塚本清彦を知っているだろうか。
ネットで検索すると元バスケットボール選手の塚本清彦さんの記事が並ぶ。話題にするのは、昭和19年にグアムで戦死した塚本清彦。
塚本は陸軍大学出のエリート。30歳で少佐となった。
昭和19(1944)年6月14日には東京にいた。約1ヶ月後、
昭和19(1944)年7月24日にグアム島で戦死している。
塚本は6月14日に東条英機首相に
戦争の戦局の将来と日本の前途を憂い、自らの職責上の資料を基として戦争経済の見通しを述べ、「首相を辞めて軍事に専任すべきである」と進言したのだ。
即刻、彼は南方に送られグアム島で戦死した。結局グアム島の日本軍は彼の戦死から2週間後の8月11日に玉砕する。グアム・サイパンを手に入れた米軍は、ここから東京大空襲、広島・長崎への原爆投下を行うことになる。
参謀であった塚本は、事後の展開をもちろんわかっていただろう。自らの死よりも、二重に無力であったことを理解してしまっていた塚本(35歳)の無念を思うと、悔しい限りだ。
当時、逓信省工務局長であった松前重義(国際武道大学創設者)も、塚本と同じように敗戦を予測し憂い、東条内閣の「軍需生産計画」を批判した。塚陸軍省戦備課長であった塚本とも接点があったのだろう。松前重義も、その身をとした発言と行動が原因で昭和19(1944)年7月18日に42歳で二等兵として招集され、南方に送られる。
しかし、松前重義は生き残った。
1978年、松前重義は塚本が戦死したグアム島北部(米軍は南部に上陸し日本軍を北に追い上げた)に彼の慰霊碑を建てている。

右端が松前重義が建てた塚本清彦中佐の碑
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陸軍省軍務局戦備課塚本清彦中佐は
太平洋戦争たけなわの時
戦局の将来と日本の前途を憂い、
時の首相に対して
戦争の終結と首相の退陣を要求した。
そして、即日戦禍のグアム島に転属せしめられ
戦禍の露と消えた。
数日の後、同志であった私も二等兵として比島に送られた。
それは昭和十九年のことであった。生き残りの私は
塚本清彦君の武人として愛国者として勇者としての生涯をたたえて
ここに南海の華と散った多くの戦友を偲びつつこの碑を建立する。
昭和五十三年十月 松前重義
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昨年、グアムの柔道チームが望星学塾を訪れた時にグアム留学経験がある山口輝義先生(東海大学)がこの話を子供達にしたそうだ。グアム島北部は観光客も滅多に訪れない所である。帰国後に現地の柔道関係者が慰霊碑に足を運び、先日、上の写真などを送ってきてくれたそうだ。
私も塚本中佐の話をしっかり認識していなかった。
ここに記録しておきたい。
またもっと詳しい話をご存じの方からの教えを乞いたい。
追記:早速情報を頂いた。
松前重義先生は、塚本さんの慰霊碑を建立する時に「止めたんだけど、突っ走ってしまった。彼は若すぎた」とおっしゃっていたそうだ。勇気と正義の人だったのだ。
追記2:
松前重義先生のご子息からの情報。
「塚本さんは、武蔵野の家に来ていたから何度か会ったことあるよ。そのうち憲兵がウロウロするようになったんで、家に来られなくなって、どこか外で会合するようになったみたいだな。あの頃、他にも親父は何人かの陸軍・海軍の人と会っていたけど、戦線に送られて帰ってこなかった」