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父(17-20歳)の日記 [2010年11月29日(Mon)]
朝6:35の飛行機に乗って「山口県阿武隈郡弥富」に向かった。現在は萩市になっている。そこが松井の先祖代々の土地だ。

祖父は松井家に養子に来た。萩中学を卒業後、陸軍士官学校に入った。職業軍人となった祖父の転勤に伴って父は全国を転々とした。熊本で生まれ、豊橋で小学校に入学し、平壌で小学校に通い、福岡の中学校に通った。弥富にはほぼ住んでいない。

現在は市に無償で貸し、保育園が建ち、保育園の駐車場脇に代々の墓と土蔵が残っている。
戦後、祖父母と叔父叔母が住んだが、父が彼らを東京に呼び寄せて以来、親族も住んでいない。

生前,父は代々の墓を東京の墓所へ改葬することを考えていたが、できなかった。今回はその約束を果たしに来た。通常、改葬許可書が必要だが、今回は不要。土葬の場合、50年もすると骨も何も出てこない。骨が無いと市役所は許可書を出せない。

人は土に還る。僧侶に読経してもらい、土を集め東京の墓所に改葬する。

土蔵の荷物を整理すると父の17歳〜20歳の日記手帖があった。

その中に、綺麗に折りたたまれた官報電報があった。「カイヘイゴウカクイインテウ」海軍兵学校合格通知だ。昭和16年11月3日・久留米の消印がある。
そこから始まる兵学校在学中の日記をめくった。

メモのような日記。「積分ヨクワカラズ」「英語居眠リ、恥ヲカク」などの記載がある。これを書いた父と同じ歳の時に読みたかった。高校生の私は勇気づけられただろう。

父は昭和16年12月1日に入校している。1週間後に真珠湾攻撃あり、父は対米戦争の最中に学んだ。兵学校は戦争中も英語教育を絶対にやめなかった。「バスケットボール試合」などの記載もある。バスケットボールもやめなかったのだ。

父が戦艦大和ともに沖縄に特攻した直前の4月2日の記載が、日付がある最後の記載になる。

「職責ニ全力ヲ盡(つく)クス 一分一秒ガ全生涯ト心得」

戦艦大和は4月7日に沈んだ。沈んだ位置を計ったのは無傷であった駆逐艦初霜に搭乗していた父だった。大和沈没後も暫く沖縄を目指し進むが帰還指令が出て、20歳の父は死ななかった。

65年前に遺品になるはずだった日記。
65年経って遺品となった。
Rooftop Surfing [2010年11月25日(Thu)]
比較スポーツ文化論で特別講師になっていただい冨田誠先生がJTのコマーシャルに出演中。部長さん(ルーフトップサーフィンのレジェンド)役。

サーフィンの偽物?

イリュージョン(幻想・錯覚)はそんなに悲しいものではない。
なぜなら、脳が「現実」と思っていることの総てがイリュージョンであることを誰も否定できないから。

そして、たとえ総てがイリュージョンだとしても、最高のイリュージョンは、実際に空を飛んだり、海に入ったりするイリュージョンではなく、そのすばらしさを他者と共有しているというイリュージョンだ。

他者と感動を共有しているというイリュージョンの中いるときに
「これはイリュージョンではない、夢ではない」
と、我々は確信できるから。
slackline デモ [2010年11月24日(Wed)]
比較スポーツ文化論はスラックライン。NIPPON OPEN SLACKLINE CHAMPIONSHIP 2010の優勝者、我妻吉信さんをお招きした。


我妻さんのバックフリップなどをハイスピードカメラで撮影させてもらった。なぜかAFの調子が悪くピンぼけ。


武大生は能力が高い。わずか40分程度の経験であったが、多くの者がすぐライン上に立てるようになり、何人かは高度なトリックを成功させていた。来年のNIPPON OPENを目指して欲しい。
最後の試合 [2010年11月22日(Mon)]
全日本大学学生空手道選手権。
残念ながら国際武道大学は近畿大学(呉)に敗れた。

いい試合であろうが何だろうが、悔しい。

私も悔しかったが、実は感動もした。
これまでの試合の中で一番感動した。
今までの試合がダメだったのではない。
これまで手を抜いていたのでもない。

「国際武道大学学生として最後の試合」

だから良かったと言うのは彼らに失礼だろう。
わかっている。
しかし、私はいつもより感動した。

最後の試合は最高の試合。
いつもより頑張ったからではない。
努力し、稽古をして、向上してきた彼らの心技体がもっとも高いレベルに至ったからだ。最後がいいに決まっている。次はもっといいに決まっている。

本当に良い試合だった。
OBの方々から言葉を頂いた。その中から2つのことをピックアップした。

「最後まであきらめない」
「『たられば』はないが『たられば』を考えないと反省できない」

長くなるので宿題を出します:
「最後まであきらめない」とはどういうことか?
「あなたにとっての『たられば』は何か?何ができたのか?」

長いお話しは勝浦で。
スラックライン [2010年11月20日(Sat)]
来週の比較スポーツ文化論の授業にヨーロッパを転戦し(ワールドカップ、ベスト8)、10月末に開催された2010 NIPPON OPEN SLACKLINE CHAMPIONSHIP で優勝した我妻吉信氏と普及に尽力している屋代幸平氏をお迎えする。

屋代さんによると柔道部員がうまいらしい。武大生は30分程度である程度乗れるようになる。30分の間に自分の体が順応していくのを体験できる。学生は昔自転車に乗れるようになったときの感動を思い起こしてくれるだろうか。しかしできるようになるとできなかった時のことは忘れてしまう。

ミュンヘンで開催されたGibbon Slackline WorldCup 2010(ベスト8)の映像


2010 IMS ワールドカップファイナル(ベスト8)の映像



乞うご期待。
父との約束 [2010年11月18日(Thu)]
海軍中尉として父を葬送する約束を冗談のように父とした。

「『海ゆかば』を歌って敬礼するよ」

江田島に連れて行ってくれた頃だったと思う。父が教えてくれた「海ゆかば」の歌詞は通常と違っていた。通常は最後「かへりみはせじ」と歌う。しかし父は「長閑(のど)には死なじ」の方を歌った。海軍ではそうだったのか、父の趣味かは今となってはわからない。父は勇敢さを肯定するが、妄信を否定していたようにも思う。

海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば 草生(くさむ)す屍
大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ
長閑(のど)には死なじ

父の棺が炉に入り金属の扉が閉まるとき、私は敬礼した。
父との約束を少し果たしたことを思い、同時に果たせなかった数々の父との約束を省みた。急に涙があふれた。

父は子供に涙を見せなかった。小学校の頃、父に「大人になったら泣かないの」と聞いたことがある。父は笑った。隣にいた母が「松井おじいちゃんが亡くなったときに泣いたんだって。大人になってもお父さんが死ぬとね、盾が無くなった気がするんだって」と言った。父は苦笑いした。

父の生命情報を私は引き継いだ。さらに私のこどもに引き継がれ生き延びる。しかしその生命情報に基づく細胞の集合体としての「父」は消える。私もいずれ消える。実は昨日の私はもういない。1年前の私は分子レベルでは、ほぼ「別物」だ。私の意識は同一性を維持するが、その自意識は幻想だ。父も、私も、息子も、日々消える。

それでも生き残るのは、生命情報だけではない。もう一つの情報がある。「人」が著作、発言、行動で日々紡ぎ出す「文化」だ。「文化」は周りの人を豊かにし広がっていく。引き継がれる。その影響は永遠に消えない。


とにかく父は、私たち子供が様々な教育を受ける機会を与えてくれた。それで私はいろいろなことを考えることができる。どのような状況でも、希望の物語を失わず、進むことができる。
あなたは誰ですか? [2010年11月17日(Wed)]
大学2年生の時だったと記憶する。
卒業する先輩達の記録を撮ろうと、ビデオカメラを持ち出した。VHSコンパクトをつかった20万円ほどの機械を父が購入したのだ。父としては自分のゴルフスイング撮影を目論んでいたのだと思う。

卒業する4年生達のインタビューを撮っているうちに、これは面白いと他の学年の先輩・友人達のインタビューも撮り始めた。寺山修司をマネしたインタビューだった。

「昨日の今頃、何をしていましたか」
「昨日は何を食べましたか」
「10年後あなたは何をしていると思いますか」
などの質問のあとに、
「あなたは誰ですか?」
と問うインタビューだ。

「あなたは誰ですか?」への答えが面白い。
自分の名前を名乗る者もいれば、学生など肩書き的なものを言う者もいる。肩書き的なことを言う者は何となくダメな気がしていた。

家で撮影の話をしているうちに、両親へのインタビューも撮影することになった。父にインタビューして、最後にお決まりの「あなたは誰ですか?」という質問をした。

「あなたは誰ですか?って何だ。」
「何でもいいんだよ。弁護士松井一彦ですとか、ゴルファー松井一彦ですとかあるでしょ。松井一彦だけでもいいんだよ。じゃあ行くよ」

RECボタンを押し「あなたは誰ですか」と問うと、父は静かに言った。

「海軍中尉です」


予想していなかった。格好悪いと思っていた肩書きだった。しかしそれを格好悪いと思わなかった。

父は戦後も海軍中尉として生き方を律してきたのだと感じた。肩書きが人を律することをポジティブに捉えることができた。

暗殺されたJ.F.ケネディー大統領の葬儀の時、幼い息子が母親に促されて父の棺に敬礼するシーンを思い出し(J.F.ケネディーも海軍中尉だった)、父が亡くなった時は海軍中尉として送らないといけないのだなと思った。
20歳の父 [2010年11月16日(Tue)]
父は戦争中のことについて質問すると静かに答えてくれた。
小学生の頃ウォーターラインシリーズに凝っていた私は、よく戦争中のことを聞いた。

「戦闘が始まるときには、甲板に砂をまくんだ」
「何で?」
「鉄でできた甲板の上に死傷者の血が流れると滑るからなー」
「死ぬの見た?」
「弾が当たるとね、人の体は飛び散る。大砲は弾をバンバン撃つと砲身が熱ーくなってるんだ。そこに飛び散った肉片がくっつくと、ジュッといって焼ける。ステーキの臭いがするんだ」

小学生の私にはショッキング話だった。いまでも鉄板焼きの肉を食べるときに、ついつい臭いを確認してしまう。

父に「特攻するとき、死ぬのが怖くなかったか」聞いたことがある(戦艦大和とともに行った沖縄への出撃は「特攻」であった)。小学生であった私への父の答えは、「怖かった」でも「怖くなかった」でもなかった。

「死ぬのが怖かったか、怖くなかったかという質問は適切じゃないな。海軍士官として立派に全うできるかが問題だった。むしろ、潔く命をかけられないこと、任務を全うできないことが怖かったな」

「怖い」に象徴される消極でもなく、「怖くない」に象徴される盲信でもない。両方の感情は両立する。しかし、潔い・潔くない、任務全うする・しない、は両立しないのだということが、何となく理解できた。

20歳そこそこであった父のこの感覚を「戦争は悲惨だ」という範疇で理解してこなかった。20歳という当時の父の年齢を越えたあたりから、ずっと自分は年下の父を越えられないと感じてきた。切実さに於いて、20歳の父を一瞬でも越えたことがないのではないかと疑ってきた。
同等の切実さを持って行動することを目指し続けているが届かない。
五省 [2010年11月15日(Mon)]
祖父は陸軍軍人であったが、父は海軍兵学校に進んだ。

私が小学校5年生の時に兵学校があった江田島へ連れて行ってもらった。73期の同窓会だった。家族や当時我が家にホームステイしていたオーストラリアからの留学生も一緒の楽しい旅だった。

江田島の兵学校(海上自衛隊幹部候補生学校になっている)を父や父の同期生達と歩いた。父の同期生達は歩き方が違う。並んで歩くおじさん達の歩調が合う。左右が同期する。父達の期は教育期間が2年半に短縮されたが、その間の教育は父達の生き方、行動原理(考え方)だけでなく、行動(身体)にしみこんでいた。

私の世代の中にも父親が戦争に行った者は少なかった。「元軍人の父」というと厳しそうだが、私は父に殴られたことはない。合理的であることを重んじていたように思う。

兵学校の生徒が日々の最後に自省するのに用いた「五省」を父から教わった。諳(そら)んじたら褒めてくれた。「し・げ・き・ど・ぶ」と覚えた。


一、至誠(しせい)に悖(もと)る勿(な)かりしか
一、言行に恥づる勿かりしか
一、気力に缺(か)くる勿かりしか
一、努力に憾(うら)み勿かりしか
一、不精に亘(わた)る勿かりしか


一、真心に反する点はなかったか
一、言行不一致な点はなかったか
一、精神力は十分であったか
一、十分に努力したか
一、最後まで十分に取り組んだか

いまだに言えるが反省多である。
父達の世代が特別に強い人間力を持っていたのではないと思う。
自分達は死ななかったという思いが強くしたように思う。

幸せにも戦争はない。
我々は感謝の念で自分たちを追い込むしかない。
「戦艦大和ノ最期」六十年目の証言 前半 [2010年11月13日(Sat)]
先日、11月2日は父の誕生日だった。
5年前に父が文藝春秋に寄稿した文章を、いずれネットにアップしようという話を家族でした。今日がそのタイミングだった。字数制限があり、1度にアップできない。読みやすいように後半を先に、前半を以下にアップする。

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「戦艦大和ノ最期」六十年目の証言
松井一彦
文藝春秋 2005年8月号

四月七日、戦艦大和沈没から六十周年にあたるこの日、私は朝日新聞の「天声人語」を読み目を疑った。
 紙面では、今日が戦艦大和が九州沖で米軍機の猛襲を受けて沈没した日であることを述べ、その戦闘に参加した吉田満少尉が戦後書いた『戦艦大和ノ最期』を紹介している。
<▼奇跡的に生き残った吉田氏が、終戦直後にてんまつを記した『戦艦大和ノ最期』は、時を越えて読み継がれてきた。大学を出たての青年の記述は今も鮮烈だ。>ここまではよい。
 問題は二つ後の段落である。
<▼漂流者で満杯の救助艇では、こんなこともあったという。「船ベリニカカル手ハイヨイヨ多ク、ソノ力激シク……ココニ艇指揮オヨビ乗組下士官、用意ノ日本刀ノ鞘ヲ払ヒ、犇メク腕ヲ、手首ヨリバツサ、……敢ヘナクノケゾツテ堕チユク、ソノ顔、ソノ眼光、瞼ヨリ終生消エ難カラン」>
 この部分だけ読んだ読者は、大和から投げ出されて救助艇の船ばたに殺到した漂流者の手首を救助艇の指揮者が斬る光景を、吉田氏が直接目撃して、<終生消エ難カラン>と述懐しているように読むだろう。しかし、これは二つの意味で問題がある。
 第一に原文では、この前に「『初霜』救助艇ニ拾ワレタル砲術士、漏ラシテ言ウ」と、これが伝聞情報であることが明記されている。が、「天声人語」の引用ではこの部分がないため、あたかも吉田氏がこの光景を目撃したかのような印象を与える。 
 第二に、これが最も重要であるが、「こんなこともあったという」「手首切り」の事実は断じてなかったのである。
 ここに出てくる駆逐艦初霜の救助艇の「艇指揮」とは、私である。当時、初霜で私以外の者がその任に当たった事実はない。実際には、大和ではなく同じ日に沈没した巡洋艦矢矧の救助を担当したのだが、艇指揮である私も、下士官も、後述するように整然と救助を待つ将兵たちを全力で救助したのである。この点については、吉田氏に手紙で申入れをして、返事をもらったことがある。
「天声人語」は戦争の悲惨さを示す具体的な事例として引用をし、<戦場で命を奪われ、また命を削られた人たちの慟哭を思った。>と結んでいる。
 朝日新聞に事実を伝えたが、「本に書かれていることを引用したに過ぎず誤報とは言えない」とのことであった。もっともな説明である。「天声人語」の引用に誤りはない。
 しかし、このようなコラムによって、読者側に誤った事実が史実であるかのように印象づけられてしまっては、当事者である私は無念であり、また戦友たちにも申し訳が立たない。
 ここで自分の経験を証言として残し、誤った事実が史実とされることを防ぎたいと思う。


   生存者は整然と救助を待った

 私は大正十三年生まれ。福岡県久留米市の福岡県中学明善校(現在の福岡県立明善高等学校)を卒業し、昭和十六年一二月江田島の海軍兵学校(73期) に入学した。十九年三月兵学校を卒業すると、二一駆逐隊付となり、十九年九月に少尉任官と同時に駆逐艦「初霜」に乗り組みとなった。
 大和の最期のとき、初霜は大和からわずか千メートル程しか離れていない場所にいた。その模様を私は真近に目撃した。
 四月七日十一時三六分、大和が「敵飛行機発見」の旗を上げ、戦闘が始まった。この日は雲が非常に低かった。上を見上げると、雲の切れ間に夥しい数の敵の飛行機が見えた。雲の中に飛行機が充満している感じであった。
 第一波の攻撃で、大和は通信不能になり、これ以後初霜が通信代行艦になる。大和から送られる発光信号や手旗信号を無線で連合艦隊に転送する役を果たしていた。
 大和は、たびたび被弾するものの当初は速力も落ちないし、傾きもしない。さすがに不沈戦艦だと思っていた。しかし時間の経過とともに、傾斜を深め、それを復元するために注水を繰り返したため、だんだん吃水が深くなった。そして左回頭を続けるようになった。
 十四時過ぎ、敵雷撃機からの魚雷の発射があり、大和の左舷に水柱が上がった。そして左側に傾斜がさらに増し、艦の赤い腹が水面上に出てきて、その上に乗員がばらばらっと蟻のように乗るのが見えた。さらに七十、八十度まで傾いたと思った時、ちょうど艦の真ん中から巨大な火柱が上がった。乗員たちを含め、いろいろな物が一緒に吹き飛んだ。初霜では、皆が上甲板に立ち、親に死なれた幼児のような気持ちで、大和の最期を見つめていた。間を置かず、爆発による熱風が我々の顔を襲った。その熱さは、六十年たった今でも忘れられない。
 初霜の艦長が、電報を口述したので私が筆記した。
「大和、更に爆撃を受け、一四二一(十四時二十一分)左に四五度傾斜して誘爆、瞬時にして沈没す」
 という内容だった。
 大和が沈没した後の海面は、重油と浮遊物が望見されるだけで、助かった人は一人もいない、という印象を受けた。敵の攻撃もかなり前から止んでいた。
 大和沈没後、残ったのは初霜と冬月と雪風の三杯だけであった。この三杯であくまでも沖縄特攻を遂行しようと、我々は沈没現場を離れ、しばらく沖縄を
目指して走った。しかし、十六時三十九分、連合艦隊から、「作戦中止、生存者を救助して佐世保へ帰投せよ」という命令が発せられた。そこで我々は沈没現場に戻った。
 初霜は矢矧が沈んだ場所に向かった。私は初霜の艦長から第二水雷戦隊の司令官以下を救助せよという命令を受け、救助艇の艇指揮を務めた。海は一面重油で真っ黒で、生存者たちは重油まみれだった。双眼鏡で第二水雷戦隊の司令官、参謀を発見し、彼らをはじめ、順次生存者を救出していったのである。
 生存者は、浮遊物につかまって救助を待っていた。目をやられて状況がわからなくなった兵士が、置いていかれては大変だと、声を振り絞って「助けてくれ」と時々叫んでいた。しかしそれ以外は、叫ぶ者も、救助艇に殺到する者もいなかった。彼らはただ静かに順番を待っていた。負傷した者を先にしろと、順番を譲り合うことさえあった。
 多くの者は重油で全身真っ黒になっており、爆風で火傷を負った人も多かった。腕を掴んで引き上げようとすると、腕の皮がずるりと剥けたりした。そんな中、我々は、救助艇で艦と現場を何度も往復して、できる限りの生存者を助けた。
 敵の飛行艇が射程外に着水し、自軍のパイロットを助けているのが見えたが、すでに戦いは終わり、海上はとても静かだった印象がある。私が見た光景は、砲術士が吉田氏に漏らしたような「今生ノ地獄絵」とは思えなかった。
 大和の生存者の救助には、冬月と雪風があたった。直接見たわけではないが、砲術士の話のような事態が起きるはずがない。
 救助は一八時一五分に打切られ、その後は航行不能になっていた霞と磯風に残っていた人員を初霜に移し、初霜は翌四月八日九時五〇分に佐世保に帰投した。
 これが私の経験した事実である。
 第一に、海軍士官が軍刀を常時携行することはなく、まして救助艇には持ち込まない。私は海上特攻作戦に際して、初霜の中に軍刀を持ち込んだ。いざ沖縄に上陸した際には必要になるからである。しかし艦内の士官室にある刀架けに架けたままだった。一刻も早く、一人でも多く救出しようというときに、わざわざ士官室に軍刀を取りに戻り、その重たい軍刀を持って狭い救助艇に乗る愚行を私はしていない。
 第二に、救助艇は狭くてバランスが悪い上、重油で滑りやすく、軍刀などは扱えない。救助艇は手こぎボートが数回り大きくなった程度のもので、重油で滑る船ばたに立って軍刀を振り回したら、バランスを崩して自分の足を切りかねないし、転落の恐れもある。 
 第三に、救助時には敵機の攻撃もなく、漂流者が先を争って助けを求める状況ではなかった。生存者たちは非常に秩序だって行動していた。
 以上のような理由から、救助艇で軍刀を振るった「手首斬り」などあり得ないとしか言いようがない。

後半につづく
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