先週、TOKYO FM ホールで和太鼓コンサートがあった。原発事故で避難している楢葉町の和太鼓グループが3月13日に福島で予定していたものだ。
そのコンサートの中に和太鼓の体験があり、客席からおじさん、おばさん、お姉さん、子供が選ばれ舞台に登った。
比較的複雑な拍子の模範演奏があって
「簡単ですね。ではやってみましょう」
となる。
無理無理。経験がない者には出来ない。
「拍子を歌えれば、たたけます」
モンタナ・キング先生のパーカッション授業と一緒だ。
「行きますよ。最初は、まーぼーどーふ(麻婆豆腐)」
みんな「まーぼーどーふ」」4回たたく。
1人、歌わないおじさんが5回たたいてしまった。
「麻婆豆腐 丼、じゃないですよ。麻婆豆腐。声を出して下さい。出せば大丈夫」
覚えるのは拍子ではなくメニュー。
「まーぼーどーふ、やくにくてーしょく、ちゃーしゅうめん」
声をだすと身体がついてくる。
初めてバチを持った人たちも複雑な拍子が打てる。
運動指導時の声出し、脳性麻痺のリハビリに活用されるペトー方式・・・様々なことが結びつく。
そんな話を望月先生と木村先生と話すと更に広がる。ゴルフスイングや、日本語は4拍子になってしまうこと(イントネーションの言語ではなく、拍の言語)などなど・・。
大学に進学すると多くの場合、たとえば音楽の授業は無くなる(小学校教員免許を取得する武大生には音楽の授業があるが、その他の学生にはやはり無い)。
国際武道大学学生が体育を専門とするなる過程で準備すべき総合的な知・教養として、自らの身体を動かして経験し,身体を発見し、理解した身体を言語化する作業が重要だ。リズム・拍子だけではない。150km/hのボールをバッターボックスで見たり、血中酸素がどのように消費されるか水中で確認したり(心を落ち着けてゆっくり泳ぐと25m潜水できる)、自分の体を使った実験が必要だ。
これまでの「教養」は学問分類によって分けられ、それぞれの分野を専門とする教員が解説してきた。知の縦割り構造を見せる限界も認識されて「人間と社会」「自然と人間」といった区分けも出てきた。しかし、それでも縦割りの複数の知を授け、それらの知を横に応用する力の養成の大部分に教員は関与していないように思う。
縦割りの知識など、その分野が複数に及ぼうが簡単に手に入る時代である。縦割りの知を横に応用する知こそ、教養教育の中心となるのではないか。「学生の質が落ちているから」論にすり替えてはいけない。この時代環境の中で、何を学生に伝えたいかという問題だと思う。
大学における教養教育の解体を経て、教養教育の充実が迫られている。それは単なる揺り戻しではなく、新しいチャレンジをもって実現されることになる。