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子どもと親の心を癒すクリニクラウン [2008年01月31日(Thu)]

チャイケモの目指す「がんになっても笑顔で育つ!」を実現するために、日々、試行錯誤しながら息子、結人との闘病生活を送っています。幸い、周囲のたくさんの方々に心からのサポートによって子どもも親も笑いの多い毎日を過ごさせて頂いています。
今回の闘病生活で、あらためて「すごいっ!」と感激したのは「クリニクラウン」の存在です。
以前よりインターネットクラウニング(パソコンの画面を通して、リアルタイムでクラウンと1対1のコミュニケーションがとれます)のモニターなどで、関わらせてもらっていたのですが、今回の再発により退屈な子どもと不安な親の心の拠り所となってくれたのがクリニクラウンでした。
阪大での病棟訪問は、まだ実施されていませんが外泊したときの週に1度のインターネットクラウニングにより、結人の心は確実にクラウンに近づいてゆきました。
クラウンは、決して「がんばってね」とか「大変だろうけど」とか、「しんどい?」とか聞きません。
大人が見ていても思わず笑ってしまうコミカルな動作とともに、「ぼくはこんなことできる、ゆうとは?」というような語りかけをしてきます。子どもはもちろんゲラゲラと笑ったり、クラウンに「そんなんちがう!!」とつっこみをいれたりっ!!

子ども達は(少なくとも私の子どもは)、誰かに応援してもらうより、誰かとあそびたい。
「がんばってね。」と言われるより、「ゆうと〜、きょうはこれしてあそぼう!」と言われたい。
これは、自分の子どもが入院しないとわからないことでした。
クリニクラウンは子どものそんな心を見事に受け止めてくれています。

素晴らしい技術と、あたたかい心をもつクラウンたちが、結人と私の心をここまで癒してくれるとは、、
クリニクラウンに感謝。。。です。
クリニクラウン!これからもがんばってくださいね!そしてチャイケモの新施設ができたら、ぜひ訪問してもらえるように、チャイケモブログを見て下さっているみなさまも日本クリニクラウン協会を応援していただけると嬉しいです!
日本クリニクラウン協会 http://www.cliniclowns.jp/
<写真>クリニクラウンからのクリスマスメッセージの入ったDVDを見て喜ぶ結人と結人のお父さん
痛くて怖い検査 @ [2008年01月30日(Wed)]

入院中は色々な検査があります。
子どもにとってはほとんどが痛みや恐怖を伴います。
同時に私にも検査の日には恐怖や緊張が襲いました。
ほとんどの子どもが検査時には鎮静剤を使い無理やり寝かせます。
痛みと恐怖の緩和のため。また、ほとんどがしばらくの間、じっとしていなければならないからです

鎮静剤を注射器でIVHにつながったルートから注入します。
もしものときの呼吸補助器を用意し、足の指には酸素飽和度を測定するための機械をつけます。
恐ろしいくらいの威力です。Sは最初使ったときには目の前で一瞬にして寝てしまいました。
今までニコニコ笑ってお話していたのに、瞬時に寝てしまいました。とても怖くなったのを覚えています。そのまま画像検査に入りました。

検査が終わるとホッとしますが、その後、結果を聞くまでに要する数日は気になって気になって、ストレスフルな状態がつづきます。

マルクという検査があります。
骨髄にものすごく太い針を刺し、骨髄液を採取する検査です。
大人にとってもとても痛くて恐ろしい検査だと言うことです。使用する器具はまるでコルク抜きのようでした。
数人の医療者がSを取り囲みます。
実際に作業をするスタッフとその周りで見学をするスタッフでしょうか。
一度処置の最中に覗いたとき、一人のドクターが娘に馬乗りになり、採取をしていました。
裸になり、うつ伏せに寝かされたSの小さなお尻。小さな背中。。。針を刺す作業をしているドクターの力で背中が「ぎゅっぎゅっ」と押されて、反るのが見えました。
とても力のいる検査のようです。
検査後はたくさんの消毒液がついたガーゼがものすごい粘着力のテープでとめられて帰ってきます。オムツにも消毒液がたくさん付いています。
そのテープをはがすのも親子とも大変苦労します。下手すると皮膚が一緒に剥がれてしまいそうな粘着力のテープです。
それをはがすときは、針を刺すときと同じくらいの悲鳴をあげます。とても痛そうでした。
「ごめんな、ごめんな、、、がんばれ、がんばれ」と水でぬらしたり、引っ張る方向を変えて見たり、、、と色々試しながら私がはがします。
看護師さんに相談したら一度「こんな良いものがあるんですけどね、、、」とテープの上から綿花にしみこんだ液体をテープにしみこませると嘘みたいにスッと剥がれるものを戴いたことがあります。「今度も、これちょうだいっ!!」とお願いすると、ダメだということでした。高価なものなので、もう病棟で買うのをやめることになってしまったということでした。

「子どもが痛いとき」というのは大人の常識の範囲の中で想像することだけではありません。
針を刺すことも、テープをはがすときも、血圧を測るときも、同じくらい痛かったり、嫌だったり、怖かったり、辛いことなのだと思います。

私自身、年に2、3回くらいのことならなら「我慢しなさい」と言うと思います。
でも、この子達はほぼ毎日、痛くて、怖くて、しんどい日々を余儀なくされているのです。
「したいっ!」と思うことはほとんどできない、我慢ばかりの生活を送っています。
とても頑張りやの子どもたちに、私はできるだけ頑張らせたくなかったです。

つづく

クローバーまさみさまクローバー
They Dance Alone [2008年01月29日(Tue)]

2007年再結成されたポリスの大阪公演が2月に迫っていますね。
ポリスの活動休止中にソロで活躍したスティングの作品に「They Dance Alone」という曲があります。
南米チリでは、1974年代から1990年にかけてアウグスト・ピノチェト元大統領が軍事独裁政権を振るっていました。
彼が権力を維持していた期間に、「行方不明、虐殺」となった「政治犯」、は諸説ありますが、1万人はくだらないと言われています。
この軍事政権下で配偶者、息子たちを奪われた女性たちが政権に対して、ある「無言の抗議」行いました。それは、チリの伝統的なダンス、クエッカを「独りで」踊るというものです。
本来は男女のペアがハンカチを振りながら踊るのですが、「独りで」踊ることによってパートナーを帰せ!という意志を示したのです。最初は少数で始まった「ダンス」が、徐々に広がりました。
この「ダンス」を歌ったのが、前述の「They Dance Alone」という曲です。(曲の途中、「Hey!Mr.Pinochet〜」と名指しで呼びかけるくだりは圧巻です)

アメリカ公民権運動の母と呼ばれる「ローザ・パークス」
1950年代当時、アメリカではジム・クロウ法により、バスで黒人は白人に席を譲らなければいけませんでした。仕事帰りのローザが席に座っていたところ、白人に席を譲るように運転手から命令されましたが、拒否したことにより彼女は逮捕されます。
このことに端を発して、モンゴメリー・バス・ボイコット運動が始まり、マーチン・ルーサーキング牧師が中心となった非暴力による公民権運動が本格化します。

歴史の表舞台に華々しく登場するのは男性が多いですが、前述のような非暴力的、草の根的に広がる運動においては、その背景に女性、とりわけ「母たちの強い思い」が土台として存在していることは確かな事実です。

チャイケモも、多くの「母たちの強い思い」に支えられています。
慈悲と勇気を持ち合わせた母たちに、感謝と敬意を!

寿雄

お引越し [2008年01月28日(Mon)]

翌日になり、お部屋のお引越しの日です。
向いの部屋は外の景色が見えるらしい。。。
ととても楽しみでした。
少ししかなかったはずの荷物がいつの間にかものすごい量になり、運びだしに苦労しました。いつも家でも模様替えが大好きな私には、ちょっとした楽しみになりました。

とても明るく、外にモノレールが走るのが見えます。下にバス停もあります。
車が走るもの見えます。木や空も見えました。お天気は晴れでした。いつの間にかセミが無く時期はとっくに過ぎていました。

Aは会いにきては、泣いてもわめいても私と無理やり引き離されるということを繰り返していました。そして慣れない環境でひとり頑張ってくれていました。そのAの「いちにち」を想像するだけで私の胃は痛み、涙をこらえる日々でした。たったの2歳でした。

いつもそんな状況だということを私は母へ相談していたので、母は当時勤めていた職場をやめ、Aの心と環境を守るため、私の変わりに育児に専念してくれることになりました。
おかげで、Aも大好きな「おばあちゃんとおじいちゃん」がずっと側にいてくれるだけで気持ちが落ち着いたのだと思います。「かあしゃん。またくるからね。げんきでいてね。Aちゃんもがんばるからね。」と寂しそうだけど、手を振り家へ帰るようになりました。

少しずつ心配だった要素が解決し、気持ちが落ち着いてきました。

私もSがお昼ねの時などは積極的に動くようになりました。
少しずつお友達もできました。
お話の中から「みんな同じように頑張っている」ということや病気について、闘病に付随するさまざまな問題について相談相手ができた。ということがわかると、とても勇気をもらえ、頑張る力につながりました。

今までのお友達には病気のことを話す気になれませんでした。
はなしてもわかってもらえないだろう、、、ということ。
またあの頃の恐ろしい出来事を説明するために記憶をたどりたくないこと。
そんな気持ちと、1才の子どもを置いて電話をかけに行くには電話があまりにも遠かった
こと。などが原因です。
病棟内の母友達には本当に救われ、毎日を過ごしました。

お部屋の環境も明るく気持ちよくなり、少しずつ不安も取り除かれ「こんな感じで半年、なんとか乗り切れるな!がんばろう!」とペースをつかみだしました。

つづく

クローバーまさみさまクローバー
抗がん剤 [2008年01月25日(Fri)]

「抗がん剤」。
言葉はよく耳にしましたが、まさか自分の子どもが使うことになるなんて、、、
恐ろしいイメージしかありませんでした。

「髪が抜けます。吐き気も出ることがあります。」ということと、聞くだけで身の毛もよだつような恐ろしい副作用についてのお話がありました。
「いやだ」とも言えず、抗がん剤を投与してもらうことになりました。

利尿剤も投与していたので、Sはひどいむくみから解放されすっかり元の顔にもどりました。
「こんなにかわいいお顔だったんですね〜」と担当の看護師さんが言ってくれたのを覚えています。まさに、キグルミを脱いだような感じで、一回り小さくなりました。

抗がん剤の効果はすごくて、投与後数日で、Sは笑顔を取り戻しました。
Sの笑顔を見ることがとても久しぶりだということに気づきました。。
「ずっとしんどかったんや、、、」と自責の念にかられました。

徐々に副作用の吐き気どころか、逆に食欲も出だしました。
もっと絶望的な闘病生活をイメージしていた私ですが、入院前より元気なSの姿を見て私も徐々に元気を取り戻し、闘病への意欲が湧いてきました。
「Sの前では絶対泣かない」ことをモットーとしました。

血液のデータも日に日に良くなり「あっという間に治るのではないか?」と思うほどでした。
ただ、私たちには最終クールに「骨髄移植」が待っていました。
それについても、想像もつかない恐ろしい治療というイメージしかありませんでした。
病気や骨髄移植について調べようにも、いつも何かを調べるための手段としていたインターネットが病院内では使えない環境でした。痛手でした、、、

2クール目が終わりに近づいた頃、もしかしてこの子には来ないのでは?と思いたかった一番気がかりだった副作用が来ました。Sは赤ちゃんでも女の子です。産まれてから11ヶ月、やっとここまで伸びた髪が全部抜けてしまうのかと思うと、やりきれない思いになりました。
私は抗がん剤を投与して数日でドラマのように髪がどっさり抜けるのだと思い込んでいましたが、実際は、抗がん剤の投与期間は約1週間。その後、白血球の立ち上がりを待ちます。そして少し外泊などの休憩を持ち、次のクールへ入ります。Sの髪は2クール目の抗がん剤投与数日後からどんどん抜けていきました。
最初は一本たりとも捨てる気にならず集めて残していました。。。毎朝、枕もとにたくさん抜け落ちた髪を集めるのが日課になり、そのうち集めるのをあきらめました。

Sはその後もよく笑いました。私の中でSの髪の毛ついて「またはえてくるよ!!」と諦めが付いた頃、担当の看護師さんから「明日は斜め向かいの部屋へお引越ししますね!明るいですよ〜!」とお話がありました。

つづく

クローバーまさみさまクローバー







転院A [2008年01月24日(Thu)]

いつ寝たのか、寝なかったのか、夜が明けたのか、まだなのか、、、?
真っ暗な部屋では何もわかりませんでした。
「朝食の準備ができました」と放送がかかり、ようやく朝になったことを知りました。
ブラインドをあけても空も見えず、今日の天気すらわからないような部屋でした。

廊下にでました。廊下からは元気な声や笑い声が聞こえて来ました。
それにとても違和感を覚えました。「なんでみんな元気なん?なんで笑ってんの?」
想像していたところとは少し違いました。
Sはよく眠っていました。輸血のおかげで傷跡からの出血もとまっていました。
頑張ってヤマを乗り越えてくれました。

部屋には24時間監視カメラがついていました。
「どこで着替えればいいのかな、、、?」「食事は付き添いの分もついてくるのかな、、?」
「電話は部屋にはないのかな、、?」「」パンが焼けるにおいがするけど、どこで焼いてるのかな?」。。。色々な疑問が出てきました。

担当の看護師さんがあらわれました。
「担当の○○です。」とても穏やかでかわいらしい人でした。
主治医ともその日はじめて言葉を交わしたような気がしました。
人とお話することがとても苦手な感じの女医さんでしたが、子どもに向ける笑顔はとても優しい顔だったのを覚えています。
楠木先生はこのときは私たちの主治医チームの中のお一人でした。
とてもマメに見に来てくれる先生で、心強かったのを覚えています。

前日に病棟内の説明を受ける気にならなかったので、少しずつ設備やルールのことを教えてもらうことにしました。
まず、付き添いとして低菌(※)のときのルールを書いた用紙を戴きました。

・マスク着用
・子どもに食べさせてはダメな食べ物の一覧
・うがいをさせること
・ファンギゾン吸入について
・内服薬のこと
・アイソレーターの説明
・ベッド上から外へは出てはいけないこと。
・子どもの面会はダメなこと。
・風邪を引いている大人の面会もダメなこと。
などでした。

つづいて、設備面、生活面についてのルールの説明をうけました。

廊下からは、母親たちの雑談、子どもの笑い声、話し声、検査で泣いている子どもの声など色々な音が聞こえてきました。

私は数日、その部屋に引きこもりほとんど廊下にも出ず暮らしました。
少しもSの側を離れたくなかったのです。

つづく

※低菌・・抗がん剤の副作用などで、抵抗力が著しく低下している時期のことをこういっていました。

クローバーまさみさまクローバー


転院 [2008年01月23日(Wed)]

雨の中、入退院センター前に救急車が停車しました。
私はSを抱き、看護師さんと救急隊員数名に付き添われ、6階の小児病棟へあがりました。
家族は別に来ることになっていましたが、救急車で先に到着した時の気持ちは心細い以外の何者でもありませんでした。
「しっかりしなければ、、、」とエレベーターホールまでSを抱き、歩きました。

部屋へ案内されるまでのことはよく覚えていません。
ただ、頭に髪の毛のないの子ども達を見て、ものすごい違和感に襲われました。
「Sもこうなるの?」これから自分の子が経験するだろうことを見せ付けられているような気がしました。

部屋へ案内されました。
とても無機質な倉庫のような部屋でした。それが第一印象でした。
処置室か倉庫だと思っていた部屋は、これから長い入院生活を送る私たち親子に与えられた部屋でした。
「お母さんはここで簡易ベッドを持ち込み寝てください」といわれ、愕然としました。

Sの症状はさらに悪化していました。
痛みがでてきました。採血に連れて行かれたSは帰ってきたとき、腕には出血斑がたくさん出ていました。
血液のデータも同様に悪かったらしく、主治医(研修医)の先生へご挨拶をするまもなく走り回っておられました。
担当の看護師さんに「病棟内の案内をしますのでいきましょうか?」と誘われましたが、洗濯のこともお風呂のことも、公衆電話の場所にもまったく興味がわかなかったので「ごめんなさい。またにしてください」と断りました。

少し母と交代し、長女(以下A)に会いにデイルームへ行きました。抱き上げた瞬間にまたまた涙があふれとまらなくなりました。「これから、長い間はなれて暮らさなければならない。きっと親戚中で順番にお世話になることになり、すごく不安な思いの中、生活をすることにだろう、、、どれくらい会えないのだろうか?こないだ2歳になったばっかりなのに、、、いっぱい寂しい辛い思いをするだろうな、、、」色々な想いがあふれました。
何も知らずにAは数日振りに私に会えたことをただ喜んでいました。

数時間後、Aは「お母さんすぐに帰ってくるからね〜」と言われながら主人の実家へ連れて帰られました。とても不安そうな顔で私のことをじっとエレベーターの中から見ていました。
エレベーターのドアが閉まりました。この日泣いてばかりだった私は、初めて涙をこらえました。「さぁ!次はSが待っている!」

数日ろくに食事も睡眠もとっていなかった私に、義理の母が「頑張って食べなさい」と持ってきてくれたおにぎりと小芋の煮物はまったく味もせず、ただ押し込んでお茶で流し込みました。

大騒ぎの中、Sには命の危機が迫っていました。いそいで、その日のうちにIVHカテーテルの挿入手術が入ることになりました。晩の6時頃から手術室へ入りました。
約一時間半後Sは病室に帰ってきました。
胸の手術痕からは出血が止まりません。同時に輸血も開始されました。
痛がるSの手を握り、授乳をしながら一晩過ごしました。
「今晩がヤマですね、、、」と当時の病棟担当の医師から告げられました。

こないだまで家で普通に過ごしていたSはすっかり変わり果てた姿になりました。
酸素や点滴や色々なものがその小さな体へつなげられていました。

部屋には、朝届けられたSへの給食の生の食パンと牛乳がまだありました。

私は、もうくたくたでした。

つづく

クローバーまさみさまクローバー
入院 [2008年01月22日(Tue)]

急にそのまま入院ということになり、病棟へあがりました。
Sはマルク(※)のため処置室へ連れて行かれました。
私はすぐ隣の部屋だったかどうか、記憶がさだかではありませんが、冷たいソファーに
すわり、Sの泣き叫ぶ声を聞きながら、泣いていました。
師長さんが「びっくりしたね、、、お母さん大丈夫?」と声をかけに来てくださいました。しばらく隣に座っていてくれたのは、とても心強いことでした。
人のぬくもりとはとても力になるものです。

マルクがおわり、疲れきったSが出てきました。医療者全員が敵に見えました。

特別室(個室)へ案内され、そこで約10日、阪大病院のベッドがあくまで待機することになりました。
Sの症状は日に日に悪化していきました。
日に日にむくんでいく体。寝たまま起き上がることもできなくなっていました。
私も、まだ頭の中を整理することができず、ただ、寄り添いSの体をさすり、神様に祈る日々を送りました。

主人が阪大病院へ転院する前に、治療方針などで阪大を訪れました。
そこから主人が持って帰ってきた話の内容は「困難だけど、しっかりした治療方法がある」ということと「治癒率」と費やすであろう入院期間のことでした。
ただただ、絶望の淵にた私には「朗報」に聞こえました。

「大丈夫。治る。絶対治る。。。」と主人がいいました。

阪大病院へ転院する日が来ました。
雨が降っていました。
下まで救急車が迎えに来てくれていました。先生や師長さんに見送られ、お一人申し送りをするために看護師さんが付き添いで来てくださいました。

阪大までの道中はほんの30分ほどですが、小学校5年生の頃以来の車酔いをしたのを覚えています。

つづく

※ マルク・・・骨髄穿刺

クローバーまさみさまクローバー
告知 [2008年01月21日(Mon)]

点滴をしながら採血の結果を待ちました。

処置室へ主治医が入ってきました。

「お母さん。血液に悪い細胞がみつかりました。」悪い細胞の意味がわからず、ただ「はい」
と返事をしました。
「白血病の疑いがあります。」と先生からの言葉が続きました。
セミがうるさく鳴く真夏でしたが、血の気が引くということはこういうことか、、、とわかるくらいの悪寒に襲われ、体はガクガクと震えだしました。
看護師さんがあわてて毛布を持ってきてくださいました。

そのとき、私の頭の中にあったものは「死ぬ」という言葉だけでした。
Sが急に遠くへ行ってしまうような気がして、必死に抱きしめました。
点滴が終わるのをまって、まず、主人に連絡をしました。
次に母の仕事場に連絡をしました。
二人とも「うん。うん、、」とやはり現状がつかめていないような返事で、でもきっとわたしと同じように、血の気がひく感覚を味わっていたのではないかと思います。

その後レントゲン室へ、レントゲンを撮りに行くよう指示がでました。
レントゲン室の待合では涙があふれてとまりませんでした。
Sを抱きしめて、レントゲンを撮る間も手元から離したくない気持ちでした。

周りを見回すと、私たちの周囲には普通の日常が続いていました。
廊下を走っているこども。「はい、とりますよ〜」という検査技師さんの声。
患者呼び出しのアナウンス。窓の外のとても暑そうな景色。
自分たちが別世界に取り残されたように感じ、見える景色は一瞬のうちに色をなくしました。

そして、辛そうな表情のSを見ては、早く気づいてやれなかったことに後悔しました。

その後、すぐに入院。大学病院のベッドがあくまで入院待機と言うことなりました。

つづく

クローバーまさみさまクローバー
初発のとき [2008年01月18日(Fri)]

初発のとき。いまでも思い出すだけで胸はどきどき、キーを打つ手も震えます。

次女(以降S)は10ヶ月を迎えた頃に主人が後頭部にいくつかのしこりをみつけました。
その後風邪をひきました。
軽い気持ちで、近くのかかりつけの病院へ行きました。
いつものように風邪薬を処方してもらい、吸入をして家に帰りました。
後頭部のしこりも「この時期の赤ちゃんには良くあることで、心配ない」といわれ、ホッとしたのを覚えています。

その後3日たって、お薬が切れたとたんに風邪をぶり返す、、というようなことを何回も繰り返しました。
そのうち高熱が出て、たんが絡んで呼吸が苦しそうな感じになってきました。後頭部のしこりも増えていました。
かかりつけの病院では、風邪にしてはしんどそうなので、、、と、血液検査と検尿をしました。
血液検査の結果は白血球の量が多いので「要再検査」と返ってきましたが「こどもの風邪ではこのくらい白血球が上がることは良くあることなので、心配しなくてもいいです。再検査も必要ありません」と言われました。

その後一ヶ月近くたってもSの症状は一向に良くなりませんでした。

ある日、いつも相手をしろとグズグズいうSが身動きもせず、じっと私のすることを目で追っていました。「しんどいなぁ、、、もう一回違う病院行こうか、、、」と今度はSが産まれた総合病院へいきました。

やはりあまりに辛そうなので、その日は点滴をすることになり、ついでに採血もしていただくことになりました。

主人が後頭部のしこりをみつけてから一ヶ月以上の月日がたっていました。

つづく

クローバーまさみさまクローバー



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