7ヶ国語を操る老師
[2006年11月06日(Mon)]
72歳から語学に取り組み、83歳の今では7ヶ国語をストレスなく話す。今日はそんな老師の話しです。満州に初めて渡った時、中国の文化の素晴らしさに衝撃を受け、中国語を学ぼうとしたが、日本占領下では、日本人が中国語を学ぶことなどできるはずもなく、徹底した差別教育受けた上に満州では、全て日本語だったそうです。
帰国後、戦後の日本を経験され、働く事しか知らず、奥様に先立たれた後、2人のお子さんを男手一つで育て上げ、やっと今から好きな事ができると、1人になった寂しさもあり、近くのカルチャーセンターに通い始めたそうです。ボケるのが怖かったとも言っておられました。
ところが、カルチャーセンターで会う仲間は、皆、同年代でともすると、じいさんばあさんの意地の「突っ張り合い」になりがちで、次第に興味も失せてしまい、足が遠のいていったそうです。
毎日テレビでは、いつかボケると思いながらの日々が続いて居た頃、ふと中国語のことを思いだし、地元熊本の中国語教室に通い始めたが、すぐに挫折、ラジオやテレビの講座もやってみたが、長く続かなかったそうです。「漢字の読み方や文法のてほどきが続くうちに、やる気も根気も気が失せた。そもそも、老人には無理だと思った」と言っておられました。
(いえいえ、ご老人では無くとも普通無理です)
趣味の山歩きも体力の衰えであきらめ、虚ろで暇な日々に逆戻り、そんなある日、街で見掛けたヒッポファミリークラブの『7ヶ国語を話そう』の文字が…
この先は、セールストークになりますので割愛させていただきます。
しかし、恐るべしは、老師のチャレンジ精神!なんでも、散髪屋で「黒い髪が増えましたね」って言われたとか、ヒッポファミリーに参加して4年後には、通訳ボランティアもこなしたそうです。時に老師76歳の夏。
最後に老師の語学上達の極意を!
『話そうと思わず言葉を歌え!』
『言葉はリズムとメロディーだと思え!』
老師あなたの話は最高でした。有難う御座いました。
…携帯より…
帰国後、戦後の日本を経験され、働く事しか知らず、奥様に先立たれた後、2人のお子さんを男手一つで育て上げ、やっと今から好きな事ができると、1人になった寂しさもあり、近くのカルチャーセンターに通い始めたそうです。ボケるのが怖かったとも言っておられました。
ところが、カルチャーセンターで会う仲間は、皆、同年代でともすると、じいさんばあさんの意地の「突っ張り合い」になりがちで、次第に興味も失せてしまい、足が遠のいていったそうです。
毎日テレビでは、いつかボケると思いながらの日々が続いて居た頃、ふと中国語のことを思いだし、地元熊本の中国語教室に通い始めたが、すぐに挫折、ラジオやテレビの講座もやってみたが、長く続かなかったそうです。「漢字の読み方や文法のてほどきが続くうちに、やる気も根気も気が失せた。そもそも、老人には無理だと思った」と言っておられました。
(いえいえ、ご老人では無くとも普通無理です)
趣味の山歩きも体力の衰えであきらめ、虚ろで暇な日々に逆戻り、そんなある日、街で見掛けたヒッポファミリークラブの『7ヶ国語を話そう』の文字が…
この先は、セールストークになりますので割愛させていただきます。
しかし、恐るべしは、老師のチャレンジ精神!なんでも、散髪屋で「黒い髪が増えましたね」って言われたとか、ヒッポファミリーに参加して4年後には、通訳ボランティアもこなしたそうです。時に老師76歳の夏。
最後に老師の語学上達の極意を!
『話そうと思わず言葉を歌え!』
『言葉はリズムとメロディーだと思え!』
老師あなたの話は最高でした。有難う御座いました。
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