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今年も恒例の冬練砂浜トレーが始まりました。 [2016年12月15日(Thu)]

今日はロシアのプーチン大統領が訪日され
平和条約に向けての会談が山口県の
長門で開催されます。
北方領土返還に向けても大事な話し合いが待たれます。
12月も半ば・・慌ただしい年末になりそうです。

そんな中、今年もこの時期、恒例の冬練砂浜トレーが
始まりました。

赤羽根ロングビーチでのトレニングは
足腰を鍛え、スタミナを付ける大事な練習です。
春には成長した姿を見せて欲しいですね!

DSCF7111.JPG

DSCF7330.JPG
成章高校卒業式・・ [2016年03月02日(Wed)]


3月1日はほとんどの公立高校で卒業式が行われました。

それにしても寒い3月のはじめです。北海道では

猛吹雪で・・卒業式に向かう学生さんも一苦労されてましたね。

田原市の成章高校でも卒業式を終え・・

長かった3年間も終了し、社会人へと巣立って行きます。

お世話になった成章野球部員にもこの場を借りて

卒業おめでとう・・と一言、お礼を申し上げます。

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ffui.jpg

DSCF8325.JPG
成章高校野球部紹介・・東日新聞 [2013年06月17日(Mon)]
本日の東日新聞に・・この夏の大会に出場する成章ナインの
横顔とメンバーが紹介されていました。

成章高校野球部紹介・・東日新聞

毎年、恒例ですが・・こうやって新聞に登場すると
夏も・・いよいよだな〜と感じさせてくれます。

CA3G0211.jpg

新聞記事の冒頭には・・

和製ライアンこと小川泰弘プロ野球投手を輩出した成章高校野球部の部員数は61人。マネジャー13人。選手は3年生21人、2年生22人、1年生18人。昨夏並みの攻撃力がついており、強打者を主軸に攻める野球で1戦必勝を目指す。

ヤクルト小川投手を話題にするあたりがさすが地元の新聞社さんですね。
成章のエース眞木投手、お父さんと同じサイドスローから投げ込んで来ます。

お父さんはノーヒットノーランを達成した数少ない剛腕投手でした。
親子でノーヒットノーラン達成すれば・・これ以上の話題は無いでしょうね。

DSCF2147.JPG
夢を追った追憶の日々・・ [2013年06月11日(Tue)]

今日は午後から梅雨入り後・・初めてと言っていいぐらい雨が降りましたね。
このところは、ずっと雨が降らなかったんで気持ちのいい雨でした。
これは台風が影響している関係なんで、台風の進路には気を付けてくださいね。

この所は毎日、関東成章会さんのフェスブックを見なければ
ならないほど、情報が満載で楽しいです!
フェスブックと言うツールが活かされていますね。

今年も6月22日に関東成章会の総会が開催されるとの事。
参加される方も増えて盛り上がっています。
幹事の小川さん、ご苦労さまです。

関東成章会のHPを見てましたら、関東成章会の歩みの中に記載されてあった
歴代幹事の中に・・22回の中村吉信さんの名前を見つけました。

間違いが無ければ・・糟谷前監督が高校球児だった時代に甲子園を目指した
時のバッテリーで投手だった中村吉信さんだと思います。
成章が最初の甲子園出場にリーチをかけた・・一瞬でもありました・
振り返ると、まさしく「夢を追った追憶の日々・・」
昭和43年だと思います。

成章の甲子園初出場は昭和47年、それから36年経ってようやく2度目の甲子園出場ですから
いかに甲子園が遠い存在か・・あらためて痛感させられました。36年ぶりの21世紀枠での甲子園初勝利、1勝の重みは・・100年もすれば・・先輩たちはすごい事をやったんだな・・と成章野球の歴史と共に後世に語り継がれる事でしょう。
私は中村さんとは面識はございませんが・・総会の席で話題にでもなればと思い取り上げて見ました。

成章史80年より抜粋

《涙を流した思い出》

中学3年生の時、硬式野球がやりたくて成章高校へ進学を決意したことが、私の人生を決定したと思ってる。それほど高校時代の野球の経験や思い出等が、私のその後の進路に強い影響を与えている。
中学校で野球をしていた私は、硬式野球がやりたくて成章高校に進学した(当時の福江高校は軟式野球部であり、郡内では成章と渥美農高だけが硬式野球部あった。もし福江高校が硬式野部であれば、私の家が伊良湖なので福江高校へ進学していたであろう)
成章入学と同時に下宿をし、授業を受け、そして部活動という毎日が始まった。同学年の入部者は17名で、野球部はじまって以来の多人数であった。
決意をして入部したので、やめたい気持ちががおこるより、無我夢中であった。下宿している関係で、練習後学校でユニフォームの洗濯をしていて、当直の先生に、帰りが遅いと注意を受けたことも多かった(この下宿の体験は大学進学後の合宿生活に役立った)
高校3年間部活動に明け暮れ、多くの試合に出場したが、その中でも特に忘れることのできない試合が、3試合ある。それは、成章野球部創立以来はじめての県大会優勝を成し遂げたこと。甲子園目前の中部地区大会で、9回裏に逆転負けしたこと。3年最後の甲子園の夏の大会県予選で、東邦高校に負けたことである。

高校2年の秋、我々は県大会に出場し、東邦高等学校を破り、4校決勝リーグ戦に勝ち残った。成章野球部史上2度目のことであった。その4校とは、成章の他に中京、愛知、名古屋電気である。成章以外は私立の高校ばかりである。
第1戦は愛知高校に4対2で敗退(愛知高校の4番打者はプロ野球ヤクルトの杉浦選手である。)体格も大きくパワーのある選手であった。第2戦は中京高校に0対1で勝った。ヒット数は中京7本、成章1本であった。守り抜き、粘り抜いた末の勝利であった。第3戦は名古屋電気高校と事実上の決勝戦となったが、結果は0対4で完勝であった。私は捕手であり小柄な選手であった。投手は中村吉信君(現在東芝府中勤務)であり、小柄な選手であった。当時身長168センチ、体重60k程度であったと思う。中村投手の投球は実に絶妙で、打者の手元で微妙にするどく変化した。インコースのシュートの切れ味はすばらしいものがあった。私も捕球に大変苦労したものである。
名古屋電気高校戦の7回にファウルチップが私の右手人差し指にあたり、爪がはがれ血が吹き出した。相手にみられては盗塁されると思い、味方に隠してグランドの土で指をこねては、血と土を大股の内側で拭きながら試合を続行した。当時の高野連理事長であった故北川先生にきつくお叱りを受けた。理由は勝つことも大切だが、今後野球ができなくなったらどうするのかというものでああった。大変やさしく、また高校野球を深く愛しておられた先生でもあった。そのけがの為、現在も私の右手人差し指の爪は割れたままである。
名古屋電気高校最後の打者をインコースのい高めのシュートで見送り三振に打ち取り、ウイニングボールが、私のミットにおさまった瞬間のうれしさは、たとえようのないものであった。マウンド上で中村君を抱え上げ喜びあったことは、最高の良き思い出として残っている。
県大会優勝を果たし、中部地区大会に(現在の東海大会)出場した。その大会に1勝すれば、春の選抜甲子園大会に出場できる可能性がでてくるのである。12年経った今でも鮮やかに思いだされる試合である。相手は岐阜南高校、球場は静岡県磐田球場であった。3対1でリードしていて迎えた9回裏、先頭打者は打順9番のリリーフ投手に替って代打が出て来た(この代打によりたとえ同点になっても岐阜南高校には投手がいなくなlったのである)この代打者を四球で歩かせた。次に1番打者にレフトへの大飛球を打ちあげられた。打球が上がりすぎたので、捕手の私はレフトが追い付いて捕球できそうな感じを受けた。打球が一番高く上がりきった1瞬である、強風が吹いて打球は右へ右へと流れされ、なんとセンターの定位置近くに落下したのである。今もって信じられないような光景であった。このために1点、返された後、2番打者を四球で出し、無死1塁、3塁となったところで満塁策をとって4番打者を迎えた。この4番打者は、それまではカーブがまったく打てず、3打席三振であった。こお打席も2つストライクを取っていたので、私はアウトコースのボールになるカーブを投手に要求したくてベンチの指示を受けた。私の考えとベンチの考えは一致していた。中村投手の投球は私のい要求通りのものであったが、打者のバットはボールを真芯でとらえていた。打球はライナーとなりライトの頭上を越えていた。甲子園の夢が消えた一球であった(レフトへ大飛球を打った打者は木村敬三君といい、私と同じ大学へ進学して野球部で4年間一緒にプレーした)
3年生の春には県大会2位となり中部地区大会に出場したときには、9回の裏に逆転サヨナラ勝ちして準決勝に進出したのである。2年生の秋と比較して見て、何という運命のいたずらか。3年生の夏の大会に最後の甲子園をかけていどんだ。過去3度戦い、3度とも完勝していた東邦高校に3対2で敗退し涙をのんだ(東邦高校は中京を倒して甲子園に出場した)
私は高校時代、甲子園に出場することを夢としていた。思い出は野球につきるといって過言ではない。それも、つきつめていくと、三振か四球が私の思いでのようだ。県大会優勝のウィニングボール、甲子園の夢破れたレフトへの大飛球の一球とライトオーバーを打たれたアウトカーブ・・・・・・・・・・・・・。
私は前途の3球に、球友たちと涙を流し泣いた。しかし、この流した涙が今も球友とのきずなとなっているように思うのである。後輩に、また教えている子供にも、高校時代に涙を流せる何かに打ち込んで欲しい。球友と会い語り合うとき、いきつくところは高校時代のあの試合、あの日の練習、そして最後は中部地区大会のあの逆転サヨナラ負けの試合にたどり着くのである。苦いが、良き思い出である。

「甲子園で後輩を見たい」定年を迎える糟谷・成章前監督 [2012年03月20日(Tue)]

センバツ甲子園も明日が本番、今日はリハーサルで明日の準備に備えて甲子園もにぎやかになって来たようですね。

20日付けの中日新聞、東三河版に
「甲子園で後輩を見たい」とのタイトルでこの3月で定年を迎える糟谷・前成章監督が紹介されていました。

糟谷先生、長い事お疲れ様でした。今後も渥美半島の野球を盛り上げる為にもご助言を願いたいと思う次第です。平成20年3月21日・・は私にとっても忘れる事の出来ない・・日となりました。21世紀枠で出場した成章がリニューアルされた甲子園で1回戦、岩見沢戦で3対2で甲子園、初勝利、渥美半島の人々が一日中幸せになれた日でもありました。あの日の感激は今でも思い出します。菜の花の黄色帽子で埋まったアルプススタンドは超満員、外野席まで応援団が押し寄せ・・すごい人でしたね。

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成章はご存じのように・・昭和49年と平成20年にセンバツ甲子園出場を果たしています。それ以外で後、ひとつ勝てば甲子園という時が平成20年の東愛知決勝戦と昭和43年の秋の中部大会(東海大会)です。糟谷先生選手時代の時に甲子園出場の機会がありました。その時の様子は以前のプログをご覧ください。
選手時代から・・41年目にして甲子園の土を踏んだあの甲子園は・・どんな思いだったでしょうか。野球一筋・・最後はまさしく監督冥利に尽きる日々を送られたのではないかと思ってます。
いろんなお話を聞かせていただいてほんとにありがとうございました。

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成章甲子園初の1勝、駒大岩見沢が廃校の危機! [2010年10月10日(Sun)]
近年の少子化の影響が・・ついにあの名門校にも及んだ!

2008のセンバツで・・21世紀枠の成章と戦った

北海道の駒大岩見沢高校が廃校のニュース!!ニワトリニワトリ

記憶にも新しい・・あの2008のセンバツ・・東海地区の21世紀枠

代表として・・36年ぶりに・・甲子園出場を果たし、初の1勝をまる

あげた成章・・相手校が駒大岩見沢であった。

ヒグマ打線と・・パンダ呼ばれる駒大岩見沢は・・その強力な打撃で

成章を圧倒すると・・戦前の予想だったが・・

小川君力投で・・これを粉砕・成章の甲子園、初の1勝をもたらした。

菜の花応援団として・・甲子園のアルプススタンドを黄色いの

帽子で埋め尽くした帽子・・あの時・・あの日・・自身もうれし涙で・・悲しい

これほど・・野球やってて・・幸せだと・・感じた日はありませんでしたね。

父母会の皆さんも・・・・・・涙(;_;)/~~~

興奮は抑えきれない・・メガホン

熱く燃えた甲子園!これほど・・高校野球の重さ、すごみ、感激、を味わった

日は無かった・・・振りかえって見ても・・

歓喜の1勝は・・永久に忘れる事は出来ない。

駒大岩見沢の廃校は残念だが・・これも時代の流れか・・

残念です・・・悲しい







甲子園出場記念パネル・・ [2008年09月04日(Thu)]
もうひとつの甲子園が開かれたさなか・・
春の選抜甲子園出場記念パネルが・・選手に届いたようです。
私も見せていただきました。素晴らしいです。〓

甲子園球場内での記念写真と開会式・・出場校など・・
値段は1枚3900円とか・・いや・・私もほしいくらいの写真ですね・・

種類もいっぱいありました。といっても・・これは選手がいろんなパターンを選んだもので・・多いのが全体写真と個人の写真との組み合わせが多かったようですね。
選手にとっては宝物の1枚になりそうですね・・





神宮大会、常葉菊川優勝!・・成章も [2007年11月15日(Thu)]
神宮大会は東海地区代表、常葉菊川が優勝しました。
おめでとうございます。

第4日・11月14日(水)

◎神宮球場
〈決勝〉
@常葉菊川5―4横浜
横010000003 4
常00110003× 5
(横)土屋―小田
(常)戸狩―石川
(本)(横)小川、土屋 (常)前田
☆常葉菊川、初優勝☆

常葉菊川の優勝により神宮枠が1枠東海地区に決まりました。
どのチームになるかはわかりませんが・・21世紀枠を狙う成章にとっても
追い風となったようです。

神宮大会といえば過去にも成章は1度だけ出場しています。
昭和51年11月です。先輩達の活躍は頼もしい限りですね。
30年前の事は言え、成章の活躍は素晴らしいものがありました。先輩達に負けないように17日に行われる全三河決勝戦、頑張ってほしいです。








成章・・甲子園へ道I [2007年06月28日(Thu)]
成章・・甲子園への道I

中京大中京

中京大中京と言えば名門・・全国でも有名な
高校野球校だ・・今年も愛知県では有力な甲子園に
一番近い学校・・
成章も県大会では8対9と1点差まで追い上げた
ともに歴史のある学校だ・・
そんな中京が成章グランドで練習試合をした
ことがある・・
名古屋からこの渥美半島までは2時間以上はかかる・・
当時は交通事情が悪かったから3〜4時間かけて
渥美まで来たと思われる・・
成章も中京の野中投手の時に名古屋まで練習試合に
いったと・・言われる・・
そんな歴史ある両校が交流をまじえていたとは・・
ほんとにうれしいね・・


成章・・甲子園への道H涙を流した思い出・・ [2007年06月25日(Mon)]
成章・・甲子園への道H

成章で捕手として高校野球をすごされたある選手の記事を成章80年史より抜粋
させていただいた。今も昔も球児の心は・・甲子園、目指すものは同じだと強く感じました。

《涙を流した思い出》

中学3年生の時、硬式野球がやりたくて成章高校へ進学を決意したことが、私の人生を決定したと思ってる。それほど高校時代の野球の経験や思い出等が、私のその後の進路に強い影響を与えている。
中学校で野球をしていた私は、硬式野球がやりたくて成章高校に進学した(当時の福江高校は軟式野球部であり、郡内では成章と渥美農高だけが硬式野球部あった。もし福江高校が硬式野部であれば、私の家が伊良湖なので福江高校へ進学していたであろう)
成章入学と同時に下宿をし、授業を受け、そして部活動という毎日が始まった。同学年の入部者は17名で、野球部はじまって以来の多人数であった。
決意をして入部したので、やめたい気持ちががおこるより、無我夢中であった。下宿している関係で、練習後学校でユニフォームの洗濯をしていて、当直の先生に、帰りが遅いと注意を受けたことも多かった(この下宿の体験は大学進学後の合宿生活に役立った)
高校3年間部活動に明け暮れ、多くの試合に出場したが、その中でも特に忘れることのできない試合が、3試合ある。それは、成章野球部創立以来はじめての県大会優勝を成し遂げたこと。甲子園目前の中部地区大会で、9回裏に逆転負けしたこと。3年最後の甲子園の夏の大会県予選で、東邦高校に負けたことである。

高校2年の秋、我々は県大会に出場し、東邦高等学校を破り、4校決勝リーグ戦に勝ち残った。成章野球部史上2度目のことであった。その4校とは、成章の他に中京、愛知、名古屋電気である。成章以外は私立の高校ばかりである。
第1戦は愛知高校に4対2で敗退(愛知高校の4番打者はプロ野球ヤクルトの杉浦選手である。)体格も大きくパワーのある選手であった。第2戦は中京高校に0対1で勝った。ヒット数は中京7本、成章1本であった。守り抜き、粘り抜いた末の勝利であった。第3戦は名古屋電気高校と事実上の決勝戦となったが、結果は0対4で完勝であった。私は捕手であり小柄な選手であった。投手は中村吉信君(現在東芝府中勤務)であり、小柄な選手であった。当時身長168センチ、体重60k程度であったと思う。中村投手の投球は実に絶妙で、打者の手元で微妙にするどく変化した。インコースのシュートの切れ味はすばらしいものがあった。私も捕球に大変苦労したものである。
名古屋電気高校戦の7回にファウルチップが私の右手人差し指にあたり、爪がはがれ血が吹き出した。相手にみられては盗塁されると思い、味方に隠してグランドの土で指をこねては、血と土を大股の内側で拭きながら試合を続行した。当時の高野連理事長であった故北川先生にきつくお叱りを受けた。理由は勝つことも大切だが、今後野球ができなくなったらどうするのかというものでああった。大変やさしく、また高校野球を深く愛しておられた先生でもあった。そのけがの為、現在も私の右手人差し指の爪は割れたままである。
名古屋電気高校最後の打者をインコースのい高めのシュートで見送り三振に打ち取り、ウイニングボールが、私のミットにおさまった瞬間のうれしさは、たとえようのないものであった。マウンド上で中村君を抱え上げ喜びあったことは、最高の良き思い出として残っている。
県大会優勝を果たし、中部地区大会に(現在の東海大会)出場した。その大会に1勝すれば、春の選抜甲子園大会に出場できる可能性がでてくるのである。12年経った今でも鮮やかに思いだされる試合である。相手は岐阜南高校、球場は静岡県磐田球場であった。3対1でリードしていて迎えた9回裏、先頭打者は打順9番のリリーフ投手に替って代打が出て来た(この代打によりたとえ同点になっても岐阜南高校には投手がいなくなlったのである)この代打者を四球で歩かせた。次に1番打者にレフトへの大飛球を打ちあげられた。打球が上がりすぎたので、捕手の私はレフトが追い付いて捕球できそうな感じを受けた。打球が一番高く上がりきった1瞬である、強風が吹いて打球は右へ右へと流れされ、なんとセンターの定位置近くに落下したのである。今もって信じられないような光景であった。このために1点、返された後、2番打者を四球で出し、無死1塁、3塁となったところで満塁策をとって4番打者を迎えた。この4番打者は、それまではカーブがまったく打てず、3打席三振であった。こお打席も2つストライクを取っていたので、私はアウトコースのボールになるカーブを投手に要求したくてベンチの指示を受けた。私の考えとベンチの考えは一致していた。中村投手の投球は私のい要求通りのものであったが、打者のバットはボールを真芯でとらえていた。打球はライナーとなりライトの頭上を越えていた。甲子園の夢が消えた一球であった(レフトへ大飛球を打った打者は木村敬三君といい、私と同じ大学へ進学して野球部で4年間一緒にプレーした)
3年生の春には県大会2位となり中部地区大会に出場したときには、9回の裏に逆転サヨナラ勝ちして準決勝に進出したのである。2年生の秋と比較して見て、何という運命のいたずらか。3年生の夏の大会に最後の甲子園をかけていどんだ。過去3度戦い、3度とも完勝していた東邦高校に3対2で敗退し涙をのんだ(東邦高校は中京を倒して甲子園に出場した)
私は高校時代、甲子園に出場することを夢としていた。思い出は野球につきるといって過言ではない。それも、つきつめていくと、三振か四球が私の思いでのようだ。県大会優勝のウィニングボール、甲子園の夢破れたレフトへの大飛球の一球とライトオーバーを打たれたアウトカーブ・・・・・・・・・・・・・。
私は前途の3球に、球友たちと涙を流し泣いた。しかし、この流した涙が今も球友とのきずなとなっているように思うのである。後輩に、また教えている子供にも、高校時代に涙を流せる何かに打ち込んで欲しい。球友と会い語り合うとき、いきつくところは高校時代のあの試合、あの日の練習、そして最後は中部地区大会のあの逆転サヨナラ負けの試合にたどり着くのである。苦いが、良き思い出である。




さて成章ナインも夏の甲子園を目指して3年生にとっては
最後の夏、県大会予選が7月15日から始まります。
秋の県大会ベスト8で21世紀枠推薦候補校、東三河大会優勝、春の県大会ベスト4、最後のあわや同点ホームランかと応援団を熱くさせたあの・・・伝統校
中京との8対9で負けた試合、東海大会では2回戦でプロが認める中井君を要した宇治山田商との対戦・・1対9で負けたが中井君の速球に1点をとったこと。
そして全三河優・・・・そして最後に夏の大会・・選手個人にとっては、3年間、頑張ってきた成果を遺憾なく発揮してほしい・・そして野球をやってよかったと思える思い出を作ってほしい・・
頑張れ!成章・・・みんな応援しているよ!!
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