅してしまう可能性が高くなります。そしてもうひとつ、現在の私たちの世界の技術や文明は、実現されることはなかったと考えられます。例えば、前世紀には考えられないような高層ビルを建築するために必要なのは、優秀な建築家の頭脳だけではありません。さまざまな人の知恵や知識とともに、物理的にビルを建てる工事を行う人々の膨大な力も欠かせません。このように考えるならば、人類の進歩は、私たちひとりひとりの多種多様な能力に支えられてきたということが言えます。

ですから、他人との違いは、我々人類の強みです。

他の人にできることが自分にはできないことを卑下する必要は、まったくありません。それは自分の個性です。自分の子どもが、算数が苦手でも、逆上がりができなくても、手を挙げて発言できなくても、まずはそれを個性として受け止めてあげることから始めると、親である自分も子ども本人も、ずっと楽に、前向きに生きられることと思います。
なぜ勉強するのか [2019年03月26日(Tue)]
子どもたちは毎日学校に通い、勉強します。が、なぜ勉強しなければならないのでしょう。考えてみたことがありますか?

たとえば、料理人になりたいから調理を学び、海外派遣されるから英語を学ぶ、などというように、義務教育以外のところで何かを学ぶとき、何を学ぶかは、目的や目標によって決まります。ですから、「○○のために○○を学ぶ」ということが明らかです。

では、子どもたちは、何のために学校教科を学ぶのでしょうか。

まず漢字や九九の計算などの基礎的な知識は、大人になっても役に立ちますし、必要です。ですから、苦労してでも覚えなくてはならないのは納得できます。けれども、一般的な人が社会生活を送る中で、方程式や元素記号や歴史の年表が必要になるときなど、ほぼありません。なのにどうして、そのような勉強が、学校のカリキュラムに組まれているのだと思いますか?

さまざまな知識を持つための学習、ということも言えますが、子どもたちが勉強することには、それよりもっと重要な意味があります。

それは、子どもたちが、「考える」ことを覚えるためです。

私たち人類は、「考える」ことができます。「考える」ことによって、生活をより豊かにより便利にし、社会を発展させ、認知できる世界をあらゆる方向へ広げてきました。そのおかげで今私たちは、優れた技術や文明、文化に囲まれて過ごしています。

そして「考える」ことは、社会レベルのみならず、私たちひとりひとりの人生においても、非常に重要なことです。自分が何をしてどう生きるかは、自分が何をどう考え、どう行動するかにかかっており、つまり、自分の「考え」のクオリティは、自分の人生のクオリティに直結するといえます。

そういうわけで子どもたちは、学校教科を通し、「考える」訓練を日々行うことで、よりよい社会が作れるよう、またよりよい人生が送れるよう、準備を重ねています。勉強することの意味は、そこにあります。
子どもたちを「立派な人」にするために [2019年03月15日(Fri)]
すくすくと育つ子どもの親が、自分の子どもが立派に成長し、幸せになってくれることを望むのは当たり前のことです。子どもが幸せな人生を送るために、『こうなってほしい』『こんな人生を歩んでほしい』という親の考えがあることでしょう。

たとえばそれが、「東大に入って官僚になるエリートコース」だとしましょう。もしそのコースを目指すならば、まずは「東大の入試に合格すること」が必然です。そして往々にして、親の希望は子ども本人の希望となり、「東大合格」=「幸せになれる」という構図ができます。そうすると、その子どもと親の絶対的目標は「東大合格」です。それが唯一、幸せな将来を勝ち取る手段であると信じ、受験に向けて、親も子どもも必死になります。

たいていの場合、子どもの価値観は、自分を育ててくれる親の価値観に大きく影響されます。ですから、親が「東大合格」=「幸せになれる」という考えを持っていれば、子どもがそれをそのまま信じてしまうのも無理はありません。また、子どもの多くは、親の期待に応えたいという思いで行動します。そうして親の描いたエリートコースは、子どもにとって絶対に外れることのできない道となり、その登竜門をくぐれないこと、つまり東大不合格は、その親子にとって、子どもの幸せな人生への道が閉ざされたことを意味し、まるでその子どもには将来がないかのような絶望を感じてしまいます。

しかしよく考えてみると、「東大・官僚エリートコース」はもともと、親の考えた、子どもが幸せになるための道でした。もし東大に合格し、晴れて官僚になれたとしても、結果、親を喜ばせることはできたところで、その子どもが幸せな人生を送れる保証はどこにもありません。大事なのは、子ども自身の考えと、それに基づく行動です。

親にしてみれば、『子どもにはまだ適切な判断ができないから、代わって私たちが』という思いがあってのことであり、子どもの将来を決めてあげることについて、何の違和感もないのかもしれません。しかし、子どもの人生は子どものものです。親の希望や願望だけで子どもの歩む道を決めてしまうのは、不条理です。

それならば、親は子どものために、何をすればよいのでしょうか。

子どもに判断する力がないと思うならば、判断できる力を養ってあげましょう。いちばん大切なことは、親が考えてあげる前に、子どもが自身で「考える」ことです。

子どもたちはその身体と心が、日に日に成長しています。成長過程の半ばであるからこそ、訓練が必要です。もちろん子どもはその未熟さゆえに、失敗や過ちを繰り返します。けれどもその失敗や過ちによって、さまざまなことを学ぶことができます。失敗したら怒られるから失敗できない、ではなく、失敗したときに自分がどう感じたか、その失敗についてどう考えるかをその都度確かめることが重要です。自分が感じたことをそのまま受け止め、そこでよく考えてみる。そうした訓練を行うことで、子どもたちは「考える」ことを覚えます。「考える」力がつくと、物事を判断する力もつきます。

「○○になりたい」「○○大学に行きたい」という子どもの希望があれば、なぜそれになりたいのか、なぜその大学に行きたいのかを聞いてあげてください。子どもなりの考え、子どもなりの判断を尊重することが、子どもの幸せにつながります。もちろん親の立場でアドバイスをすることは悪いことではありませんが、子どもの考えや判断を否定したり、親の考えを押し付けることは決してやるべきではありません。明らかな間違いがあれば、そこからさらに考えてみるよう促すことができます。

ではもし、判断をゆだねたその子どもの決断が、後に間違っていたとわかったらどうしますか。

子ども自身に責任を取らせます。親はある程度の援助をしたとしても、全くの尻拭いをしてあげたり、その間違った判断について攻め立てたりするべきではありません。違法なことでもない限り、子どもが自分でよく考えたうえで、修正してやり直せばいいだけのことです。そして、次回に行う決断は、以前より賢いものになるはずです。

そのように、何事についても自分の考えを持ち、他に流されることなく、いろいろな経験を積み重ねていくならば、必ず「立派な人」に育ちます。たとえエリートコースを選ばなくても、とても幸せな人生を送れるはずだと思います。
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すべての子どもたちが、「立派な人」に育ちますように [2019年03月11日(Mon)]
私は、すべての子どもたちに、「立派な人」に育ってほしいと願っています。
すべての子どもたちに、「立派な人」になる素質があります。

では、「立派な人」とはどんな人でしょうか。

地位や名声のある人は立派だと、多くの人は考えます。しかし私たちの周りをよくよく見てみると、地位も名声もないけれどとても「立派な人」がいます。
すばらしい発明やすごい発見をした人も立派かもしれませんが、そんなことをしていなくても「立派な人」になることはできます。
何でも知っていて何でもわかる人も立派かもしれませんが、そうでなくても、「立派な人」はたくさんいます。
子どもを持つ親であれば、いつもテストでいい点を取って、親や先生の言うことをよく聞き、入りたい大学に合格できるような子どもは、将来、立派な大人になると考えるかもしれません。でも、子供のころは学校の成績はあまりよくなくて、やんちゃで、志望した大学には落ちたけれども、とても「立派」に育った人もいます。

「立派な人」とそうでない人の違いは何なのでしょう。

まず「立派な人」は、いろいろな経験とたくさんの失敗からできています。子どもの頃から経験と失敗を繰り返すことで、人は「立派」に成長します。そうでない立派さは、本当の立派さではないかもしれません。

それから、「立派な人」には誇りがあります。自分が生きる道は自分で決め、自分で切り開き、その道を一生懸命に歩いてきたという誇りです。
自分の人生は、自分にしか生きることができません。親にも兄弟にも、自分の人生を生きてもらうことはできません。ですから、自分以外の人から意見や助言をもらうことはできても、最後に決めるのは自分自身です。そして自分で決めたことは、それがよかろうと悪かろうと、すべて自分の責任です。
それは当たり前のことのようでも、そういう覚悟で生きることができない人もいます。そんな人はやはり、「立派な人」にはなれないでしょう。

そして、「立派」に育った人は幸せです。物質的な豊かさとは次元の違う、心の豊かさがあるからです。つまり、「立派な人」になることは、「幸せ」になることです。

ですから私は、すべての子どもたちに「立派な人」になってもらいたいと思います。
そして、ひとりでも多くの子どもたちが「立派な人」に、そして幸せになれるお手伝いをしたいと考えています。