元巨人、別所投手と恩師、成章OB渥美政雄氏つながり・・ [2012年11月29日(Thu)]
政治の方も各党が選挙公約をそろそろ出していますね。 日本維新の会は太陽の党と合流してから、どうも公約が後退ぎみですね。残念です。 政策的にはみんなの党の公約が私の考えと一番、あってるかなという印象です。 渡辺代表のゆるぎない信念はいいですね。維新の会とは政策的に合意に至らず、自我を貫きました。ここに来て滋賀県の嘉田知事が未来の党を立ち上げ、これに生活の第一や減税日本が加わり 卒原発を目指す第3極が誕生しました。こちらも目が離せません。 今日の東愛知新聞には愛知15区に出馬予定の杉田氏が日本未来党から出馬するとの記事。 田原市で成章出身ですから何とか応援したいと思ってます。
ヤクルトに入団した小川投手の関連記事を探していたら別所毅彦監督の名前がありました。 1968年にサンケイアトムズで監督に1970年ヤクルトアトムズに球団名が変更の3年間、ヤクルトで監督をされていたんですね。現役時は巨人で投手として活躍され通算310勝をあげています。
別所毅彦と言えば滝川中時代の渥美政雄氏を思い出します。 渥美政雄氏は成章OBで高校野球界では違う学校で4校の甲子園出場があります。 この4校で甲子園は渥美氏が最初でもう一人他にもいます。 現在の東邦、滝川高、一宮、時習館で戦前から戦後までこの4校での甲子園出場は今も輝かしい経歴として残っています。 渥美政雄氏が滝川中時代に甲子園出場した時に別所毅彦、青田登は当時は1年生、3年生の時の甲子園出場で・・あの有名な「泣くな別所、センバツの花」が誕生するのである。
泣くな別所、センバツの花 「ポキリ、と大きな音が払のところまで聞こえましたよ」と渥美は述懐する。当時、渥美は三年間在職した滝川中学を辞し、愛知県の一宮中学校に転任していた。同校はこのセンバツ大会に出場、準優勝する(後に詳述)が、渥美はかっての教え子たちの戦況をバックネット裏から見守っていた。
そのころのチームに控え投手はいない。別所は続投を願い出た。左腕を布でまきグラブを捨て、捕手からの返球はゴロで受ける。左腕をだらりと下げたため、右腕の反動を失い下手投げに変えた。彼は苦しみながら以後、二回と三分の一を投げ続けた。
”選手である前に生徒であれ”これは渥美政雄が滝川中野球部監督時代、選手たちに教えたことばの一つだった。今、夕闇迫る甲子園のマウンドで、その教えを忠実に守り、苦悶の表情で力投する別所。渥美は教師となったことの意義を再びかみしめていた。
試合は結局、延長十二回の半ば投手経験ない捕手小林章良が救援したが十四回の裏、岐商が貴重な一点を挙げ滝川は涙を存んだ。翌日の新聞はうたった。”泣くな別所、センバツの花”。別所投手を語る場合、必ず引き出される有名なエピソードである。
昭和十六年の同大会は、太平洋戦争に向けてひた走る日本の国内情勢がセンバツ野球にまで影響を及ぼし、戦時色の濃い大会となった。そんな雰囲気の中での別所の力投は見る人に、甲子園に咲いたけなげな一輪の花のように見えたのかもしれない。
後に、別所はこの時のことを「目標を求めて不断の努力を重ねる、その尊さを教えてくれたあの敗戦に、私はいま満足感すら感じている」 と述べている。彼のプロ野球での通算310勝は金田正一投手に次ぐ快挙となっている。
渥美政雄氏は田原市出身で神戸の川岸地区にその生家があります。私の家から歩いても5分ほどのところです。秋の久丸神社大祭の余興で神輿を見ながら渥美氏の生家を訪ねて見ました。現在は家には誰も住んでおられないようですが、呉服屋さんだったようで今も家の所の渥美屋洋品店の看板が見えます。前の牛乳屋さんが親戚とかで、話も聞きました。 この神戸川岸地区からあの偉大な先輩が誕生していることを地域に住み私にとっても誇れる先輩ですね。
渥美政雄氏もヤクルトに入団した小川投手も成章OB・・ 渥美政雄氏の教え子だった別称毅彦氏。 その別所毅彦氏の投球フォームを見て驚いた! 小川君と投球フォームが良く似てますね!
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4校甲子園監督、渥美政雄氏(成章) [2012年06月16日(Sat)]
沖縄県では今日から夏の県大会、予選が始まったそうです。愛知も22日には抽選組み合わせがあります。最後の夏はもうじきですね。今日の田原市内は梅雨の真っ最中で近くの汐川から蔵王山を眺めましたが雲で覆われてその姿を見ることは出来ません。ようやく、梅雨に入ったな・・という感じです。この写真にある汐川堤防沿いに船倉橋方面に歩いていると、中央牛乳屋さんがある前あたりに、ある偉大な監督さんの生家がありました。
渥美政雄氏・・このプログのカテゴリにも紹介していますので、プログをご覧の方はご存じかと思いますが、関東成章会さん方々もたぶん、知らない方が多いと思いますのであえて郷土の英雄をこの際に紹介したいと思います。
渥美政雄氏は成章OBで東邦、滝川、一宮、時習館の4校でこれぞれ監督として甲子園出場を果たされ9回出場されています。昭和21年(1946年)9月から、昭和31年(1956年)3月まで監督を務められ、昭和27、28年(1952、1953年)2年連続の選抜大会に出場を果たされ、時習館野球に大きな功績を残された渥美先生が、平成5年(1993年)3月 83歳で惜しまれながら永眠されました。ご家族の方々はほとんどが東京に引っ越しされましたが、渥美氏は豊橋の高師にお住まいだったようでご子息が時習館の教頭先生をされていたと新聞で読んだ事があります。
甲子園の4校監督は他にも柏陵の蒲原監督が佐賀商、千葉商、印旛、いずれも公立校ですが4校で甲子園に出場されています。高校野球の歴史上でも4校監督はこのお二人だけで、渥美氏が最初の4校甲子園監督として、足跡を残してくれました。名将と言われても不思議ではないほど、すごい方々だったんですね!成章OBの方々にとっては自慢出来る大先輩のお一人ではないでしょうか。
時習館と甲子園にその経歴が詳しく紹介されていますので、野球ネタとして覚えていただければ、嬉しいですね。
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時習館に見る「甲子園の心を求めて」 [2010年04月01日(Thu)]
はなまるマーケット・・黒田廣昭さん [2009年12月01日(Tue)]
TBSの朝の番組「はなまるマーケット」をご存じでしょうか・・ あのヤックンが出てる番組ですね・・ 普段は・・この時間帯・・仕事で見れませんが主婦には人気の番組のようです。
実はこの番組に時々、レシピを提供している、おなじみの料理人の方がいられますね。 黒田 廣昭さんです・・いつも、テレビをご覧になってる方はご存じだと思います。 黒田さんは・・ 現在、スーパーダイニング ジパング赤坂店 BYなだ万の料理長をされておりますね。 あの有名な・・「なだ万」です・・
さらに「ミシュラン東京ガイド2008」三ツ星・二ツ星・一ツ星レストラン紹介! なだ万「なだ万本店 山茶花荘(さざんかそう)」 にも黒田さんが紹介されています。 他TBS系の噂の!東京マガジン等・多数のテレビ出演がります。
・・ここで私がなぜ?黒田さんを紹介したかと言うと・・ 料理を作るのが大好きな・・tamoさん?と 実は知りあい?? おおっ!tamoさんの秘密を知ってる・・・あなたは・・ただ者ではありませんね。 ははっ・・違います・・違います・・
下の写真をご覧ください。 37年前のセンバツ、ペナントに書かれた黒田さんの名前がありますね・・ 右から4番目に・・そしてこのメンバーに見覚えのある方は 私が言わなくても・・たぶん、ご存じの方が多いかと思います。 ちなみに・・私は卵焼き作りがうまいですよ! なんなら・・作って差し上げましょうか・・
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成章OB会・・ [2009年02月08日(Sun)]
久しぶりに・・昨年の平安×成章戦をビデオで見ました。 特に8,9回と平安を苦しめた・・攻撃は成章らしく・・お見事でした・・糟谷監督は常々、攻撃は後半7回からと・・まさしく、ヒットエンドラン、と多彩な攻撃・・応援団もチャンス、チャンス成章・・と大きく響き・・すごかった。ビデオを見て・・ 特に3回、3対0とリードされて・・センターへの大きなフライを宮下君が好捕・・この流れが最後まで続き・・平安を3回以降無得点に抑えたと思います・・さらに攻撃でも、宮下君がチャンスメーカーとなり、成章に勢いがつきましたね。 2試合ともに成章の野球歴史に残る素晴らしい戦いだったと思います。
2月7日は成章野球部OB会が崋山会館で行われました。 私は途中から見にいったのですが・・知り合いの方から甲子園でのDVDをいただいたので、見たいと思います・・たくさんのOBの方から神戸っ子見てますよ!と暖かいお言葉・・をいただきありがとうございます。
今日のOB会の様子を成章野球部情報にUPしてありますので、野球部OBの皆さん、良かったら覗いて見てください。
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成章OB鈴木義雄氏は神奈川商工で甲子園3回出場! [2008年10月04日(Sat)]
さて・・成章OBで甲子園出場のの監督さんは何人いる??の クイズを出しましたが・・
正解は・・渥美政男氏、(東邦商業・・現東邦・滝川二中・・現滝川高・一宮高・時習館) 鈴木義雄氏(神奈川商工・・3回出場) 山本昌彦氏(成章) 糟谷寛文氏(成章)の4人です 間違いがあったらすみません。
鈴木義雄氏は1931年(昭和6年)の春。夏・・1950年(昭和25年)夏の3回甲子園出場を果たしています。
昭和25年の出場の時は19年ぶり3回目 でした。
主な選手 (1)大沢啓二(2年、立大→南海→東京)、(2)倉知七内、(3)犬塚、(4)大石、(5)飯村、(6)小出、(7)小島、(8)宇野、(9)倉橋 対戦成績 1回戦 14-3仙台一 仙台一 1 0 1 0 0 0 0 0 0 3 神奈川商工 0 0 0 5 3 3 0 3 X 14 1回と3回に内野守備陣の混乱から1点ずつを奪われ、2点を先行される。4回裏、四球とエラーを足掛かりに、倉知・小島の3塁打などで一気に逆転。以降も仙台投手陣を打ちまくり圧勝する。相手投手:門沢・三品。
大沢啓二といえば・・元日ハム監督、現在は張本さんと一緒に・・喝!とテレビ番組にで活躍されています。立教の2年後輩に長嶋茂雄さんがいます。関西成章会の阪本さんも一緒にプレーしたされていたかも知れませんね・・
もし、大沢さんが・・阪本さんと・・お話をする機会があったら・・ 私が高校野球していたころの監督さんが・・愛知の成章出身なんだ・・ 君も成章・・か偶然だな・・なんて話をされていたかも知れませんね鈴木義雄氏は成章OB三代会長も歴任されました。 こんな素晴らしい先輩たちが違う学校で甲子園出場を果たされていることは・・ 成章野球部にとっても大変名誉なことだと思います。
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成章OB立花一夫氏の始球式・・ [2008年07月05日(Sat)]
7月5日からでは豊橋市民球場で愛知大会が始まった・・
豊野×蒲郡戦の前に成章OBの立花一夫氏の始球式が行われました・・
今後も後輩たちのプレーを暖かく見守って欲しいと願ってます・・
でも、かんじんの投球シーンがうまく撮れず・・申し訳ありません・・
始球式はこちらからどうぞ!成章・糟谷監督から記念のボールをいただいた・・
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始球式に成章OB元監督の立花一夫氏が [2008年07月03日(Thu)]
7月5日に行わなわれる夏の高校野球大会豊橋球場・・4月より一部グランド整備の為使用できませんでしたが今回、リニュアルされた豊橋球場・・・このお披露目のオープニングに成章野球部OBで元監督の立花一夫氏が始球式をされます・・立花氏は今年92歳、現在の成章野球OBでは最古参の方で昭和24年から28年まで成章の監督として活躍され成章の全三河初優勝も飾っておられます。 私は今年の選抜壮行会で、来賓とし紹介された時に初めてお見かけしました。
成章の黄金期に監督を歴任、今や当たり前となった秋季東三河大会や全三河・・その初優勝を立花監督の時代に飾っています・・・先のOB会で第7代OB会長の伊藤さんともお話しましたが・・当時の成章は全三河、連覇で強かったと聞いてます・・今回の記念大会・・地元ゆかりの豊橋球場・・・そして始球式の栄誉・・成章野球部OBにとっても、うれしい出来事でしょう。大先輩の雄姿に拍手を送りたいと思います。 親睦会でも糟谷監督が是非、時間のある方は豊橋球場へ足を運んでほしいと・・成章OBの皆さんにお願いされていますので・・成章OBのみならず、多くの野球ファンの 御来場をよろしくお願いします。始球式の時間は8時50分です。
●24年 第1回中日旗争奪全三河高等学校野球大会が豊橋球場で開催 中村 一雄 立花 一夫 ●25年 秋季東三河大会で初優勝 野球部後援会発足
●26年 第33回夏の全国大会に豊橋商業が出場 ●27年 夏の県大会で初のベスト4進出 秋季全三河大会で優勝 春の県大会ベスト4進出 春季全三河大会優勝(2回目) 夏の県大会ベスト4進出 野球部後援会が体育後援会となる
右から2人目は山本前監督と思います
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成章センバツ初出場は、成章OB渥美政雄氏 [2008年02月28日(Thu)]
成章センバツ初出場は、成章OB渥美政雄氏。成章の36年ぶりのセンバツ出場を機会に成章野球部OBの偉大な先輩の活躍をご紹介しよう。冒頭に成章センバツ初出場・・の書き出しはありますが、もちろん、成章野球部は昭和47年のセンバツが初出場であることに、異論はない。今回紹介する渥美政雄氏(元時習館監督)は左のカテゴリーにもあるように(成章OB、渥美政雄氏)昨年、何回か紹介してきました。成章が21世紀枠出場で世間から注目を浴びています・・そんな中、成章野球部OB渥美政雄氏について・・・皆さんにも広く知っていただきたいと思い取り上げました。この前の父母会でも・・いや初めて聞いてびっくりしたと・・お話が聞かれましたし、スポ少野球でも・・初めて聞いた言う人ばかりでした。たぶん、一般の方はご存知でない方が多いと思いますので、この際、知ってほしいと思います。渥美政雄氏については「時習館と甲子園」「成章野球部」のHPにも紹介されています。 渥美政雄−明治四十二年五月六日、渥美郡田原町生まれ。彼は東邦商業(現東邦高校)、滝川中学(現滝川高校)、一宮中学(現一宮高校)、そして時習館高校で国語教師として勤めるかたわら、野球部監督となり、すべての学校を甲子園に送りこんだ。 渥美政雄氏が滝川中学での教え子に別所毅彦と青田昇選手がいる。 今の高校球児の方は名前は知らないと思うけど・・最近の野球ファンなら知ってると思います。お父さんやお母さんに聞いて見てください。プロ野球ニュースでよく解説された2人、共に巨人軍で活躍された方で殿堂入りを果たされている。それにしてもすごい!! 4つの違う学校で監督になりしかも全部、甲子園出場を果たしている・そして9回の甲子園出場という名監督・・これほどの方は今後は成章OBからは出てこないだろうと思います。ほんとにすごい記録だと思います。甲子園では常総の木内監督など有名であるがこれは何回も優勝して注目を浴びています。 ネットで調べた関係では・・中京の深谷監督が三重、中京高、中京商・・詳しく調査していないんで・・分かりませんが4回以上、違う学校での甲子園出場は渥美政雄氏が初めてでは無いかと思われます。ちなみに高校野球データー編では他に1人だけ蒲原弘幸氏が4回出場されていますが・・成章野球部の偉大な先輩、渥美政雄氏・・この偉大な功績は高校野球の歴史上において後世に語り継がれると思います。成章の36年ぶりに甲子園出場とともに・・大きく今後も渥美氏の功績を取り上げてほしいと思います。斉藤氏提供(時習館と甲子園)の写真にも紹介されています。
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成章OB,渥美政雄氏を偲ぶ・・C [2007年11月16日(Fri)]
成章OB(元時習館監督),渥美政雄氏を偲ぶ・・C渥美政雄の甲子園遠望 (記事の引用にあたっては著作者の中野氏より許可をいただいております)
石川弘之
甲子園。この球場の土の上にどれほどの少年の汗が流れ、歓喜の声が飛び、そして涙が吸いこまれたろう。甲子園。今も高校球児たちのあこがれ。彼らは”甲子園に自分の青春をかけ、白球を追っている。兵庫県西宮にある銀傘に輝く球場に、戦前戦後を通じ九回も少年らを引き連れ土を踏んだ老教育者がいる。渥美政雄−明治四十二年五月六日、渥美郡田原町生まれ七十一歳。彼は東邦商業(現東邦高校)、滝川中学(現滝川高校)、一宮中学(現一宮高校)、そして時習館高校で国語教師として勤めるかたわら、野球部監督となり、すべての学校を甲子園に送りこんだ。現在、豊橋市高師町に住む。この物語は高校(旧制中学)野球に情熱を打ち込んだ渥美政雄氏の一代記である。(文中敬称略)
”選手である前に生徒であれ”
甲子園球場全体が静まり返った。マウンド上では、左腕に白布を巻いた滝川中学の別所毅彦投手が、激痛に顔をゆがめながら立っていた。左腕骨析のためグラブを捨て、右腕から下手投げでくり出す投球に観衆はかたずをのんだ。バックネット裏でかっての教え子の姿を見つめていた渥美の胸に”選手である前に生徒であれ”という自らの教えが去来していた。
昭和十六年三月二十六日。第十八回選抜中等野球大会(後の選抜高等学校野球大会) の準々決勝は、神戸の滝川中学と前年優勝の岐阜商業との争いとなった。
試合は大方の予想を裏切り滝川別所、岐阜鳥居の投げ合いとなり1一0岐商リードのまま九回表、滝川の攻撃。先頭の尾西信一(阪急)が中前打し二盗。一死後、別所昭(毅彦、南海−巨人−野球評論家)は敬遠で一塁へ。四番青田昇(巨人−野球評論家)に一打出れば同点、長打ならば逆転。このピンチに鳥居はカーブを連投し、青田を三塁ゴロに打止めた。「勝った」誰もがそう思った。ところが、ここで大波乱が起きた。
滝川にヒットエンドランがかかっていたため、岐商の名三塁手橋本市次郎は二塁間に合わずと見て一塁へ送球、これが大暴投となり尾西が生還。球が転々とするのを見て取った別所は「かえれる」と思い、三塁コーチャーの制止を振り切って本塁へ。
だが、右翼手加藤政一からは絶好球が返って来た。本塁寸前タッチアウト。1m81、75kgの巨体がもんどり打って転倒した。その時、彼の五体にしびれるような激痛が走った。左腕を下に転がったため二の腕を骨折してしまったのだ。
泣くな別所、センバツの花 「ポキリ、と大きな音が払のところまで聞こえましたよ」と渥美は述懐する。当時、渥美は三年間在職した滝川中学を辞し、愛知県の一宮中学校に転任していた。同校はこのセンバツ大会に出場、準優勝する(後に詳述)が、渥美はかっての教え子たちの戦況をバックネット裏から見守っていた。
そのころのチームに控え投手はいない。別所は続投を願い出た。左腕を布でまきグラブを捨て、捕手からの返球はゴロで受ける。左腕をだらりと下げたため、右腕の反動を失い下手投げに変えた。彼は苦しみながら以後、二回と三分の一を投げ続けた。
”選手である前に生徒であれ”これは渥美政雄が滝川中野球部監督時代、選手たちに教えたことばの一つだった。今、夕闇迫る甲子園のマウンドで、その教えを忠実に守り、苦悶の表情で力投する別所。渥美は教師となったことの意義を再びかみしめていた。
試合は結局、延長十二回の半ば投手経験ない捕手小林章良が救援したが十四回の裏、岐商が貴重な一点を挙げ滝川は涙を存んだ。翌日の新聞はうたった。”泣くな別所、センバツの花”。別所投手を語る場合、必ず引き出される有名なエピソードである。
昭和十六年の同大会は、太平洋戦争に向けてひた走る日本の国内情勢がセンバツ野球にまで影響を及ぼし、戦時色の濃い大会となった。そんな雰囲気の中での別所の力投は見る人に、甲子園に咲いたけなげな一輪の花のように見えたのかもしれない。
後に、別所はこの時のことを「目標を求めて不断の努力を重ねる、その尊さを教えてくれたあの敗戦に、私はいま満足感すら感じている」 と述べている。彼のプロ野球での通算310勝は金田正一投手に次ぐ快挙となっている。
甲子園の初出場は東邦高校 渥美政雄が野球を本格的に始めたのは成章中学(現成章高校)時代から。投手として活躍し五年生の時には当時の強豪名古屋商業(現名古屋商業高校)をも苦しめた。
大正十三年、国学院大学に入学。野球を続けた彼は昭和四年から七年まで同大の監督に就任した。男七人、女一人の八人兄弟の四男として生まれた政雄は、田原の町に帰省しても兄弟でチームを作って楽しんだ。
渥美が名古屋の東邦商業(現東邦高校)に勤めだしたのは昭和九年のことだ。これ以後の三年間は、二十代の若さも手伝って教鞭のかたわら、ただ夢中になって野球を教えた。東邦は昭和九年のセンバツで初出場、初優勝をやってのけ日の出の勢いだった。
当時の東邦商業(五年生甲種実業学校)は名古屋市東区赤萩町にあり、グラウンドは狭くキャッチボールができるほどしかなかった。そのため大曽根にあった三菱重工のグラウンドを週に三日ほど借り受け、その他は桶狭間の野球場へ授業のすむのを待って走った。
「そこは今の中京競馬場の隣りにありましてね、学校から遠いため時間を惜しんで練習しました。月明かりの下でも白球に飛びついて行きましたねェ」という。
そのころは正月の三日から、センバツ大会の予選リーグが始まることになっていた。だから元旦の日から練習となる。 「新年のあいさつもそこそこに、モーニングをぬぎ、砂場でスライディングの見本をしてみせたのもこのころ」と、その熱烈な指導ぶりを説明する。
「東邦時代は、若かっただけに学ぶこともたくさんありました」当時、東邦の野球部長は愛知一中(現旭丘高校)から神戸高商を出た隅山馨だった。隅山はすでに五十歳を越えていたが、渥美は彼から教育というものを知った。隅山部長の想い出を渥美は次のように語る。
先生は運動部の選手に限らず、何か問題のある生徒をよく武道場へ連れて行かれた。二人は防具を着けないで、竹刀だけ持って向かい合う。そして生徒に『力いっぱい打って来い』という。おつむの薄くなったところを打ったら、けがをするに決まっているから生徒は打っていかない。
すると『よし、打ってこねば行くぞ』と言って先生の方から打って出る。生徒は一生懸命に防ぐが先生は真剣だから頭や肩に強くあたる。生徒はたまらなくなって目の色を変え、守備から攻撃に移る。その時だ。先生はいともおごそかに『よし、それだ』と言ってすぐ『その真剣さを忘れるなよ。勉強もスポーツも同じだ』と付け加える。
これはほんの一例ですが、先生の指導法は全身全霊でぶつかり合い、そのなかから何かをつかませている気がしました。
初めてのグラウンドであがる
昭和十年、東邦は春のセンバツに出場した。前大会優勝の自信は試合にも表れ準決勝に進出。しかし、広島の広陵中(現広陵高校)に敗れた。
初めて甲子園に出場した渥美は当時をふり返って「レギュラー選手の中には六人ほど甲子園経験者がいましたが、私は初めて、うれしくて、うれしくて、甲子園そのものの雰囲気には神戸に叔父がいた関係で、何度も足を運んでいたので知っていましたが、やっぱり上がりましたね」。
バックネットの上にスズメが止まっているのが見えれば一人前といわれた。渥美は守備練習で、いつもはわけなくできる捕手へのフライを打つのに何度も失敗した。「監督の私がこんなことでは、と恥ずかしくなりました」生涯のうち九回も甲子園を経験した男も、初めてのグラウンドはさすがに大きかったのだ。
再び甲子園へ 翌昭和十一年、東邦はセンバツに再び出場。一回戦不戦勝、二回戦利歌山中を接戦の末、8−7で下したが、桐生中に1−0で完封敗けを喫した。ところで昭和八年の岐阜商以来、戦前センバツ最後の大会となった昭和十六年大会まで東海勢は大健闘。十二年の浪華商業を例外として、すべて東海勢が優勝している。
渥美は十一年のセンバツ大会がすんだ四月、神戸の滝川中学へ転任することになった。話が急だったことと、春休みの関係で生徒も知らない者が多かったが、知ると下宿先に飛んで来て帰ろうとしない。荷作りもできない。「私は、この時はど教師のありがたさと、自分の未熟さを感じたことは生涯なかった」とこの時のことを思い出す。
”気は優しくて力持ち”=別所毅彦
”選手である前に生徒であれ”このことばを口にするようになったのは昭和十一年、滝川中学に転仕してからのことだ。野球ができれば学園生活がおくられる、渥美はこんな環境に強い反発を覚え、学業第一の理念を野球部選手にうえつけた。
これを身をもって実行したのが別所だった。当時は、日曜祭日といえば大阪、京都、和歌山と試合に出かけた。渥美は月曜日には必ず前の週の復習の意味で十分ほどのテストを行った。
昨夜は試合で遅く帰ったので、いくら別所でもと思って答案を見ると満点だ。彼は一年から三年まで二百人中二番の成績だった。彼の努力家ぶりは住居が近かっただけによくわかった。別所は単に勉強だけでなく掃除当番から学校の行事にいたるまで、生徒としてやるべきことは卒先してやり、そのうえで野球練習に打ち込んだ。
冒頭の彼の力投も、努力と責任感が生んだものといえる。”鬼軍曹”というのは戦後、別所のプロ野球におけるコーチ、監督ぶりを評してジャーナリストがつけたあだ名だ。渥美はこの別名を聞くたびに複雑な気持ちになる。
別所は一年生の終わりごろ、渥美のところへ来て野球部を辞めたいと申し出た。聞くと、理由は三つあった。一つはもっと勉強して希望する大学へ入学したいこと、もう一つは野球部内の人間関係だった。当時、彼の気の小さいことも有名だった。
渥美政雄先生が滝川中学時代(兵庫)に育てられた選手に別所毅彦、青田昇氏がある。
「時習館と甲子園」より引用
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