各球団の戦力外通告選手・・坪井智哉 [2011年10月23日(Sun)]
今日は朝から・・雨模様のお天気・・近くの蔵王山も・・霧がかかって・・風情があります。父母会から依頼されていたデジブックをようやく・・お渡す事が出来て・・一安心。文化会館の駐車場で少し雑談しながら・・何しろ100枚以上の注文で・・段ボール箱3つの分けての・・配達。・・このデジブックも記念の意味では今は高いかもしれませんが・・1枚1050円の値段も10年後、20年後にこのデジブックを見た時に・・きっと安いお買いものだったと・・思えるほど・・貴重な写真がたくさん入れてあります・・デジブックには当日の試合以外にも・・野球部入りたての1年生の時のものや・・中学時代の野球やボーイズリーグ時代の写真も入れてあります・・BGMも・・ネットからダウンロードしたものを入れました・・テレビで見ても・・きれいに見えます。・・父母会の皆さんに喜んでいただけるとうれしいですね。
帰りがけ・・銀行のATMによってブルーベルカフェで・・一服。席についたら・・奥の方からコーヒーですか・・モーニングつけますか・・と。ママさんかな??時折、お名前は聞いていたので・・おいしいパンをいただきながら・・今日の東海大会は中止かなあ〜など・・と思いながら・・喫茶店を後に帰宅。 27日のドラフト会議を迎えると・・同時に戦力外通告選手として・・発表されるのも・・この時期の季節です・・プロの世界ですから・・致し方ありません・・ あるプログに的場寛一選手と言う・・名前が出て・・久しぶりに思い出した。 社内の広報誌に野球部のメンバーとして紹介されていたのだった・・たしか先月ぐらいだったと思うが・・その時にはすぐに思い出せなかったのだが・・ある選手のプログから・・思いだしたのである。20数年前にはやはり・・社内の広報誌で・・野球部の紹介欄に・・工務部、古田敦也の名前がありました・・野球はそれなりに興味があったので・・よく覚えてまたしたが・・まさか・・あの古田選手が・・・日本でNO1の捕手になり・・ヤクルトスワローズの監督になるなんて・・当時は思いもしませんでした。工務部ですから・・まさかバスの運転手をしているとは思いませんが・・事務館でお仕事されていたのかな・・事務館には用事があって仕事中に何度も行きましたが・・まあ・・古田さんと同じ工場で仕事をしていたというだけでも・・何となくうれしかったな・・ 坪井智哉選手のプログです。 的場寛一選手1999年の阪神ドラフト1位指名選手でした。 プロで阪神、日ハム、オリックスで頑張って来た坪井選手もオリックスから戦力外通告を受けました。これで2度目ですかね・・ あの独特の振り子打法は・・今も記憶に残ってます。阪神での活躍は見事でした。今後は今までの経験を活かしてプロでのコーチなり・・解説者として頑張ってほしいですね。 坪井が振り子打法に切り替えた正確な時期は不明だが(大学3年の時に取り入れたという説もある)、坪井本人も「それまでは変化球に脆くて三振するケースが多かったが、(振り子打法に変えてから)三振も減って変化球にもついていけるようなった」と振り子打法に手応えを感じており、大学4年の時に秋季リーグで打率.409を記録してベストナインを受賞している。ドラフト指名されなかった為、大学卒業後は社会人野球の強豪である東芝へ就職する。 社会人野球の東芝時代は、主に1番打者として活躍し、第51回東京スポニチ大会で打率.476を記録して新人王を獲得する。第23回日本選手権大会予選でチームは準決勝で敗退するが、坪井は打率.634を記録して首位打者賞と大会優秀選手賞に選ばれている。この年(1996年)の暮れに社会人ベストナインも獲得している。翌1997年には、第19回アジア野球選手権大会に出場する日本代表に選ばれた(坪井以外に選ばれた選手に福留孝介・二岡智宏らがいる)。練習では金属バットを使用せず木製バットを使用していた。坪井は「金属バットはどこに当たっても打球がポンポン飛ぶ。それじゃ、今まで培ってきた技術が失われてしまうから試合以外では使わないようにした」と語っている。 1997年のプロ野球ドラフト会議で、阪神タイガースから4位指名を受けて入団。 (ウィークベギュアより) |