先日、11月2日は父の誕生日だった。
5年前に父が文藝春秋に寄稿した文章を、いずれネットにアップしようという話を家族でした。今日がそのタイミングだった。字数制限があり、1度にアップできない。読みやすいように後半を先に、前半を以下にアップする。
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「戦艦大和ノ最期」六十年目の証言
松井一彦
文藝春秋 2005年8月号
四月七日、戦艦大和沈没から六十周年にあたるこの日、私は朝日新聞の「天声人語」を読み目を疑った。
紙面では、今日が戦艦大和が九州沖で米軍機の猛襲を受けて沈没した日であることを述べ、その戦闘に参加した吉田満少尉が戦後書いた『戦艦大和ノ最期』を紹介している。
<▼奇跡的に生き残った吉田氏が、終戦直後にてんまつを記した『戦艦大和ノ最期』は、時を越えて読み継がれてきた。大学を出たての青年の記述は今も鮮烈だ。>ここまではよい。
問題は二つ後の段落である。
<▼漂流者で満杯の救助艇では、こんなこともあったという。「船ベリニカカル手ハイヨイヨ多ク、ソノ力激シク……ココニ艇指揮オヨビ乗組下士官、用意ノ日本刀ノ鞘ヲ払ヒ、犇メク腕ヲ、手首ヨリバツサ、……敢ヘナクノケゾツテ堕チユク、ソノ顔、ソノ眼光、瞼ヨリ終生消エ難カラン」>
この部分だけ読んだ読者は、大和から投げ出されて救助艇の船ばたに殺到した漂流者の手首を救助艇の指揮者が斬る光景を、吉田氏が直接目撃して、<終生消エ難カラン>と述懐しているように読むだろう。しかし、これは二つの意味で問題がある。
第一に原文では、この前に「『初霜』救助艇ニ拾ワレタル砲術士、漏ラシテ言ウ」と、これが伝聞情報であることが明記されている。が、「天声人語」の引用ではこの部分がないため、あたかも吉田氏がこの光景を目撃したかのような印象を与える。
第二に、これが最も重要であるが、「こんなこともあったという」「手首切り」の事実は断じてなかったのである。
ここに出てくる駆逐艦初霜の救助艇の「艇指揮」とは、私である。当時、初霜で私以外の者がその任に当たった事実はない。実際には、大和ではなく同じ日に沈没した巡洋艦矢矧の救助を担当したのだが、艇指揮である私も、下士官も、後述するように整然と救助を待つ将兵たちを全力で救助したのである。この点については、吉田氏に手紙で申入れをして、返事をもらったことがある。
「天声人語」は戦争の悲惨さを示す具体的な事例として引用をし、<戦場で命を奪われ、また命を削られた人たちの慟哭を思った。>と結んでいる。
朝日新聞に事実を伝えたが、「本に書かれていることを引用したに過ぎず誤報とは言えない」とのことであった。もっともな説明である。「天声人語」の引用に誤りはない。
しかし、このようなコラムによって、読者側に誤った事実が史実であるかのように印象づけられてしまっては、当事者である私は無念であり、また戦友たちにも申し訳が立たない。
ここで自分の経験を証言として残し、誤った事実が史実とされることを防ぎたいと思う。
生存者は整然と救助を待った
私は大正十三年生まれ。福岡県久留米市の福岡県中学明善校(現在の福岡県立明善高等学校)を卒業し、昭和十六年一二月江田島の海軍兵学校(73期) に入学した。十九年三月兵学校を卒業すると、二一駆逐隊付となり、十九年九月に少尉任官と同時に駆逐艦「初霜」に乗り組みとなった。
大和の最期のとき、初霜は大和からわずか千メートル程しか離れていない場所にいた。その模様を私は真近に目撃した。
四月七日十一時三六分、大和が「敵飛行機発見」の旗を上げ、戦闘が始まった。この日は雲が非常に低かった。上を見上げると、雲の切れ間に夥しい数の敵の飛行機が見えた。雲の中に飛行機が充満している感じであった。
第一波の攻撃で、大和は通信不能になり、これ以後初霜が通信代行艦になる。大和から送られる発光信号や手旗信号を無線で連合艦隊に転送する役を果たしていた。
大和は、たびたび被弾するものの当初は速力も落ちないし、傾きもしない。さすがに不沈戦艦だと思っていた。しかし時間の経過とともに、傾斜を深め、それを復元するために注水を繰り返したため、だんだん吃水が深くなった。そして左回頭を続けるようになった。
十四時過ぎ、敵雷撃機からの魚雷の発射があり、大和の左舷に水柱が上がった。そして左側に傾斜がさらに増し、艦の赤い腹が水面上に出てきて、その上に乗員がばらばらっと蟻のように乗るのが見えた。さらに七十、八十度まで傾いたと思った時、ちょうど艦の真ん中から巨大な火柱が上がった。乗員たちを含め、いろいろな物が一緒に吹き飛んだ。初霜では、皆が上甲板に立ち、親に死なれた幼児のような気持ちで、大和の最期を見つめていた。間を置かず、爆発による熱風が我々の顔を襲った。その熱さは、六十年たった今でも忘れられない。
初霜の艦長が、電報を口述したので私が筆記した。
「大和、更に爆撃を受け、一四二一(十四時二十一分)左に四五度傾斜して誘爆、瞬時にして沈没す」
という内容だった。
大和が沈没した後の海面は、重油と浮遊物が望見されるだけで、助かった人は一人もいない、という印象を受けた。敵の攻撃もかなり前から止んでいた。
大和沈没後、残ったのは初霜と冬月と雪風の三杯だけであった。この三杯であくまでも沖縄特攻を遂行しようと、我々は沈没現場を離れ、しばらく沖縄を
目指して走った。しかし、十六時三十九分、連合艦隊から、「作戦中止、生存者を救助して佐世保へ帰投せよ」という命令が発せられた。そこで我々は沈没現場に戻った。
初霜は矢矧が沈んだ場所に向かった。私は初霜の艦長から第二水雷戦隊の司令官以下を救助せよという命令を受け、救助艇の艇指揮を務めた。海は一面重油で真っ黒で、生存者たちは重油まみれだった。双眼鏡で第二水雷戦隊の司令官、参謀を発見し、彼らをはじめ、順次生存者を救出していったのである。
生存者は、浮遊物につかまって救助を待っていた。目をやられて状況がわからなくなった兵士が、置いていかれては大変だと、声を振り絞って「助けてくれ」と時々叫んでいた。しかしそれ以外は、叫ぶ者も、救助艇に殺到する者もいなかった。彼らはただ静かに順番を待っていた。負傷した者を先にしろと、順番を譲り合うことさえあった。
多くの者は重油で全身真っ黒になっており、爆風で火傷を負った人も多かった。腕を掴んで引き上げようとすると、腕の皮がずるりと剥けたりした。そんな中、我々は、救助艇で艦と現場を何度も往復して、できる限りの生存者を助けた。
敵の飛行艇が射程外に着水し、自軍のパイロットを助けているのが見えたが、すでに戦いは終わり、海上はとても静かだった印象がある。私が見た光景は、砲術士が吉田氏に漏らしたような「今生ノ地獄絵」とは思えなかった。
大和の生存者の救助には、冬月と雪風があたった。直接見たわけではないが、砲術士の話のような事態が起きるはずがない。
救助は一八時一五分に打切られ、その後は航行不能になっていた霞と磯風に残っていた人員を初霜に移し、初霜は翌四月八日九時五〇分に佐世保に帰投した。
これが私の経験した事実である。
第一に、海軍士官が軍刀を常時携行することはなく、まして救助艇には持ち込まない。私は海上特攻作戦に際して、初霜の中に軍刀を持ち込んだ。いざ沖縄に上陸した際には必要になるからである。しかし艦内の士官室にある刀架けに架けたままだった。一刻も早く、一人でも多く救出しようというときに、わざわざ士官室に軍刀を取りに戻り、その重たい軍刀を持って狭い救助艇に乗る愚行を私はしていない。
第二に、救助艇は狭くてバランスが悪い上、重油で滑りやすく、軍刀などは扱えない。救助艇は手こぎボートが数回り大きくなった程度のもので、重油で滑る船ばたに立って軍刀を振り回したら、バランスを崩して自分の足を切りかねないし、転落の恐れもある。
第三に、救助時には敵機の攻撃もなく、漂流者が先を争って助けを求める状況ではなかった。生存者たちは非常に秩序だって行動していた。
以上のような理由から、救助艇で軍刀を振るった「手首斬り」などあり得ないとしか言いようがない。
後半につづく