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【唐桑ルポ25】原田燎太郎氏の唐桑中講演会〜Part2〜 [2015年03月22日(Sun)]

「唐桑は奇跡のマチだって言う人がいるんだよ」
事務局・加藤がそういった途端、中学生の目つきが変わった。

奇跡のマチ・唐桑
鈴木重雄さんとtkm.png



唐桑の国民宿舎唐桑荘の前にこの銅像が建っている。
故・鈴木重雄さん。彼は唐桑出身のハンセン病回復者だ。
優秀だった彼は、東京商業大学(現在の一橋大学)在学中にハンセン病が発病した。

当時の日本は「らい予防法」によるハンセン病患者の隔離政策の真っ只中であり、
中国と同様、一家からハンセン病患者がでたことが世間に知れたら家族も差別対象になった。
もう故郷には帰ってこれないと思った故・鈴木さんは両親にもハンセン病だということを告げず、
海外への亡命を装い、自殺場所を探す旅にでる。
旅の途中でハンセン病の国立療養所に行き着き、療養所で「田中文雄」として過ごした。

その後、ハンセン病も陰性となり社会復帰をした彼は、ふるさと唐桑のために尽力する。
それを知った一部の町民が町長選挙に推薦。1973年。鈴木重雄さんは町長選挙に出馬した。

この話を紹介した後、加藤は続ける。
「結果、僅差で負けたのですが、この話は実はすごい。」

当時の日本のハンセン病差別は世界にも類を見ないほど徹底していた。
警察を動員して、ハンセン病患者刈りを行ったほどだ。

そんな時代に、ハンセン病回復者である故・鈴木重雄さんが
自分がハンセン病元患者ということを明かし、出馬した。
この人だったらこのマチをよくしてくれるかも。と応援した人がいた。

「唐桑は奇跡のマチだって言う人がいるんだよ」

それから40年、東日本大震災が起き、からくわ丸の前身である、
FIWCのワークキャンプが唐桑に入った。
−−−−−−−−
「ワークキャンプで世界を一つの家に」
原田さん、加藤の共通の「志」を受けた中学生の中から、ワークキャンパーになる人が出るかも?!

(文:佐々木美穂)
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