三崎臨海実験所と真珠養殖の研究[2008年11月27日(Thu)]
来月4日に、株式会社ミキモトと東京大学三崎臨海実験所は共同で、東京大学小柴ホール(本郷)にて、御木本幸吉生誕150年を記念してシンポジウム「真珠の輝きを守る〜真珠養殖に関する環境課題と今後の展望〜」を開催することになりました。
御木本幸吉氏と初代所長箕作佳吉教授らによる真珠養殖開発の歴史を紹介し、海の豊かな生物相、環境保全について考える内容です。
ところで、三崎臨海実験所の長い歴史の中で、世界の真珠養殖に三崎臨海実験所が深くかかわっていたことは、今まで広く知られることはありませんでした。
今回のシンポジウムを機会に、三崎臨海実験所の歴史をひも解いたところ、養殖真円真珠の発明には三崎臨海実験所が深くかかわっており、草創期の三崎臨海実験所を舞台に20年間も真珠養殖開発が行われていたことが分かりました。
東大と真珠の縁は、明治23年(1890年)の第三回内国勧業博覧会で、箕作教授が御木本氏の出品したアコヤガイ標本に目を留めて、その養殖を勧め、のちに人工養殖について助言を与えたことに始まります。箕作教授の他界後は、二代目所長の飯島魁教授が相談相手となり、バックアップしました。
研究当初は箕作教授と御木本氏が考案した養殖法が用いられ、貝殻の内側にドーム状に形成される半円真珠しかできない状態でしたが、箕作教授の弟子である東大動物学教室出身の西川藤吉氏が、三崎臨海実験所と淡路の福良湾を拠点として基礎的研究と実験に打ち込み、丸い真珠を作る技術を開発しました。明治40年(1907年)には特許を出願しています。
西川氏は翌年(明治41年)に他界しましたが、三崎臨海実験所助手をしていた藤田輔世と弟の昌世によって明治45年(1912年)まで続けられました。西川氏の発明を土台に、その後、藤田兄弟がその技術を発展させ、企業化を成功させました。
その後、日本では真珠産業が花開いたのですが、不思議なことに発明者や貢献者、そして研究現場だった三崎臨海実験所のことは今日まで世間から忘れられてしまったのです。

御木本幸吉氏と初代所長箕作佳吉教授らによる真珠養殖開発の歴史を紹介し、海の豊かな生物相、環境保全について考える内容です。
ところで、三崎臨海実験所の長い歴史の中で、世界の真珠養殖に三崎臨海実験所が深くかかわっていたことは、今まで広く知られることはありませんでした。
今回のシンポジウムを機会に、三崎臨海実験所の歴史をひも解いたところ、養殖真円真珠の発明には三崎臨海実験所が深くかかわっており、草創期の三崎臨海実験所を舞台に20年間も真珠養殖開発が行われていたことが分かりました。
東大と真珠の縁は、明治23年(1890年)の第三回内国勧業博覧会で、箕作教授が御木本氏の出品したアコヤガイ標本に目を留めて、その養殖を勧め、のちに人工養殖について助言を与えたことに始まります。箕作教授の他界後は、二代目所長の飯島魁教授が相談相手となり、バックアップしました。
研究当初は箕作教授と御木本氏が考案した養殖法が用いられ、貝殻の内側にドーム状に形成される半円真珠しかできない状態でしたが、箕作教授の弟子である東大動物学教室出身の西川藤吉氏が、三崎臨海実験所と淡路の福良湾を拠点として基礎的研究と実験に打ち込み、丸い真珠を作る技術を開発しました。明治40年(1907年)には特許を出願しています。
西川氏は翌年(明治41年)に他界しましたが、三崎臨海実験所助手をしていた藤田輔世と弟の昌世によって明治45年(1912年)まで続けられました。西川氏の発明を土台に、その後、藤田兄弟がその技術を発展させ、企業化を成功させました。
その後、日本では真珠産業が花開いたのですが、不思議なことに発明者や貢献者、そして研究現場だった三崎臨海実験所のことは今日まで世間から忘れられてしまったのです。

アコヤガイ Pinctada martensii (軟体動物門二枚貝綱)
写真は2005年夏の三崎臨海実験所における大学実習で採集された個体。



