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幼児さんから、小・中・高・大学生・大人まで学べる塾「スペースわん」での出来事や
子育て中のパパさんママさんへのメッセージ、
そして、介護中のみなさんへお伝えしたいこと、などを
つらつらと書いてみます。
安心子育て、応援したい。安心介護も、応援したい。
そんな私の学びやつながりも紹介します。
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「介護」の「初期」と「不登校」の「初期」と [2014年06月20日(Fri)]
1995年から月1回
「不登校の子をもつ親の会~河内長野で集まる会~」を
開いてきました。

そのいきさつも含め、
今回、名称を変えるにあたり、
次のような文章を
「学校に行かない子と親の会(大阪)」の会報である
「ココナッツ通信」No.182に載せていただきました。

その文章でも少し触れていますが、
「認知症」だとはっきりするまでのしんどさと、
「不登校」ではないけれど、
学校に行きしぶっていたりする状態のしんどさとが、
私の中でつながっています。

以下、「ココナッツ通信」の原稿から
一部省略して載せさせていただきます。
チラシもアップしておきますね。

「河内長野で集まる会」は、
名称を変更します!
~「初期」のしんどさ分かち合える場に~

1995 年 11 月発行の会報第 53 号に、
「河内長野でおしゃべりしませんか? 
学校に行かない子と親の会(大阪) 会報読者交流会 IN 河内長野」
というお知らせが載りました。
ココナッツ通信の情報コーナーに毎月載せていただいている
「河内長野で集まる会」の誕生です。
きっかけは、その前月10月発行の会報第52 号に載せて下さった「スペースわん」の案内。
この年の7月に私は、
学校に行っていない子も行っている子も学べる塾
「スペースわん」 を開塾したのです。
高校教師を辞めて始めた教室の最初の生徒さんが不登校で、
私自身が情報を得たい・勉強したいという思いで
例会に参加しました。
掲載された案内を見て、
「河内長野でも集まりたい」と声をかけて下さって、
「河内長野の会」ができて早19年。
様々な出会いがありました。
参加者が 15 人以上の頃もありましたが、
最近は少人数でじっくり話ができる
こじんまりとした会として続けています。
この間、状況は変われど、親御さんの悩み、
そして、「場」の必要性は変わらないと感じています。

「スペースわん」で学習支援を19 年続けてきて
痛感していることがあります。
「こんなに長い間しんどい思いをする必要はなかったんだよ」
と言いたくなるケースが 結構多いということ。
「初期」のつまずきをほったらかして「前へ前へ」と、
その子のペースを無視して勉強を強いられるしんどさ。
それが積もり積もってからうちへ来られるのを見ると、
「もう少し早く出会えていれば、
親御さんも子どもさんももっと楽だったかもしれないのに」
という思いにかられるのです。
そして、私自身、
認知症の親の介護を通じて痛感していることがあります。
それは「『初期』がしんどい」ということ。
もちろん、介護度が上がれば、
介護はそれだけ大変になるわけですが、
「初期」のしんどさは、
「頭では理解できても、受け入れることができないしんどさ」
「周りにわかってもらえないしんどさ」で、
それは精神的にとてもつらいのです。
一見「普通」に見える親の
ささいな日常の 「?」な言動にイライラし、
それを許容できない自分を責めてしまう・・・。
これは、不登校の子をもつ親御さんも同じではないかと。
つまり、「学校へ行っているけどしんどそう」
「行きしぶり始めた」といった「初期」 の段階で、
そのしんどさを安心して話せる場に出会えるこということは、
大事なのではないかと思ったのです。
「不登校」になる前から始まっているしんどさを
長い間抱え込み、
積もり積もって苦しい思いをする前に、
早めに分かち合えたら・・・。
そんな思いから、
「不登校の子をもつ親の会~河内長野で集まる会~」は、
「子どもについての悩みを語り合う会 in 河内長野
   ~不登校・いじめ・行きしぶり・ひきこもり etc~」に
名称を変更します。
それに伴い、チラシを新しく作りました。


子どもについての悩みを語り合う会 のコピー.jpg
Posted by 永田 at 22:23
一見大変そうではない時のしんどさ [2013年09月06日(Fri)]
なぜ、カテゴリに「子育て・教育」や「介護」とは別に、
あえて「介護・子育て」を作ったのか、
その理由を今回書かせていただきます。

簡単に言えば、8/4の記事のタイトルどおり、
「介護と子育て、共通点あり!」
と感じる点が多々あるからです。

母の言動に「?」が浮かんでから、
「認知症」と診断されて介護認定を受け
「要介護1」と認定されるまで、3年かかりました。

ヘルパーさんに訪問してもらって、
塾のある日の夕食を作ってもらったり、
デイサービスを利用するようになるには、
そこからさらに1年かかりました。

その後、「要介護3」→「要介護4」と認知症は進み、
デイサービスに行く日を増やし、
ショートステイの泊数も増やしつつ
(「もう『ショート』やないやろ!」「『ロングショート』? 言葉おかしくない?」とツッコミながら)、
何とか在宅介護を続け、
グループホームに入居するまでさらに3年。

大変さがわかりやすいのは、
グループホームに入居する直前の具体的な介護でしょう。

でも、精神的にきつかったのは、
「認知症」と診断されるまでの初期の段階でした。

たま〜に、今までの母ならやらなかったようなことが起きる。
これは、誰にでも訪れる「老い」によるものなのか? 
はたまた「認知症」の前兆なのか?

普段は今までと変わらないので、周りからは、
「お母さん、しっかりしたはるやん」
「うちの親もそんなことあるで」
「自分も最近よう忘れるし」
「年取ったら誰でもそんなことあるよ」
と言われるわけです。

でも、一緒に住んでいると、どうもおかしい。

それが「誰にでも訪れる老化」であるならば、
それを受け入れない私は、ダメな娘?
もっと大変な介護をされている方が大勢いらっしゃるのに、
この程度のことでイライラしている私はなんて親不孝者!

そんなふうに思ったりもしました。

介護関係の講演などを聞きに行ったり、
認知症関係の本を読んだりしても、
知識や知恵はもらえるけれど、
その通りにうまく対処できない自分への自己嫌悪は増すばかり。

そういう時に助かったのはやはり、
8/4の「介護と子育て、共通点あり!」に書いた
「ただ聴いてくれる人たち」の存在でした。

すぐに解決策が出てくるわけではありません。
逆に、すぐに「こうしたらいい」みたいなことを言われても、
状況や環境が違ったり、母と私の関係においては無理だったり、
言われた通りできなかったりするとかえってしんどくなるので、
「ただ聴いてくれる」というのが、
寄り添ってもらっている感じで、ありがたかったのです。

この、「一見大変そうではない時のしんどさ」は、
子育ても同じではなかろうか、と思うわけです。

子育て中は、自分の子どもの成長に一喜一憂し、
「他の子よりも遅いんじゃないか」
「他の子と何か違うんじゃないか」と
不安になることも多々あるかと思います。

「何かおかしい?」
「もしかしたら『発達障がい』?」と思ったり、
「いやいや、子どもによって発達の仕方は違う」
「これも個性?」と思ったり。

もし、そこで、何らかの「障がい」が見つかったとしたら、
それはそれで大変ではありますが、
「じゃあどうする」という具体的な問題になります。

でも、そうでなかったら、「なら、頑張らせなくちゃ」
「他の子と同じようにさせなくちゃ」という意識が強くなり、
それでも子どもは思うようにならず、イライラし、
親子ともども追い詰められてしまうこともある。

赤ちゃんの頃や、ヨチヨチ歩き出した頃、また、反抗期も、
大変は大変だろうけど、
比較的その大変さはわかってもらいやすい。

でも、ちょっとしたことで「『親が甘やかしたから』と言われるんじゃないか」と思ったり、
無意識のうちに入り込んでくる「今のままではダメですよ」的な「不安をあおる情報」によって、
「うまく子育てできていない私はダメな親?」
「こんなのんきな子育てしているようじゃ取り残される?」
なんて思いながら、日々子どもに接する。

そうすると、いつのまにやら、
親御さん自身も自己否定的になり、
子どもを必要以上に追い込んでしまったりする。

さらに、そうなってしまっている自分に自己嫌悪。

これが、目に見えない子育てのしんどさではないかと思います。

たぶん、後から振り返れば「気にし過ぎだった」とか思えるのだろうと思いますが、
その渦中はやっぱりしんどい。

そんな時、必要なのは、
「こうしたらいい」というアドバイスよりも、
ただそのしんどさに寄り添ってくれる存在なのではないかと思うのです。

アドバイスは、その子の「今」をよく知っている人が的確にしてくれるものであればいいですが、
一般的に「こうあるべき」といったものや
「うちの子の場合はこうしたらうまくいった」といったものは、
かえってしんどくさせることも多々あるのではないでしょうか。

「介護」でも「子育て」でも、
一見「正論」に見えることが、
人を追い込んでしまうことがあると思います。

まずは、状況も個性も違う一人一人に寄り添って、
その人の「今」の「表には出にくいしんどさ」を聴いてくれる存在が必要な気がします。

子育てや介護に関するいろんな講演や本もありますが、
それらで「こうすればうまくいく」的な知識を得るよりも、
日常のちょっとした不安や愚痴を聴いてくれる存在を一人でも多く作る方が、
「安心子育て」「安心介護」につながる気がするのです。
Posted by 永田 at 16:53
介護と子育て、共通点あり! [2013年08月04日(Sun)]
昨日は、河内長野の認知症介護者家族の会に参加。
ご夫婦間で介護されている方が多い中、子どもが親を介護する立場で話ができる方と、終了後、個人的におしゃべり。

大勢の中で話したいことと、個人的に話したいことと、両方あるんですよね。
大勢の中では、いろんな方から情報をもらいたい。
個人的には、愚痴を聞いてもらいたい。

私は、今は母がグループホームに入ったので一段落して心の余裕もできてきましたが、以前は、ともかく話(ほぼ愚痴)を聞いてもらいたかった。
いやもう吐き出したかった。

家族の会には、本当にいろんな情報をいただき、お知恵をいただきました。
うちでやり始めた「介護の会(今は「ライフロード〜『介護』や『老い』について語り合う会〜」)」でも、さんざん話を聞いてもらいました。
大阪狭山市男女共同参画推進センターきらっとぴあでやっている「しゃべり場きらっとぴあ」(以前の「話そう聴こう会」)のみなさんにも、愚痴を吐き出しまくりました(笑)。

と同時に、「スペースわん通信」を購読して下さっている方に配達した時に、個人的にいろんな方に愚痴を聞いていただいたことで、気持ちが楽になって何とか乗り切ってきました。

本当にもう、みなさんに感謝感謝!です。

なので、今度は私が聴く番です。

今思うのは、子育て中の親御さんも同じなのではないだろうかということです。
今は、いろんな子育て支援があるし、ママさん同士の交流の場もあると思います。
でも、その中でも話しにくいことはあるでしょう。
個人的に愚痴を言える関係を持てていればいいけれど、そうでないと、ママさん同士の交流自体がストレスになることだってあるのではと思ってしまいます。
何せ今は、子育て不安・教育不安をあおる情報があふれているので、お互いの「よかれ」と思っての情報交換が、かえって不安につながることもあるのでは?

私の場合は、たまたま通信配達によるつながりがあったことで、いろんな立場の方に個人的に話を聞いていただけたけれど、普通はそういう機会は少ないのではないでしょうか。

実感としては、個人的に愚痴を聞いてもらえる相手は、できれば多い方がいいように思います。
というのは、相手の方に負担がかかりにくいから。
特定の人にいつも聞いてもらうことになると、こっちも遠慮してしまいますしね。
いろんな「聴き方」をしてもらうことによる「発見」もあるでしょうし。

そういった、「子育て中の愚痴を言える個人的つながり」をたくさん持てると、親御さんもちょっと楽になれるのかなあと思います。

「聴く」だけなら私もできるかな〜と思うので、そのつながりの中の一人になれたらと思ったのでした。
「子育て」でも「介護」でも、ね。
Posted by 永田 at 23:51
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