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東京都庁45階、南展望室から[2009年01月27日(Tue)]
伝えようヒロシマ・ナガサキ
東京原爆展
  東友会結成50周年記念



写真:井出和彦



東京都庁の45階
晴れた日には、雄大な山富士山がくっきりと見える南展望室に、もうおいでになりましたか?
休日には、親子連れや外国の方たちの行列ができるほどの人気スポット。
そこで、2月5日(木)〜9日(月)に開催される「原爆展」(入場無料)のご案内です。

平和を愛する皆様、どうぞお出かけください。



クローバーパンフレットより
64年前のヒロシマ・ナガサキの「あの日」。
一瞬の閃光とともに空気は火となり、すべてが燃えつき死に絶えました。

炭になった屍、ずるむけの人びと、ただ無言で歩きつづける被災者の群れ。
数日後、無傷の人も突然の発熱と紫斑で、次々と倒れました
そして今も、後遺症の恐怖にさいなまれながら、私たち被爆者は生きています。

しかし、この地球には、何万発もの核兵器が存在し、戦争が続いています。
「再び私たちのような被爆者をつくるな!」
私たちは、被爆国の首都・東京で50年間、訴え続けてきました。
それが、生き残った者の「使命」だと確信するからです。

どうぞ、私たちの願いと「あの日」起こった事実を知ってください。

クローバー日時2009(平成21)年2月5日(木)〜9日(月)
 午前9時15分〜午後5時30分(但し、5日は午後1時から、9日は午後4時まで)
クローバー会場:東京都第一本庁舎45階南展望室(東京都新宿区西新宿2-8-1)

主催:社団法人東友会・東京都原爆被害者団体協議会
後援:東京都、広島市、長崎市、東京新聞

クローバーチラシ http://www4.ocn.ne.jp/~t-hibaku/pdf/genbakuten.pdf

黒電話問い合わせ先:
東友会〒113-0034 東京都文京区湯島2-4-4 電話03−5842−5655


Posted by そよ風さん at 23:48 | ピース ニュース | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)

平和を学ぼうT ヒロシマ・放射線による環境破壊T[2009年01月22日(Thu)]
平和を学ぼうT 
ヒロシマ・放射線による環境破壊   西尾禎郎著 


(「ヒロシマ 祈りと記憶/アーカイブズ http://www.takjapan.com/Nishio070630Nirasaki.doc を元に、
編集しています。 クローバーそよ風)






平和の元后マリアさまのみもとへ、一歩を。
ご一緒に。
(以下は*教会でお話したものの原稿です。映した映像は省略してあります。)




最初に。
日本人は昭和のアジアへの侵略戦争で、都市への絨緞爆撃、各地での無差別殺人、毒ガスや細菌兵器の使用など非人道的手段で2000万人もの人を殺戮(さつりく)しています。

日清・日露戦争以後の軍都廣島にあった第五師団は、中国各地で「治安粛清」と称して一般人にいたるまでを殺し、マレーシでの住民虐殺はその詳細な記録が残されています。
この戦争でなくなった日本人は200万人以上とされています。それらすべての人々が安らかに眠られるようお祈りください。


過去を振り返ることは、将来に対する責任をになうことです。
To remember the past is to commit oneself to the future.
ヒロシマを考えることは、核戦争を拒否することです。ヒロシマを振り返ることは平和に対しての責任をになうことです。

ヨハネ・パウロU世 Appeal for Peace 1981




T.ヒロシマで何が起こったか
1945年8月6日8時15分、
廣島上空600メートルで爆弾が炸裂しました。
わずか3機しか侵入してこなかったので、警報は解除されていました。

《マグネシウムをたいたようなすさまじい閃光に、「あっ」と驚いた次の瞬間、何かに叩きつけられ、気を失いました。》


A ピカ・ドン(核爆弾)
  ここでチョット、10秒間の合図をしますので、その間目をつむってできるだけ多くの数を数えてみてください。

 「始め・・・・はい、終わり。」

 「いくつまで数えることができましたか? 40以上の人は」

 広島に原爆が投下された瞬間から10.1秒で、爆風は4キロの地点まで到達しています。当時、40の1万倍、約40万人の人が住んでいた広島市の大部分が、今、数を数えていただいた10秒間で壊滅しました。
 この10秒間で、その後の広島の運命のすべてが決定したのです。

 広島では原爆のことをピカ、またはピカドンといいます。
爆心地から少し離れた周辺部では、すさまじい閃光と爆音を経験するのですが、爆心地付近の人は音を聴いていません。お寺にある鐘の中にはいるとその鐘をつ撞いても音波が干渉しあって聞こえないのと同じなのでしょう。また真っ先に来た閃光の印象が強いためか、ピカとだけいう人もいるのです。

1.閃 光・熱 線
 ウラニウムの核分裂連鎖反応で作られた電子、中性子、核分裂片 などは超高速で四方へ飛んでゆきます。それが放射線です。非常に高いエネルギーを持っていて、周囲の空気にぶつかって光と熱になります。

 【分裂片: たとえば、1つのウラン核に1個の中性子が衝突すると、2〜3個の中性子が放出され、同時にウランは、別の軽い2つの原子(例えばクセノンとストロンチウム)に変わる。そのように出来た別の原子を分裂片といい、これらも放射能を持っている。】

炸裂点での光は日中の太陽光の1000倍以上の明るさ、温度は数1000万度。
 爆心地の地表へ降り注いだ熱は爆心地で4000度と推定されています。
 
 次に挙げるのは長崎の方の証言ですが、ヒロシマでも同じことがほうぼう方々で起こっています。

「お母さん達が、走っていった子供たちと一緒に、一瞬にしてそこから消えたんです。蒸発したんです。その時私が見たものは煙じゃない。水蒸気みたいなものが、ボウーと上がったのを見ました。もうそこには何の姿もありませんでした。」
(濱谷正晴著『原爆体験 六七四四人・死と生の記録』岩波書店2005年刊)

 鉄は2,750度でガスになります。いくら水分の多い人体でも、4000度では影だけを残してあとかた跡形なく消滅するのです。

人影: 爆心地の東250b、住友銀行入り口の石段には黒い人影が残され、その部分が平和記念資料館に保存されている。今では影が薄れているが、60年前ははっきりとそこに人の居たことを示していた。

 米軍の撮影した写真、爆心地から南へ9キロほどの所にある万代橋の路面には、荷車を引いていた人の姿や、もんぺをはいて歩く人の姿が、橋の欄干と共に白く写っていた。相生橋、元安橋、本川(ほんがわ)橋、天満橋、三篠橋、京橋・・・こわ壊れてなくなったもの以外のどの橋にも人や馬の姿が焼き付けられていた。】

あるとき高校生が、1万度とか4000度とかいうのはどんなもんか知りたいから作ってみてくださいと、物理の先生に頼んだことがあります。先生は笑って、「ここではそんな高熱は作れないよ。工業大学のそれも特別な研究室なら作って見せることができるかもしれないが。」と言いました。


原爆の高温で焼かれた屋根瓦を原爆瓦といいます。その破片が、敗戦後しばらくは、河原に沢山ありました。
瓦は高温で焼いて作られます。だから熱に強いはずですが、その表面がもう一度と溶かされて、無数のあばたのような凹凸ができています。棘(とげ)のようにとがったものが無数に突き出ていて触ると痛いものもありました。

閃光については「マグネシウムをたいたような」と表現されることが多いのですが、まっ白なとか、赤・朱色・黄色とか、いろいろな色が混ざってきれいな光とか、見る場所によって様々に感じられています。




2 衝 撃 波
 10秒間で4キロメートルというと、1秒に400メートルの速さの風です。
台風の10倍の速度、時速に換算すると1時間に1440キロ(新幹線の6倍以上の早さ)です。
音の伝わる速さは空気中で1秒に約330メートルですから、音速より早いので、衝撃波と呼んでいます。

 遮蔽物(しゃへいぶつ)のないところで衝撃波に逢うと、人の体から頭、手足が千切れ飛んでしまいます。爆心地から3.5〜4キロメートルのところにあった江波の陸軍射撃場のありさまを松下ハマノさんの描いた絵があります。そこには、「手足なし」「頭だけ」「頭が3つ」などと説明があります。

【これは、広島の平和記念資料館にある被爆者の描いた絵の一枚です。】

風 圧
 爆心地で、その圧力は1平方メートル当たり10〜30トンでした。あなたの体に10トントラック二、三杯分の積荷がぶつかってきたと思ってください。とても風というようなものではありません。

現在の平和公園の西北にある慈仙寺跡に、


縦横1メートルもある、昔の位の高い侍の大きな墓石がありますが、それが土台から持ち上げられ、飛来した石がすきま隙間にはまって傾いたままになっているものが残っています。墓のある地面そのものも風圧でへこみ、その四角い石の上に積まれていた水火風空などを現わす積石は周辺に吹きとばされています。

爆心地から300メートルくらいの所にあった日本銀行広島支店の2階にいた人が窓を破って吹き飛ばされ、道路をへだ隔てて隣接する家の庭で亡くなっていました。
爆心地から約2.3キロメートルにあった家々はほとんど全部つぶされました。そして劫火がおそってきます。

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Posted by そよ風さん at 06:43 | アーカイブ | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)

平和を学ぼうU ヒロシマ・放射線による環境破壊[2009年01月21日(Wed)]
平和を学ぼうU  
ヒロシマ・放射線による環境破壊   西尾禎郎著






(「ヒロシマ 祈りと記憶/アーカイブズ http://www.takjapan.com/Nishio070630Nirasaki.doc を元に、
編集しています。 クローバーそよ風)



「ピカッと来た後吹き飛ばされて気を失っていたけど、しばらくすると真っ黒なちり塵が晴れて、そばにいた仲間はチリヂリに離れて横たわっている。目を上げると今まで見ていたのとは違う山が近くに見える。ハハ―地獄へきたんだな、と思った。しかし、そこから逃げる途中はまだまだ(もっともっと)ひどい地獄じゃった



5.地 獄 を 見 た
 爆心地。 

原爆ドームのある細工町、それに隣接する猿楽町、大手町、紙屋町、そこから元安川を隔てた、今は平和公園になっているなっている中島本町、中島新町、材木町、天神町などは一瞬で死の街となります。

中島本町は当時の広島市一番の繁華街で、様々なてんぽ店舗が立ち並び映画館もあった場所です。


これらの町では爆撃でほとんどの人が亡くなり、特に中心部では1週間後まで生存していた人は皆無と言っていいのです。ですから、これらの町で何が起こったかを語るのははいきょ廃墟のがれき瓦礫だけです。

 原爆ドームは市の産業奨励館でチェコの建築家の建てた建物です。
現在の原爆ドームはテレビなどでご存知でしょうから、もとの産業奨励館と爆心地から東850メートルの鉄砲町にあった太陽館という映画館の焼けた姿を見てください。】


ヒロシマ原爆の直接被害で亡くなった人で最も数が多いのは、倒れた建物の中ではり梁や壁や屋根に体がはさ挟まれたまま焼死した人たちだと考えられます。

父や母、または自分の子どもや教え子が倒壊家屋の下でまだ生きているのに、助け出すことができず、迫りくる火の手に追われて現場を立ち去らねばならなかった人が沢山おられます。


6.「水をください」
爆発の20分後に、火は全市をおお覆いました。猛火に追われた人々は川へ向って逃げました。体が焼かれ、のど喉がかわ渇いてしょうがないので、倒れた人たちは口々に「水をください」「どうか水を・・・」とうった訴えていました。

多くの人は河原に着く前に倒れ、川岸についてこと絶える人も多く、川に突っ込んで死んでゆく人も数知れません。

川の上は風の通り道です。竜巻のような強風が吹き荒れ、ほのお炎が通り過ぎて行きました。
川は流される死体で一杯でした。
広島は海に近いので潮の干満にあわせて水が行き来します。T週間以上も同じ場所を川上から川下へ、そして川下から川上へと浮き沈みして流れる死体があったといいます。 



7.幽霊の行列
多くの人は体にガラスの破片を突き刺し、ハリネズミのようになって、そのガラス片を指で抜きながら逃げていました。

15キロ以上離れた所にいた私の叔父叔母の家の窓ガラスも、粉々になって室内に散らばっています。
30年くらいたって、廿日市(はつかいち)教会のあるご婦人が、肩甲骨あたりをさして、「西尾さんここさわ触ってごらん、まだ三角のものが入っているでしょう。あの日に刺さったガラスよ。何度も繰り返し摘出手術をしたけどまだまだ残っていて、もう手術が嫌になったのでほおってあるの。」と言われました。


体を焼かれた被災者は「ぼろを着た姿」「幽霊そっくり」などと表現されています。
爆心地から1キロ余りの自宅で浴衣を着て休んでいたていしん逓信病院長のはちや蜂谷さんは、家がつぶれ、逃げ出し歩いている途中で自分が何も着ていないのに気がつきます。光った瞬間、着衣は消滅していたのです。

自分が素っ裸なのに気がつかずに逃げている人は多く居ました。
他所の人から気の毒だと、体を覆う布切れをもらって初めて、自分が裸なのに気がつくのです。

家の中に居た人はそのようですが、余り遮蔽物(しゃへいぶつ)のないところで焼かれた人は皮膚が垂れ下がり、皮膚のない赤みの部分がこすれると痛いので手を幽霊のように差し出して、よろよろと歩いていました。

焼けた上半身の皮膚は腰のベルトのところで止まり、腕の皮は手の爪で止まり、脚(あし)の皮はかかとで止まってぶら下がります、それが襤褸(ぼろ)を着た姿に見えたのです。彼らはパタパタとほこりを巻き上げて歩いていました。足の皮が歩くたびに地面のほこりを叩くのです。

爆風で飛び出した自分の目玉を手でささ支えながらゆく人、飛び出した腸を押さえて歩く人が居ました。
体も顔も焼けて真っ黒、目だけが白く光っていました。


8.家族を求めて
私の元同僚だったひぐち樋口さんは爆心地から北15キロほどの自宅でキノコ雲を見ています。キノコ雲の上がる直前、空にあった白雲が「孫悟空(そんごくう)の乗った雲みたいにえらい勢いで四方に飛んでいった」そうです。


キノコ雲は1万7千メートルの高さまで上がっています。成層圏に達しているわけです。成層圏まで吹き上げられた放射性下降物は非常にゆっくりとしか降りてきません。

樋口さんは、弟が市の中心部へ建物疎開(そかい)のために動員されていたのをさが捜しに、当日昼頃、大八車(だいはちぐるま)を引いて今の平和公園付近をさまよっています。

建物疎開: 日本の都市では木造家屋が密集して建っており、焼夷弾(しょういだん)攻撃で延焼することが多かった。それで密集した部分の家々をこわ壊して道路などを広くし、延焼を防ごうとする作業が建物疎開の作業で、消防団や各職場や近郊農村の奉仕団に加えて、小学校5,6年生と中学校1,2年生がその手伝いに動員された。】


「焼ける町の中を蓆(むしろ・わらで編んだ敷物)をかぶって、それに、破裂した水道管から出る水をかけては走り回りました。本川、元安川の河原土手には、もう動けない学生さんが魚市場に並べたマグロのようにずらっと並んでおられました。

真っ黒に焼けているもの、なかにはまだ息のある人もあったけど、ほとんどがパンパンにふくれています。男か女かも分かりゃしません。頭を持ち上げてみても顔は焼かれて、誰が誰やか分かったものじゃありません。・・・

それから自宅の方へ向って4,5キロ行ったあるお宅で弟を見つけました。新聞紙をクルクルット巻いて、その上に重傷者を寝かせてくれていました。それが精一杯の親切だったのです。」

「弟だと分かったのは、私の作ってやったベルト止めのバックルをしていたからです。見つかったのは運のいい方ですよ。」と話してくれました。

全身火傷でやっとわ我が家に帰りついた中2の娘に「おとうさん、しっかり抱いて」といわれたけれど、体中ずるずるでさわ触ると肉が離れそうで、抱くこともできず死なせてしまった父親がいます。

9.屍(しかばね)の街
《つぶれた家の中からやっとは這い出し、焼けて熱い瓦礫(がれき)を踏み越えて逃げるのですが、死体や横たわる瀕死(ひんし)の重傷者などを踏んでゆかないと逃げられません。
行けども行けども死体で、焼けた電車の中には、焼ける前の姿のまま、真っ黒になった人が立っていました。》


10. 焼かれた子供たち
原爆の炸裂したのが8時15分ですから、建物疎開に動員された子供たちは、市内数箇所で、作業開始前に全員が集合したところへ閃光が来ました。

小学生(当時の国民学校生)から中学生までの、工場その他に動員された者と建物疎開に出ていた子供たちの死亡者数は6,700人を超えます。
クラス全員死亡というケースも幾つかあります。

【市役所裏のざこば雑魚場町付近    集合者数    死亡者
   国民学校〈小学校〉4校   374人―― 約310人
   中学校・女学校  7校 約2084人――約1662人
県庁付近の水主町・中島新町・天神町・材木町
   国民学校〈小学校〉1校  約250人―― 約250人
   中学校・女学校  8校 約1671人――約1548人
死亡者不明2校
皆美(みなみ)町
  中学校2校                死亡者不明
鶴見橋付近
   国民学校〈小学校〉4校  約257人―― 約127人
   中学校・女学校  4校 約1251人―― 約616人
八丁堀付近
   中学校1校         514人―― 約510人
土橋付近の小網(こあみ)町・西新町・堺町
   国民学校〈小学校〉4校  約579人――  266人
   中学校・女学校  6校 約1207人   約950人】


“太き骨は 先生ならむ
そのそばに小さきあたまの骨
あつまれり“





 これは「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」にある、正田篠枝(しのえ)さんの詩。

プレスコードのために、やむなくヒロシマ刑務所でひそかに印刷した歌集『さんげ』の一首。校正ができなかったため‘太き骨’か‘大き骨’か、‘あたま’か‘あまた’か、いまだに分かっていない。】


プレスコード: マッカーサー総司令部は原爆について、その詳細が世界に知れ渡るのを嫌って、日本人による初期の調査を全部没収し、原爆の実情をしる記すすべての出版物を検閲(けんえつ)し、出版させないようにした。

「進駐軍に対し、破壊的な批判を加えたり、同軍に対し、不信や怨恨(えんこん)を招くような事項を掲載してはならない」といった内容を含むもので、正当な原爆批判も一切許されなかった。それをプレスコードと言っている。】

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Posted by そよ風さん at 06:02 | アーカイブ | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)

平和を学ぼうV ヒロシマ・放射線による環境破壊[2009年01月20日(Tue)]
平和を学ぼうV 
ヒロシマ・放射線による環境破壊   西尾禎朗著 




(「ヒロシマ 祈りと記憶/アーカイブズ http://www.takjapan.com/Nishio070630Nirasaki.doc を元に、
編集しています。 クローバーそよ風)






アルペさんは近所の家々の被爆者の治療にも奔走(ほんそう)し、感謝されています。そのおかげで「それまで見られなかったほどカトリックへの理解が進んだ」そうです。

不思議なことにはえ蝿は放射能に強いのか、ピカのあと多量に発生しました。
「皮膚にできた傷が膿(う)んで、その周りに次々と蛆(うじ)がわき、それを毎日毎日、はし箸か何かでつまんでとるのが痛くて大変だった」という人が大勢います。ある人は「いくら腹が減っても日の丸弁当だけは絶対だめ。赤い梅干の回りの白い米、あれを見るとあのときの蛆を思い出す。」と話してくれました。


被爆直後、広島へ多量の救援医療物資を運んでくれたヒロシマの恩人、赤十字のジュノーさんが、DDTをさんぷ散布して大量発生した蝿を退治してくれました。

12.呆(ほう)けた人々
長束修練院からのぼり幟まち町教会の神父たちを救出しようと出かけたジーメス神父の手記に「われわれは一人の負傷者のそばを通り過ぎたが、この人は昼間われわれが公園に向って行くときから、熱気のたちこめる廃墟にただ一人座り込んでいて、奇妙な人だと思った」という内容が書かれています。

私は何人もの被曝者から「感覚が麻痺したのか、焼かれた死体や重傷で倒れている人を見ても、恐ろしいという感じはしなかった。」 また、ある人からは「逃げる途中、救護所で自分の母親が息を引き取っているのに出会ったがその場では何も感じず、家に帰ってから大変だと思った」と聞いています。         
ショックによって心が傷つくのを防ぐ心理的防衛本能で、人々は無感動になったと思われます。




13.狂 死
そうならなかった人たちには精神的な異常に陥った場合が多くあります。
陸軍病院の死亡者名簿に死因「狂気」と書かれた箇所がいくつもありますし、「おかしうなって、わけのわからぬことをおらびまわっとる(怒鳴りまわっている)人を見た。」などの証言が多くあります。
 「被爆後数年間、ぼんやりと呆けたままで、なん何も考えれなんだ」という人も居ます。


14.原爆の影響は終わった?
急性原爆症で亡くなる人は1945年の年末には急速にへ減りました。それで、アメリカは「原爆の影響は終わった」と、発表しました。

とんでもないことです、60年以上たった現在でも被曝者のガンによる死亡率は全国平均より30%も高いのです。これは被曝の影響があるとしか思えません。
 
1947年にはアメリカ政府によるABCC(原爆傷害調査委員会)の調査がはじまります。
「病気を治してくれるもんと思って行ったんじゃが、血を採られ、裸にされてつつきまわされるだけ。ははー、わしゃーモルモットにされちょるんじゃ、と思ったけんもう行かなんだ。」と言う人が沢山います。

 ABCCは病院ではなく、次に起きる原水爆戦争に対処するために、被曝者に関するデータを集める機構だったのです。



B 苦 難 は 続 く

15.入市被曝者・介護被曝者
 爆心地から2〜3キロ以内のところに居て、急性障害の出る放射線を浴びた人以外に、入市被曝者といわれる人々がいます。
爆撃があって間もなく、家族・友人・知人をさが捜して多くの人が残留放射能の高い時期に市街地へ入りました。原爆投下後1ヶ月もたってから家族を探しに市内を歩き回り、その結果急性放射能障害で亡くなった人もいます。

また、がれき瓦礫の整理、傷病者の救護や死体の処理などにたずさ携わった人たちも放射線による影響を受けています。

死体は山積みにして燃やしたのですが、次々と亡くなる人があり、広島市内では1ヶ月以上も死体を焼く臭いがただよ漂っていました。
人間も放射能を持ったものになるのですから、看護のために被曝者に接触すればそこから被曝するし、遺体の運搬や処理も被爆の原因です。


 後に触れる“核の秋”に深い関係のあることですが、低レベルの放射能は人間の体に強い作用を及ぼします。これに関しては、被曝者援護の立場で90歳をすぎて活躍されているひだしゅん肥田舜たろう太郎さんが『内部被曝の脅威』などの著作で詳しく説明しておられますので、読んでいただくと役に立つと思います。


16. 被 曝 後 障 害
 後遺症というのは病気や怪我が治癒した後、それが原因で発生する別の症状のことです。例えば、骨折が治癒しても、冬になるとその周りの神経が痛むというようなことです。

後障害というのは後遺症とは異なり、急性症状が治まった後、被曝の結果体内に入ったり、体内で出来た放射性物質が放射能を出し続け、それでガンになるなど、被曝の影響が後になって現われるものです。

 原爆ケロイド、原爆白内障(そこひ)、白血病、そしてガンと遺伝的影響、老化の促進などです。

 成人タイプや老人性のガンはゆっくり進行しますので、現在もその影響があるわけです。
放射線となって飛んでくる粒子は、人間の細胞のわずか6兆分の1ほどの大きさしかありませんが大きなエネルギーを持っているので、人の細胞にあるDNAのそばを通過するとDNAを切断します。それが修復されないまま増殖するとガンや遺伝子の障害を起こします。

ガンの原因になる障害を受けたDNAが増殖し始めてから、診察によってしゅよう腫瘍が発見されるくらいにまでなるには約15〜20年かかります。
白血病や再生不良性貧血の発病は7〜10年後がピークです。

参考:ウラン1gは215億キロカロリーのエネルギーになる。
  α粒子(=ヘリウムの原子核)1個は420万電子ボルトのエネルギで人体に作用するが、これは通常の生体内でやりとりされるエネルギーのおよそ100万倍にあたる。】

17.心理的外傷(トラウマ)
 トラウマすなわち心の外傷も大きな問題です。
8月6日が近づくと、全然意識していないのに、毎年、自然に発熱して寝込んでしまう。という例もあります。

あの生き地獄にいた自分を思い出すことはすべての被曝者に耐えがたいことなのです。特に身内を見捨ててきた場合など。
「水をください」とせがまれ、汲みに行く途中で「水をやっちゃあいけんよ。すぐに死ぬるから」といわれ、持って行かなかったことをく悔やみ続ける人もいます。「どうせ死ぬのに、最後の願いをかな叶えてやれなんだ」と。  

自分があの瞬間に起こった様々な問題から逃げて、自分だけが生き残ったことに心をさいなまれるのです。

何かがあったとき、「わたしゃあ原爆におおとるけんねえ」と言うのを聞いたのは1人や2人ではありません。

 原爆白内障で見の不自由な富永のおばあちゃんの手を引いて歩いていたとき、彼女が突然立ち止まってぶるぶるふる震えます。

どうしたのかと尋ねると「携帯ラジオで原発を造るというとるんや。あれはいけません」。彼女はそのまましばらく固まっていました。原爆ではなく原発でもこんなにこたえるのかとびっくりしました。



被曝2世にもトラウマが見られます。心身どこかに異常が現われます。



写真:天の欠片さん

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Posted by そよ風さん at 06:11 | アーカイブ | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)

平和を学ぼう W ヒロシマ・放射線による環境破壊[2009年01月19日(Mon)]
平和を学ぼうW
ヒロシマ・放射線による環境破壊   西尾禎郎著










18.すべてをなくして
原爆投下はジェノサイド(全面破壊)です。家が焼かれた、というだけでなくそれまで生活していた地域全体が消滅してしまうのです。



さらに、広島には今後75年間、人も草木も生きてゆけないといううわさが広まりました。
いつおそ襲ってきてもおかしくない死の恐怖に重ねて、物質的にも精神的にも「故郷喪失」の中でとほう途方にくれる日々が続きます。


19.生 活 苦
被爆者は身内をなくしただけでなく、地域全体が壊滅したので、被爆後の生活は困難を極めました。
爆心地近くの西練兵場跡などにはバラックが多く作られ、原爆スラムと言いました。30年以上そこに人々が暮らしています。
 そのスラム街に接した橋の上では、10歳くらいの少女の、家族を養うために売春する姿がありました。


 千羽鶴で有名な佐々木貞子さんが白血病と診断されたのは、被爆10年後、1955年のことです。彼女は9ヵ月の入院・闘病の後、亡くなるのですが、『被爆者の医療等に関する法律』ができたのは、その2年後1957年のことです。

ですから、彼女はその病気に対し、国からなんらの援助ももらっていません。医師たちは命を救おうと懸命に治療します。血液のガンである白血病の治療には非常に多額の費用がかかります。経済的に厳しい広島に住む佐々木家は、彼女が亡くなった後、広島を去るということになったと聞いています。


20.ヒバクシャ差別
ヒバクシャとして生き残った人々を待っていたのは、被曝者差別です。

「原爆病はうつる」、「被曝者と結婚すると障害児が生まれる」、(原爆ブラブラ病の人には)「あいつは被曝を口実に怠けてばかりじゃ」、「被曝者やその子どもは体が弱いけん雇えん」などなど。

広島の市内でさえ、同僚と一緒に昼食をしようとテーブルにつくと「あんたは被曝者じゃろう。うつるといけんけえ、あっちへいって食べんさい。」といわれた人が居ます。
被曝者は毒ガスを吸ったので、それが伝染するというとんでもない考えがあったのです。


私の教え子の卒業時に、全国的にも有名な会社の人事係りがやってきて、くどくど話をした後、その子の母親が被曝しているかどうかを尋ねるのです。彼が聞きたかったのはその一点だけでした。被曝2世なら雇えないということです。

後に述べる沼田さんもそうですが、結婚差別はざらです。また、自分が被曝者だということで、みずから結婚を断念した人も多くおられます。
子どもが被曝2世だということで差別されるのを恐れて、子どもにはもちろん、夫にさえ被爆を隠す人が居ました。そしてそれがまた離婚の原因になったりしています。



21. 原 爆 孤 児
広島で原爆の結果孤児になったものの数ははっきりしたことは不明ですが4000〜6500人とされています。

乳幼児で両親を失い名前さえ分からない子供がいました。
学童疎開から帰ってきたら、家は無くなり、家族は全員死んでいたという子もいます。
自分の子どもに食べさせるのに精一杯という知人の家に助けられた子供もいました。
1年後には戦災児育成会ができ、2年後にはカトリックの「光の園摂理の家」ができてシスターたちが孤児の面倒を見るようになります。

その他、孤児を収容する施設も復興していきますが、被爆直後は孤児たちの行き場はありません。また施設へ入れてもらってもそこが性に合わずに出てしまう子もあります。彼らは路上でもの乞いをしていました。くつ靴みが磨きの出来るのはいいほうです。
これは孤児たちと生活するため広島へ来られたゼノ修道士の写真です。


食べ物をせがむことのできない気弱な子は餓死してゆきました。戦後、広島は映画になるほど暴力団で有名でしたが、暴力団のはびこる一つの要因に、暴力団に雇ってもらって鉄砲玉になる以外、生活の仕方を知らない子どもたちが大勢いたことがあります。

アメリカ人ジャーナリストのノーマン・カズンズ氏は1949年広島を訪れ「精神的養子運動(moral adoption 直訳すると‘'道徳的な養子縁組’)をはじめています。1952年には広大特殊教育科の学生たちが「広大し東雲(しののめ)分校子どもを守る会」を結成、翌年には森滝さんなど大学教授を中心の「広島子どもを守る会」に発展しています。1951年には長田(おさだ)新教授の編集による『原爆の子』が出版されています。

『原爆の子』: ヒロシマの記録の原点です。2007年5月岩波文庫で第10刷が発行されています。『はだしのゲン』コミック版とこの本はぜひ読んでください。】


22. 原 爆 弧 老
 孤老というのは一人ぼっちのお年寄りのことです。
1972年(被爆28年後)の広島市の調査によると原爆による孤老者は、完全孤老347人、独居者801人で、その82%が女性です。

彼らのうち公営・公団住宅に71人、養護施設に居るのは190人となっています。
 そうした人たちの中で亡くなる人があると、葬式へ集まるのは、お互いに被曝者なので話をしたことのあるほんのわずかの人だけ。

富永のおばあちゃんが葬式から帰って「西尾さん、ヒバクシャは骨拾い(こつひろい)もで出けんのよ。焼かれた遺体の骨は紙切れを焼いたようにふわふわで、とてもはし箸でつまめりゃあせんの。さびしいことよ。」と言われたのが忘れられません。

 普通の人なら、加減が悪いと誰かに病院へつれて行ってもらえたり、法律的な問題があれば、相談する人を見つけることができるのですが、孤老では、それさえなかなか大変なのです。


23. 原爆乙女・原爆ケロイド
 火傷の跡はやがてケロイドとなって醜(みにく)い姿になります。
娘が自分の顔を見ないようにと、鏡に類するものをすべて隠していた家も多かったのです。
またこれは後まで続いたことですが、被爆後数年間、広島では夏も長袖のご婦人が沢山おられました。腕のケロイドを隠すためです。



流川教会の谷本清牧師は、特に悲惨な、顔面正面から熱線を受けてケロイドになった若い女性の精神的な援助に力を入れておられました。そこへ1952年、作家の真杉静江、中野好夫らが訪れて、東京、大阪に「ヒロシマ・ピース・センター協力会」ができ、やがてニューヨークで手術を受けることになりました。しかしその人数は限られており、多くの人は顔や手足の醜い形に悩まされ続けたのです。

 廿日(はつか)市高校で書道を教えておられた森下弘先生から「教室で、女子学生が私に面と向って、‘先生の顔を見とると気持ちが悪いけえ、後ろに立ってください’と言うんですよ。どう思いますか? 私は教師がこの顔では生徒もいや嫌がるだろうと、3度も皮膚移植手術をしたのですが、原爆のケロイドはじきにもと元通りに盛り上がってくるのでどうしようもないのです。」と聞きました。

原爆ケロイド は、一般に、30年後あたりから薄れてきました。】


24. 死者をうらやむ
8・6のつらい思い出、死の恐怖、生活苦、そして人々の冷たい目、そうした生活から「死者をうらやむ」という言葉ができました。

《「わたしゃあ、なんでこんなつらいめをして生きとるんじゃろう。いっそあの時死んどりゃあどんなにか楽だったろうに。」》
という思いです。



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Posted by そよ風さん at 08:48 | アーカイブ | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)

平和を学ぼうX  ヒロシマ・放射線による環境破壊[2009年01月19日(Mon)]
平和を学ぼうX  ヒロシマ・放射線による環境破壊
西尾禎郎著







(「ヒロシマ 祈りと記憶/アーカイブズ http://www.takjapan.com/Nishio070630Nirasaki.doc を元に、
編集しています。 クローバーそよ風)





C 聖 地 ヒロシマ

使徒パウロのローマ教会への手紙5・1〜5
「聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているから
苦難は忍耐を
忍耐は練達を
練達は希望を生む
希望は私たちをあざむ欺くことがない」




ヒロシマ・ナガサキ以後、現在に至るまで大規模核戦争は起きていません。核戦争を防いでいる最大の原因はヒロシマ・ナガサキのヒバクシャの苦難(ミゼール)です。《彼らは無条件に「戦争はいけん!(いけない)」と言います。》それが人類の平和への希望の入り口であると言っても過言ではないでしょう。

教皇ヨハネ・パウロU世、マザー・テレサ、ヘレン・ケラー、ダライ・ラマ、ドミニク・ピール神父※、ザベルか神父などなど、ヒロシマを聖地として巡礼に来られる人々がおられます。

ドミニク・ピール神父: 貧困家庭への無料奉仕。貧しい児童へ休日の行楽地提供。などの事業の後、第2次世界大戦後、東ヨーロッパからの難民救済事業を行い1958年ノーベル平和賞受賞。

 ザベルカ神父:広島への原爆投下機が発進したテニアン島に従軍司祭としていた。米軍の日本占領と同時に来日、ヒロシマ・ナガサキの惨状をつぶさに見、その後平和運動に献身。  】


               
27.生かされた
生きる目的を失った被爆者の中には自殺する人たちがいました。
それとは対照的に、自分にとっては大きな苦痛であるにもかかわらず、「思い出したくないあの日」の“つらい”証言を始めた人たちがいます。

《証言を始めると皆、生き生きとした生活に変わります。彼らは「生かされた」自分の「生きる目的」をはっきりとつかんだからです。
そしてヒロシマのことだけでなく、世界各地の戦争・紛争・内乱などで困っている人々、難民の苦難などについて何とかしようと立ち上がります。》



28.人類の罪を償うヒバクシャ
原爆投下時、沼田鈴子は21歳。
爆心地から1.3キロの広島逓信(ていしん)局の屋上にある大きな部屋にいた。建物の下敷になったが、2人の男性に救助される。外へ出た時、逓信病院は燃えだした。

足首が砕かれブラブラぶら下がっていた。屋外に連れ出され、運動場に畳を敷いて寝かされた。そこで黒い雨にあっている。3日間放置され、左足はひざ関節まで腐った。隣にあった逓信病院で、10日朝に無麻酔に近い状態で、大腿部(だいたいぶ))から下をノコギリで切断。

8月下旬婚約者の父が見舞いに来て、息子が南方戦線で戦死したことを告げた。
両親、妹、同室の患者、婚約者の父、医師その他多くの人が彼女をはげ励まし、生きる努力をするように様々な試みをしたが、

「何一つ希望が持てない。それで、私は結局、逓信局をや辞めてしまい、自殺をしようと思いつきました。そんな時、逓信局の運動場で三本のアオギリの木が目にと留まったんです。爆心地側の幹の半分が熱線で焼かれて、真っ黒になっている。柱で支えられているんですが、いつ倒れてもおかしくない状態です。

〈ああまるで私のようだなア〉と思ってよく見ると、傷ついた幹から新しく細い枝が出てきていたんです。





こんなにひどく傷つきながら、アオギリは一生懸命に生きようとしている。私たちといっしょ一緒に被爆したアオギリが、私に「自分に負けないで生きてほしい」と言ってくれているように思えたのですね。それで私は自殺をやめて、立ち上がる気持ちになったのだから、アオギリは私の命の恩人なんです。」


 1951年、鈴子は母校の家庭科の教師となる。そして、あるとき年下の男性から求婚された。もう自分は恋愛や結婚とは無縁だと思い込んでいたが、心が揺れた。ところがその男性は鉄道自殺をしてしまった。両親から結婚を猛反対されたために。
彼女はますます心を閉ざしてしまう。

 転機が来た。1981年、米国に残されたフィルムでヒロシマを告げる記録映画を作ろうとする、「テン・フィート運動」が始まった。市民が、一口3000円ずつ出し合って買い戻したフィルムに、鈴子が写っていた。10フィート運動の広島事務局長、永井秀明さんの熱心なくど口説きで、鈴子はその写真を記録映画に入れることをしぶしぶ承諾した。

鈴子は、このフィルムが撮影された日のことをよく覚えている。
1946年3月だったと思う。蜂谷院長と看護婦から屋上に上がってほしいと言われ、行ってみると「米軍が写真をと撮りたいといっています。研究のためとのことですので、協力してあげてくださいね」。 この話をそば傍で聞いていた鈴子の母は、ベッドの下から風呂敷に包んだ羽織と着物を取り出した。娘の結婚式の時に着せようと、大事にしていたものだ。

・・・屋上では、何人かの被爆者が次つぎとカメラに収められた。大柄なアメリカ人が鈴子のもとにやってきて、「痛いでしょうが包帯を取ってください」と言った。看護婦さんと母のセキが鈴子の着物の裾をまくり、まだ肉の盛り上がっていない傷口を太陽にさらした。

鈴子は〈どうにでもして〉といった表情を浮かべ、投げやりな気持ちで、映写機に向かって切断された傷口をかか掲げた。・・・


試写会で。
〈この映画が多くの人に観られるなんて。上映はやめてほしい・・・〉
鈴子が下を向いたままの状態で、小さく首を振っていると、そば傍にいた年配の婦人が声をかけてきた。

「このフィルムはあなたが原爆を受けた証(あかし)です。これからは被爆体験を話していってくださいね。」 そう言ったのは原爆で2人の子供を失いながら、修学旅行生に被爆証言を始めていた坂本文子(ふみこ)さんだった。 「私はと到底できません」とうつむいたまま答えた。すると文子は、鈴子の手を握って、自分に言い聞かすかのように、ゆったりと言った。

「私もあなたも生かされたのですよ。大切な使命がありますよ。」

この一言に鈴子はずいぶん随分と悩んだ。・・・・・
〈ここで黙ってしまったら、生かされた意味がなくなるのだろうか〉、やはり、前向きに生きなければと思い直し、被爆の証言者として、名乗りを上げる決心をしたのだ。   (広岩近広著 『青桐の下で』その他)


10フィート運動は、私が、広島で働くようになった意味を考え、ヒバクシャの方々から学ぶようになって間もなくのことです。ほぼ同じ時期に平和運動にかかわるようになった関係か、いまだ、沼っチャンとは親しくしています。

 沼田さんは決して上手な話をする人ではありません。しかし、彼女の話には一切のつくりごとはなく、誠実、親切で、明るい人柄がにじみ出ています。
 多くの修学旅行生に「沼田のおばちゃん」と慕われ、1日に4回もアオギリの下で、証言をする多忙な日々が続きました。

彼女は日本がアジアに対して犯した国家的犯罪に心を痛め、沖縄・韓国へは毎年謝罪の訪問をしていました。中国、マレーシアその他いろんなアジアの国を訪れて謝罪と証言をするし、ヨーロッパ、アメリカへも松葉杖で出掛けてゆきました。

 昨年、私は沼田さんと再会しました。被爆で重い障害のある妹の総子(ふさこ)さんは、鈴子さんの日常生活のお世話を続けてこられました。その妹さんも入院。鈴子さんはリューマチがひどく、そのほか、頚椎(けいつい)がよくなくて、老人養護ホームのベッドで生活しておられます。医師から絶対安静と言われた次の日に、幼稚園へ出掛けて証言をしたりしているので困ったものです。

 今年2月に、証言者であり広島の平和運動のひとつの柱になる李実根(イシルグン)さんに会ったとき「まだ会合に出られていましたよ」と聞いてほっとしました。




 今の彼女は車椅子ですが、かつて松葉杖で歩いていた頃、修学旅行生に演台から話をするのに、松葉杖をかたわ傍らに置き、2時間でもそれ以上になっても一本足で立って語ります。

引率の先生方は「どうぞ腰掛けてください」と言われるし、私がそば傍から「沼っチャン、聞いている方もつらいから、そこの椅子にかけて話してよ。」というと「わたしゃ、すわりゃアせん。」とそのまま続けます。

そして、話し終わってひか控え室で、「すまなんだねえ。西尾さん、あんたもキリスト信者じゃから言うけど、私は必ず立って証言するんよね。それは一つには、日本がアジアの人たちに犯した罪の償(つぐな)いなの。わたしは日本人なのよ。も一つ。戦争というんは人類が神様に対して犯す大きな犯罪です。

私も人間の一人じゃろう。神様へのつぐの償いをせんにゃあ。ところが私には、一本足で立って自分のことをさらけ出す以外、償いがでけんのよ。」

 一人のヒバクシャが、人類の犯す戦争という罪を償うため、一生を捧げようとしているのです。しかも、いつも明るく。

苦しみ・ミゼールは人間をこうした精神的な高みにまで導いてくれるみなもと源なのですね。

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平和を学ぼうY ヒロシマ・放射線による環境破壊[2009年01月18日(Sun)]
平和を学ぼうY ヒロシマ・放射線による環境破壊
西尾禎郎著







(「ヒロシマ 祈りと記憶/アーカイブズ http://www.takjapan.com/Nishio070630Nirasaki.doc を元に、
編集しています。 クローバーそよ風)






U核の秋を迎えて

「女は、‘その木の実が食べてもおいしく、見ても美しく、知識をえるために食べるねうちがある’と思うようになり、その実をとって食べた。そして、いっしょにいた男にもさし出すと、男も食べた。

・・・(主なる神は女に言われた)私は、あなたの身ごもりの苦しみを大いにふやすから、あなたは、子を生むのに苦しまねばならない。・・・(男に言われた)地は、あなたのために、茨(いばら)とアザミをはやし、あなたは、野の草を食べねばならない。額に汗して、あなたは、かて糧を得るだろう。

・・・主なる神は、男とその妻とのために、皮ごろもをつくり、・・・エデンの園から追い出された。」
 (創世記第3章)




30.第二の失楽園 
レントゲン、ベクレル、キュリー夫妻らに始まる放射線の研究は、ラザフォードなどを経て、アインシュタインの相対性理論で、物質の質量が膨大なエネルギーに変わるということがわかりました。

質量とエネルギー:E(エネルギーの量)=mc2(質量×9×1016)
 1グラムの物質が完全に熱エネルギーに変わると100万軒分の風呂の湯が沸かせる。】

ヒナチス・ドイツがオーストリアを併合した1938年には、ドイツ人ハーンとシュトラウスマンがウランの核分裂連鎖反応に成功、核爆弾をつくる可能性がはっきりしました。
これに対抗してアメリカ合衆国でマンハッタン計画が始まり、20億ドル(当時の日本の国家予算の約1年分)という費用をかけ、10万〜20万人を使って3個※の核爆弾が作られました。

 ニューメキシコ州アラモゴードでの実験(プルトニウム爆弾)、廣島へ投下したウラニウム爆弾、長崎へ投下したプルトニウム爆弾の3個】
【注:ウラニウムのドイツ語がウラン。】

ハーンは「我々は科学の下僕となったが、この科学が人類に人類自身を滅亡させる道具を供しているという事実に不安の念を禁じえない。各国が原子力戦争を思いとどまらないならば、破滅の運命をたどるべきだろう。」(1955年7月15日 マイナウ宣言)と言っています。


近代ヨーロッパの啓蒙思想の成果である自然科学の分野で、最も優秀な人物の一人とされるアインシュタインは、死の5ヶ月前に「今度生まれ変わったら、ブリキ職人か行商人になりたい」と言ったそうです。

もとカトリック正義と平和協議会の会長をしておられた相馬司教は「我々は科学の目と信仰の目の両方で見なければならない」と言っておられました。アインシュタインの場合、科学の目に偏りすぎていたことへの反省の言葉でしょう。

20世紀に入ると急速に進んだ量子力学の成果が、“力の論理”によって核時代を開いてしまいました。
それまで地球上になかったプルトニウムなどの新しい化学物質が次々と誘導されました。


私は、これが第2の楽園喪失ではないかと思います。
いわゆる先進国では、新しい科学のおかげで物質的には豊かな生活がもたらされたのですが、日本では推定900万人のうつ病の人がいると言われています。その多くは非人間的な苛酷労働の結果とされるのです。〈額に汗して、糧を得るであろう。〉

また、世界中の人間が、かつて人類の経験したことのない放射能の影響下に置かれるようになりました。例えば日本では乳癌にかかる人の数が40年前の6倍になっています。〈子を産むのに苦しまねばならない。〉

我が家の近くにいる犬さえも慢性白血病で苦しんでいます。
何故なのか、その内容を少し考えてみましょう。



31.核 の 秋
‘核の夏’‘核の冬’という言葉があります。
全面核戦争が起こり、大気圏を保護しているオゾン層が核爆発によって破壊され、大量の太陽放射が地上に降り注ぐようになることが‘核の夏’で、逆に核爆発でできた巨大キノコ雲が空をおお覆い、太陽光線が妨げられて地表温度が下がり、食糧難などのくるのが‘核の冬’です。

 一時期のような東西冷戦がおさ収まり、また、核兵器の小型化が進んで使いやすくなったため、大陸間弾道弾を打ち合う大規模核戦争の可能性は減っています。
しかし、我々人類は全体が、月日を追うごとにより多くの放射能を浴びざるを得ない状況にいます。これを‘核の秋’と呼んでいいでしょう。




A 放射線による環境破壊

32.核 戦 争
 核戦争が最大の環境汚染であることは間違いありません。

 大規模核戦争の可能性は少なくなったと言いましたが、次のような事実があります。
 米国「防衛情報センター」のブレア所長によると「米国が持つ戦略ミサイルのうち約2200発が、命令直後にそく即発射できる高い警戒態勢に置かれている。

全ICBM(大陸間弾道弾)の98%がわずか2分で発射できるし、全SLBM(潜水艦発射ミサイル)だと15分で発射できる状態にある。」 (朝日新聞社から2005年に発行された『核を追う』の中の一節です。)


 また、最近のテレビで「ロシアが最新式の大型ミサイルの製造に成功した」と伝えています。核弾頭を、途中で妨害される可能性を少なくして、遠くに運ぶ新しい手段ができたわけです。


33.ウランの採鉱
 日本のウラン鉱山は岡山県と鳥取県との県境の人形峠、岐阜県の土岐(とき)市と瑞浪(みずなみ)市の境にある東濃(とうのう)鉱山ですが、後者は現在閉鎖されています。
 世界にはカナダ北部、アメリカ合衆国ユタ・コロラド・ニューメキシコなど、オーストラリア北西部、カザフスタン、ウズベキスタン、アフリカのニジェール・コンゴ・ガボン、北朝鮮などいろいろな所にあります。




 アメリカではネイティブ・アメリカンの居留地にウラン鉱山ができ、居留地から追い出された人たちは、その鉱山で低賃金で働かされています。  
1979年にはウラン鉱山ダムから放射能汚染された水が放出され、付近では許容濃度の約6000倍もの汚染が観測されています。(石山徳子氏による)

 ウラン鉱山では高濃度のラドンガスが発生し、肺ガンの原因になります。
【すでに、1940年代にはマンハッタン計画のウラン採掘で鉱山労働者に多数肺ガンが発生している。】



34.核 実 験
 ニューメキシコでおこなわれた世界最初の核実験では、実験場周辺に配置された軍人が、放射能については何も知らされないまま、爆心地に向って行進させられています。
また、マンハッタン計画などで1945年4月〜47年7月に、18人に人体実験としてプルトニウムを注射しています。

 原水爆実験による放射能汚染はよく知られています。
例えば旧ソ連によるカザフスタンのセミパラチンスクでは1949年以降少なくとも320回の実験が行われました。この地域の羊の体内に蓄積された放射能は平均で一般の22倍、最大350倍、ミルクは25倍、骨は4〜30倍というデータがあります。

 アメリカ合衆国によるミクロネシアでの水爆実験の結果、ロンゲラップ島など、住民全員が永久に帰れなくなった故郷の島があります。一部が亡くなってしまった環礁もあります。
甲状腺異常で発育が10歳ぐらいで止まってしまった人が居ます。
かつて、現地の人から「我々は全く実験用動物だ。定期的に身体検査に来る医者は名前を呼ばず番号で呼びつける。」と聞きました。


フランスの核実験場ムルロアではさんご礁に亀裂が生じ、そこからプルトニウムが流出、核実験の風下の海域の魚を食べた人たちに食中毒が多発しています。




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Posted by そよ風さん at 08:26 | アーカイブ | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)

平和を学ぼうZ ヒロシマ・放射線による環境破壊[2009年01月17日(Sat)]
平和を学ぼうZ  ヒロシマ・放射線による環境破壊
西尾禎郎著




写真:井出和彦




(ヒロシマ 祈りと記憶/アーカイブズhttp://www.takjapan.com/Nishio070630Nirasaki.doc を元に、編集しています。 クローバーそよ風)

青森県六ヶ所村核燃料再処理工場(平和を学ぼうY)…からの続き


セラフィールド再処理工場は、イギリスのアイリッシュ海に面したところにあります。そこの周辺の子供たちの白血病多発が問題になったとき、英国燃料公社の幹部は「心配なら子供を作らなければいい」と言っています。

 再処理工場では通常の原発の1年分の放射能を1日で放出するのです。

使用済みの核燃料は再処理しない方がよいことが判ってきて、世界各国では10〜20年前から高速増殖炉の撤退を始めています。

プルトニウム
プルトニウムは「冥界(めいかい)の王」という名のとおり非常に強い汚染源になります。1粒のプルトニウムはタバコの煙の粒子の20分の1しかありません。その1粒でも、空気中から吸い込むか、食物や飲み物にま混じって体内に摂取すると、その放出するα線でガンを発症する可能性が高いとされます。

ラジウムもプルトニウムも人体に取り込まれて骨に付着します。そこまでは同じですが、ラジウムが骨全体に広がるのに対し、プルトニウムは1箇所に集中する傾向が強いので、ラジウムの30倍も害毒が大きいのです。 
 
さらに、原子炉級プルトニウムにはさまざまな同位体が含まれていて、プルトニウム239単独の場合よりはるかに強い毒性を持っています。

同位体: 原子核の中の陽子の数が同じで、中性子の数が違うもの。
    Pu(プルトニウム)238、Pu239, Pu240, Pu241, Pu242】
 
原発側の放射能汚染の計算では、放射性排出物は周辺に均等に放出されるとしていますが、実際には均等には拡散してゆきません。必ず強く汚染される箇所(スポット)が出てきます。

また、周辺に住むのは健康な人間として計算していますが、現実には私たちは大小何らかの形で体内に障害を抱えています。そうした小さな障害は、わずかな放射能を浴びつづけることで、ガン、老化の促進など、死因となる可能性を増加してゆきます。

38.輸 送 事 故
原子炉、核関連工場にはその原料である放射性物質が運び込まれ、廃棄物が運び出されています。それらは輸送中にわずかであっても放射能を排出していますし、事故で拡散するということも起こっています。

アメリカでは1977年に放射性物質を積載したトラックが高速道路で馬と衝突、周囲を汚染していますし、79年にはネバダ州の廃棄物処理場で、トラック運送中の放射性廃棄物が爆発しています。85年には酸化ウランを積んだトラックが貨物列車と衝突しています。

 イギリスでは、日本から再処理のために送られた核廃棄物を積輸送中の列車が脱線しています。

 わが国では今のところそうした大きな事故は起こっていません。しかしもし渋滞中の高速道路などで起こったらどうなるでしょうか。特別な予防措置は講じられていませんから、せいぜい消防署の人や警官が防御服なしにか駆けつけるくらいでしょう。恐ろしいことです。


39.核廃棄物処理の問題
原子炉から出る高濃度の放射性廃棄物を、永久に無害に保管する方法は見つかっていません。それで、原子炉のことを「トイレのないマンション」と言う人がいます。

 低レベルの廃棄物はドラム缶に入れて一箇所に保管し、放射能の減少するのを待つのですが、目先の問題としては、どこの国も、その保管場所がなくなっていることです。野ざらし状態のものも多くあります。

私は1981年にニュージーランドに事務局のある「人間的開発のための太平洋連帯」というグループに招かれ、太平洋各地でヒロシマについての話をして回りました。その帰りに、グアムで開かれた、放射性廃棄物の海洋投棄に関する、日本の科学技術庁の代表と太平洋各国の首脳との話し合いの席に、当時グアムで働いていたシスター清水と2人が招待されました。

発言権はありませんが、日本にも核廃棄物の海洋投棄に反対している人間がいるというので皆に紹介されました。

科学技術庁の人たちは、核のゴミはドラム缶に密閉して深海に投棄するので安全だということを強調するのですが、「なぜ、わざわざ隣人の庭先に持ってきて捨てるのか。それほど安全なものなら東京湾に捨てればいいではないか。」「我々は、危険がないという言葉は信用できない。」と反論して決着がつかず。

ある元首が怒って「Shameless!(恥知らず)」と言いました。その箇所は通訳が飛ばして訳していましたが、科学技術庁のお役人方は分かったのか、分からなかったのか、何も言わず平気な顔ですましていたのが印象的でした。





やがて、1985年、中曽根首相が使用済み核燃料の海洋投棄計画を凍結し、前(35)に書いたように、ロシア海軍による日本海へ核廃棄物投棄の発覚を契機に、放射性廃棄物の海洋投棄は、1994年改定のロンドン条約で全面禁止となりました。

高レベル廃棄物の処理法について少しくわ詳しく見てみましょう。
第一段階はステンレス容器に入れ、ホウケイ酸ガラスに混ぜて固化し、それが中心部で150〜200℃になるまで水中で冷やす。
第二段階はそれを安定した、地下水の影響のない岩塩層に保管する。ということですが、
半永久的に地下水の浸入を防ぐことは考えられません。

私の住いから比較的近い瑞浪(みずなみ)市にある、高レベル廃棄物保管のための実験的タテ穴を見学に行きました。
世界最先端の実験だそうです。(ひょっとすると、こんな馬鹿なことをするのは日本だけということ?)

地下1000メートルまで掘るそうですが、今、200メートルまで掘られています。それでも、地下水の浸入が多くてあらかじめつくられていた水処理施設では足らなくなり、増設していました。

岩盤を掘ってタテ穴を作るのですから、いくらその後を埋め立てても水はた溜まります。1000メートルも溜まった水の圧力はものすごいのではないでしょうか。それについて説明を聞いたら「我々はくっさく掘削と地質調査の仕事なので・・」と逃げられてしまいました。

 さらに、火山、地震などの壊滅的な災害、戦争や採掘など人為的な行為による放射能漏れのおこることも考えられます。
今のところ全世界で安全で現実的な保管のできる地層は見付かっていません。

 北陸電力の志賀発電所は、最近あった能登沖地震の災害地の真っ只中にあり、(2号機は近くの活断層を理由に昨年2月金沢地裁で原発停止の判決)、中部電力の浜岡発電所は、東海地震の被害が最も大きいとされる遠州灘に面しています。

 ユーラシア・太平洋・フィリピン海と3つのプレートの境界線上にあり、断層だらけの日本のどこに安全な保管場所があるのでしょうか。

最近、高知県で放射性廃棄物受け入れをしようという人が出てきました。
高知県知事はカンカンに怒っていましたが、受け入れ地の責任者になろうという人は何を考えているのでしょうか? 地域の目先の経済破綻を免れるため、将来の住民の生命・健康をしち質に入れようというのでしょうか。

さすがにその人物は選挙で負けました。

 原子炉の寿命は50年くらいとされています。普通の状態でもコンクリートの寿命は100年くらいです。原発では、放射性物質からの強力なエネルギーで、金属もコンクリートもボロボロになってゆきます。そうしてできた廃炉をどうするのでしょうか。仮に出来たとしても、長期間安全に維持管理するには莫大な費用が必要です。

 プルトニウム239の半減期は約2万4千年、ウラン235は約7億年、ウラン238にいたっては放射能が半分になるのに44億7千万年と言う寿命の長いものが含まれています。太陽の寿命は、あと50億年といいますから、太陽がなくなってまだ放射能が続くことになります。





40.放射性物質の管理
核関連工場や医療施設、廃船になった潜水艦からの放射性物質の紛失は毎年のように報告されています。

医療関係では1990年に東京大学医学部付属病院で研究用の放射性同位元素のずさんな管理が明らかになりましたが、小さな病院での処理がどのようになされているか、詳細は不明です。

 ブラジル中部のゴイアス市の病院跡地にあった放射性物質のセシウム135を廃品回収業者が買い取り、粉状にして放置していました。それを「青く光るきれいな粉だ」と皆で回して、もてあそんだ人たちは、何人かが亡くなった他、ひどい障害を受けています。彼らはその粉が猛毒だということを全然知らなかったのです。

 ソ連解体後の軍隊内部の管理もずさんで、元軍人が放射性物質を持ち出しているということです。 
アメリカでも幾つかの核関連施設の不完全な管理が指摘されています。

41.テ ロ
テロリストが原発に入り込み、自爆するとどういうことになるでしょう。
汚い爆弾は簡単に作れてテロリストにはもってこいの爆弾だとされています。
 最近、英国で「ポロニウム」という、普通では入手困難な放射性物質を使った暗殺がありました。

ポロニウムはプルトニウム爆弾の中心部に置かれる起爆剤です。
ポロニウムはすい臓に溜まりやすく、耳かき1すくいの粉末で人を殺せます。


42.核 の やみ闇 いち市
世界をまた股にかけた核の闇組織があります。
 パキスタンのカーン博士は有名です。核開発に必要な知識・技術、核施設建設に必要な部品、そして放射性物質取引の1人の中心人物でした。
北朝鮮の核施設建設にも彼の影響がかなりであったとされています。
その他、世界各地で核の闇取引が行われています。

 日本からも、北朝鮮への核分離に必要な直流安定化電源装置3台が「タイ向け」と偽って輸出されようとしていたのが、香港でみつかり、つかまっています。
 国際原子力機関の「密売のデータベース」によると、2003年末までに報告された違法取引、密売、不法所持の総数は540件です。
これは、氷山の一角です。

 ロシアの検察当局者は「(放射性物質を盗むのは)ジャガイモを盗むより簡単」と言っています。
 ごく最近(2007年6月)も、イギリスの新聞が、「ロシアから、放射性物質が闇市場によって、スーダン経由でイランに輸出されようとした。アルカイーダが核兵器製造を目論んでいるのだ。」と報じています。

 核関連の闇取引は麻薬の何倍ももう儲かる商売とされています。

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平和を学ぼう[ ヒロシマ・放射線による環境破壊[2009年01月16日(Fri)]
平和を学ぼう[ ヒロシマ・放射線による環境破壊
西尾禎郎著



(データベース http://www.takjapan.com/Nishio070630Nirasaki.doc を元に、編集しています。)


C 政治的問題
46.いん隠 ぺい蔽
1974年、米国カーマギー社のずさんな放射能管理の資料を持っていたカレン・シルクウッドさんが交通事故死、謀殺の疑いがあります。

私は1980年代の初めに、広島の幟町(のぼりまち)教会でロザリー・バーテルに会いました。小柄なやさしいカトリックのシスターです。彼女は白血病の増加に関する遺伝的または環境的要因の調査研究をしていました。

50以上の要因について研究した結果、医療用X線が白血病の主な原因になっていることに気づきます。そして、ナイアガラ州の公聴会で、原子力発電所の平時の放射線放出が医療用X線を2〜3回浴びるのにほぼ等しいということを聞き、原発の危険性についても研究をし、各地の公聴会などに招かれるようになります。

そうしたある旅行のとき、乗り換えのために降りた飛行場で飲んだ飲み物に睡眠薬が入っていました。また、それとは別に、講演に行くため自家用車で高速道路に入ったとたんタイヤが4つとも外れて、クラッシュ。

その横を、確認するかのようにして走り去った車がありました。そして、次のことを私に話すときには涙を流していました。「この間、私の研究室は銃弾がダダダダッと打ち込まれたのよ。」

【何人かの広島の人間が話し合い、早速、彼女を発見されない場所に隠しました。】

彼女は米国議会の小委員会でも、その研究結果を発言しないよう圧力をかけられ、それまでの研究所を辞めて、少数の協力者と共にニューヨーク州で『市民の健康を憂慮する省』を、トロントに『市民の健康を憂慮する国際研究所』を設立しています。
(2005年、彼女の『戦争はいかに地球を破壊するか ―最新兵器と生命の惑星』という本がわが国でも翻訳・出版されています。)

こうした例でわかるように核関連の事については、ひたすら隠そうとする人々がいます。軍事関連はもちろん、日本の電力会社の事故隠しはよくご存知でしょう。なぜ、隠そうとするのでしょう?

「放射能による環境汚染は恐ろしい結果をもたらす。しかし、軍事力を高め、大企業が利益をあげるためには、国民から反対の声が高いと困る。であれば、放射能の危険については、利益をあげる側のトップだけが知っていればいいことで、国民に知らせず、安全だと思わせなければならない。」こうした論理が押し通されているのではないでしょうか。
簡単に言えば「核は恐ろしいから隠す」のです。

「ここ数年、地球環境の危機がさまざまに語られている。だが、なぜか放射能汚染問題が抜け落ちている。放射能汚染は地球環境を語る際の“原点”ではないのか。」(中国新聞「ヒバクシャ」取材班『世界のヒバクシャ』)






47.構造的暴力・人間の自己疎外
構造的暴力というのは、その仕組みではお金持ちがますます儲け、底辺にある人が益々貧しくなる社会的な仕組みのことです。

人間疎外とは、人々が豊かな生活をしようと努力すると、むしろそのことによって自分たちの首を絞めて、貧困になって行くことをいいます。

軍備・原発に関し、その運営者とそれによって安全・恩恵をこうむるはずの一般庶民との間に、厚い壁があることはお分かりでしょう。

オーストリアのレンジャー鉱山は原住民アボリジニたちの古くからの聖地ですし、先ほど述べたもとナバホ族居留地のウラン鉱山もナバホの聖地です。
国家や巨大資本の力で、聖地が猛毒の産地にされたわけです。

ウラニウム鉱山の労働者、原発の清掃をにな担わされている人、核兵器工場で働く人、核施設の置かれている場所などなどを考えると、核関連産業に関しては、非常に大きな構造的暴力・人間疎外の力の働いていることがお分かりと思います。

広島・長崎の被曝者は厳しい差別を受けました。「きたな汚い」と。そして結婚・就職で。
私はチェルノブイリの子どもたちにもあ逢ったことがあります。彼らも半ば障害者として、今後いろいろな生活面で、差別されるのでしょう。

これら差別の根本について、上記『世界のヒバクシャ』の‘あとがき’に、大変よく分かる文章がありますので読んでみます。

「一年余りの取材を振り返って、私たちは奇妙な符合を忘れることができない。
ウラン採掘場、核兵器工場、核実験場、原発、核燃料再処理工場、歩いた場所がたいてい、都市から遠く離れた土地だったのである。例えば核実験場は、ビキニ(米国)、クリスマス島(英国)、ムルロア(フランス)、カザフ原野(ソ連)といったように、辺境地にある。ヨーロッパ各国の原発を地図に書き込んでみると、その多くが辺境地帯に立地していることが分かる。

これが何を意味するか、むずか難しく考える必要はあるまい。要するに、その場所を選んだ人たちは、放射能による汚染が何をもたらすかをよく知っていた。

「核の時代」が、そういう近代文明から遠く離れた場所の、純朴な人たちの犠牲のうえに成り立っているという事実を、私たちは胸にしっかりと刻んでおきたい。span>

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Posted by そよ風さん at 13:30 | アーカイブ | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)

平和を学ぼう\ ヒロシマ・放射線による環境破壊[2009年01月15日(Thu)]
平和を学ぼう\ ヒロシマ・放射線による環境破壊 (ラストページ)
西尾禎郎著 




写真:井出和彦


(「ヒロシマ 祈りと記憶/アーカイブズ http://www.takjapan.com/Nishio070630Nirasaki.doc を元に、
編集しています。 クローバーそよ風)


55.自然の友に取次ぎを
アシジのフランチェスコは遊び好きな若者でした。病弱で、修道会を創立してからも神学についてはくわ詳しい人ではなかったようです。

しかし彼は最も神に近い人として、多くの人々にした慕われています。その、「環境保護に働く者の守護の聖人」フランチェスコに取次ぎを祈りましょう。
知恵ではなく、霊に従ってまず貧しさを求めた彼は、
“太陽の賛歌”の中で

「(われわれの)兄弟である太陽(ブラザー・サン)と共に、
姉妹である月(シスター・ムーン)と星によって、
兄弟である風、空気・・・によって、
姉妹である水によって、
兄弟である火によって、
姉妹である母なる大地によって、
あなたの愛のゆえにゆる赦し、病と苦難を耐え忍ぶ人々によって、
あなたはたた称えられますように。」

と祈っています。
そして、死の直前には死をも感謝をもって受け入れ、その賛歌に

「主なる神が、私たちの姉妹である肉体の死によって、称えられますように」
と付け加えています。






写真:天の欠片




2007年6月30日の韮崎での話の原稿 西尾禎郎 (にしお よしお)

後記:この文章のために特に多く引用したのは次の本からです。
   主なものだけ上げておきます。
中国新聞社「ヒバクシャ」取材班 『世界のヒバクシャ』 講談社1991年刊
朝日新聞特別取材班 『核を追う』 朝日新聞社2005年刊 
『季刊軍縮 地球市民』2007春 特集 原発シンドローム』 西田書店
『人類は生きねばならぬ 森滝市郎の歩み』森滝市郎追悼集刊行委員会1995
広岩近広著『青桐の下で』 明石書店1997年印刷
肥田舜太郎、鎌仲ひとみ著『内部被曝の脅威』 ちくま新書2005年刊
舘野之男著『放射線と健康』 岩波新書2001年刊
山田克哉著『核兵器の仕組み』 講談社現代新書2004年刊
G・アンデルス、C・イーザリー著篠原正瑛訳『ヒロシマ わが罪と罰』
 ちくま文庫1987年刊
岩波文庫『ある巡礼者の物語』イグナチオ・デ・ロヨラ著 門脇佳吉注解2000年刊



韮崎教会創立50周年記念で私に与えられた時間は1時間30分でした。
それだけ多くの時間がいただけるのは珍しいことです。
上に書いた原稿を一度にしゃべっても、聴衆は疲れるだけでしょう。
1時間30分にちじめてお話しようとしたのですが、前半(ヒロシマ・ヒバク)の部分が長くなり尻切れトンボのようになりました。

―注意していても、いつもそうなるのです―。
 もしも、ここに書いた文章を読んで、「ハハー、こういうことが言いたかったのか。」と分かってくださると幸いです。

 当日は来られなかった方、またよく聞こえなかった方に読んでいただくと嬉しいです。
 特に中・高校生など若い方、核問題の理解を深めてその環境破壊に打ち勝つようにしましょう。力を合わせて。

文中【  】の部分は注釈です。参考にしてください。
物理の話など分かりにくいところは飛ばして読んでください。
お話した間にスクリーンに写していただいた写真や絵はここでは省略しました。
この文章の誤りを指摘していただくと幸いです。
また、この文章は自由に利用されて結構です。


Posted by そよ風さん at 14:04 | アーカイブ | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)

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