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訃報 尾藤公・元箕島高野球部監督 全国制覇4度の名将 [2011年03月07日(Mon)]

箕島高校野球部監督で・・過去に甲子園で4度の優勝を果たされた尾藤公さんが死去されたとのニュースがありました。昨年の星稜戦との甲子園球場でのOB戦では・・車椅子にて参加され・・尾藤スマイルを多くの方に送られただけに・・残念です・・心よりご冥福をお祈り申し上げます。


訃報 尾藤公・元箕島高野球部監督 全国制覇4度の名将
毎日新聞

 和歌山県立箕島高校の野球部監督として、79年の春夏連覇など甲子園で4度の全国制覇を果たした尾藤公(びとう・ただし)さん=日本高校野球連盟技術・振興委員長=が6日未明、和歌山市内の病院で死去した。68歳だった。

【甲子園名将列伝】青年監督として優勝した尾藤監督

 現役時代は箕島高で4番を打つ強打の捕手だったが、近大進学後に腰を痛めて中退した。3年間の銀行勤務を経て母校に戻り、66年に23歳で監督就任。68年の第40回選抜高校野球大会では東尾修投手(元西武監督)を擁して甲子園初出場を果たし、いきなり準決勝に進んだ。島本講平投手(元近鉄)を擁した70年春には決勝まで勝ち上がり、北陽(大阪)に延長十二回サヨナラ勝ち。初の全国制覇を成し遂げた。

 その後、一時監督を離れたが、74年秋に復帰し、77年センバツで再び全国制覇。79年春は決勝で浪商(大阪)を降して3回目の優勝を果たし、同年夏の全国高校野球選手権では池田(徳島)に勝って史上3校目となる春夏連覇を果たした。この夏は3回戦で星稜(石川)と延長十八回を戦い、球史に残る名勝負を演じた。

 最後の甲子園は91年のセンバツとなったが、春夏計14回の甲子園で通算35勝(10敗)の戦績を残している。

 95年夏に監督を退き、97年からは日本高校野球連盟の役員を歴任。現在は技術・振興委員長や理事を務め、選抜大会の選考委員として近畿地区などの大会を視察していた。
(毎日新聞より)

通夜は8日(火)午後7時から、葬儀、告別式は9日正午からいずれもフューネラル有淨会館(有田市簑島65−1)

元西武監督の東尾修氏(箕島高OB)「京都の平安高に進学するつもりだった私を熱心に誘ってくれたのが尾藤さんだった。「一緒に甲子園へ行こうや」。熱い言葉が今も耳に残っている。殿堂入りまでさせてもらった私の野球人としての第一歩を踏み出させてくれた恩師。昨年暮れ、病院にお見舞いした時は、顔を見るのがつらくて窓の外ばかり見ていた。思い出がありすぎて、今は言葉が出てこない」

 日本ハム・吉井理人投手コーチ(箕島高OB)「残念ですけど、しょうがない。調子悪いのは聞いていたので…。何と言っていいか分からない。厳しい監督だったが、野球に関しては楽しくやらせてもらった」

 ロッテ・上川誠二内野守備走塁コーチ(箕島高OB)「(涙ぐみながら)びっくりした。(箕島高とは)違う高校に行く予定だったけど、尾藤監督が「おれと一緒に甲子園に行こう」と言ってくれて…。今、こうしていられるのは監督のおかげ。あそこで人生が変わった。厳しくて、社会人としての教育もしていただいた」

 阪神・嶋田宗彦2軍バッテリーコーチ(箕島高OB)の話 残念。(体調が)悪いとは聞いていましたが…。厳しさの中に優しさがあった監督でした。

 ソフトバンク・王貞治球団会長「一時代を築いた人。今の世代の監督にとってカリスマ的なものがある」

 日本高野連・奥島孝康会長「高校野球の発展に多大なご尽力をいただくとともに、野球を通じて人間育成を唱え続けられた尾藤さんのご逝去は非常に残念です。心からご冥福をお祈りいたします」

 名古屋商大・中村順司監督(元PL学園高監督)「びっくりして、悲しい思いだ。非常に箕島が強く、監督として目標としていた。グラウンドでは厳しかったが、甲子園の試合では笑顔を見せ、高校野球を盛り上げた方だった」

 星稜高・山下智茂総監督(星稜高監督として箕島と甲子園で延長18回を戦う)「1979年の甲子園での対戦以来、親しくさせてもらった。監督として、勝利に対する執念がすごかった。つきあうとすごく優しく、高校野球、生徒を愛していることをひしひしと感じた。わたしにとっては兄貴のような存在で、人生観や野球観で大きな影響を受けた」
(報知スポーツより)

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