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中国の若者が綴る“感知日本 ”―中国語の「作文コンクール」一等賞決定― D [2011年12月06日(Tue)]

土の下の尊厳


四川省 王珂旻

 昔から“大和魂”と称される桜が見守る下で、滑らかなそよ風が無名の墓のひとつひとつを優しく撫でていく。生花、ミネラルウォーター、そして故人の遺品、こうしたものは忠実な“臨時の墓碑”であり、埋葬された遺体がそこにあることを示している。この公共墓地の写真からは、悲しい影どころか、この地で起きたばかりのことを推測できる人すらいない。

 これは、“3.11東日本大地震”後の宮城県気仙沼市内の身元不明被災者を納めた臨時の共同墓地の一つである。4月24日現在、地元自治体が造成したこの臨時の共同墓地には既に205名もの被災者が埋葬されている。こうした臨時の共同墓地は、被害が深刻な他の被災地にもたくさんある。被災地周辺の火葬場が大量の被災者の遺体に対処できないため、日本政府は、伝染病の流行を防止するという目的で集団土葬を緊急決定した。日本においては、土葬廃止から既に長い年月が経過している。公式統計によると、2009年に死亡した日本人の99.9%は火葬されている。

 「一時的に埋葬しているだけであって、二年以内に遺体を掘り出して改めて火葬する。」東松島市環境課の相沢氏は取材に対してこのように答えた。こうした臨時埋葬用の穴は正式な土葬の半分ほどの深さである。遺体は全て、納棺師が一体ずつ心を込めて清めた後、最寄りの臨時墓地へと搬送されるのである。埋葬を担う自衛隊員たちは、日本の伝統である“北枕”を守って遺体の頭を北に向けて安置し、安置する度、整列して敬礼するのである。被災者の遺族は、棺の上に菊の花や線香を手向けて黙祷し、それからスコップで棺に土をかぶせるのだ。毎回数時間に及ぶ儀式のため、仏像を祀った香堂も特別に設置されたが、それらも“臨時埋葬”のためだけのものである。

 マーク・トウェインが『バック・ファンショーの葬儀』の中で書いているとおりである。「ある社会の構造を理解したいのなら、その葬儀を観察することだ。どういう人が最も立派な葬儀をしてもらえるのかを知るだけで、多少のことは分かると古代の人は言ったものだ。」葬儀は人生最後の旅路として、一人の人間の長い一生、或いは短い一生の収穫と期待を載せている。しかも、残された身内のために思いを伝える橋を架けるのである。俗世間的な意味における完結を通じて、ある種のこの上ない円満さに達するのだ。葬儀の礼儀は、早い時代から既に社会の文化の縮図となっており、ある種の儀式を代表するだけでなく、ある社会の人の尊厳に対する保護を表しているのだ。
 この点から見ると、日本の大地震後の合同葬儀には火葬の過程こそないものの、自衛隊員の礼儀と現場における一連の儀式の過程は、一人一人の被災者の命に対する尊厳を具現化していると言える。

 日本映画には葬儀に関するシーンを含むものが多く、その中でも最も有名なのは、アカデミー賞外国語映画賞受賞作品『おくりびと』である。『おくりびと』は、作品全体の雰囲気に想像されるような死と関わる息詰まるものはなく、一貫してある種の静けさと安らぎに満ちている。この映画で最も印象に残ったシーンは、一家4人の老若の女性遺族が遺体の顔に赤く唇の跡をつけ、泣き笑いしながら感謝の言葉を口にするところである。この時の葬儀には伝統的な厳粛さ、連綿と続く悲しみの涙があるだけではなく、死者が身内と過ごす最後のひと時に家庭生活のような自然で温かい雰囲気が満ち溢れていた。

 筆者は日本で葬儀に参列したことはないが、近年の日本の葬祭業界で“死者の普通の生活の再現”を追究するホールが出始めたという話なら知っている。葬儀の形式的な煩わしい虚礼を排除して、それぞれの家柄によって家庭的な装飾、整ったきめ細やかなサービスを提供し、死者と遺族のために“恐れや嘆きがなく、互いに慰め祝福し合う”過程の雰囲気を醸し出して、死者の最後の旅路を生者に共有させるというものである。村上春樹は、日本人に高い評価を得ている『ノルウェイの森』の中で「死は生の対立面ではなく、生の一部分を永久に存在させるもの」という言葉で、死そのものに対する自分自身の理解、つまり生死同源を表現している。そして、概ねこれが、近年、日本の葬祭業が大胆な革新を行っている根拠なのだろう。

 中国の葬祭業は未だ整備段階にあるとは言え、経済発展に伴い、国家が重大災害における死者の尊厳を保護するという意識は日増しに強まっていることを容易に見て取ることはできる。ブン川大地震から暫くして掘り出された遺体は、天気や伝染病などを理由に“消毒後、地中深く埋却“されたが、こうした対応は、被災者の遺族や友人達にとって感情的に受け入れ難いものであった。

 玉樹地震後、政府は“死者の尊厳を尊重し、少数民族の葬儀と埋葬の習慣を尊重する”ことを原則として、千人近い被災者の遺体のため、塔葬に次ぐ高級葬―集団火葬を行い、活き仏が数百人の僧侶を率いて死者の霊のため読経して済度した。こうしたことから、これら二度の地震において、死者の尊厳が重視されるようになってきたことは容易に見てとることができる。この点だけでも、充分喜ばしく慰めを感じることである。

 日本にいようと中国にいようと、被災者の遺体処理だろうと普通の人の葬儀だろうと、私達一人一人が分かっておかなければならないことがある。それは、生命が果てまで歩きついた時、葬儀という旅はまるで最後の回顧のようなものであること、一人の遺体が深く埋葬される時、沈黙するのは死去する者の外に存在する身体だけではなく、その人の長い一生、或いは短い一生の尊厳でもあるということである。
中国の若者が綴る“感知日本 ”―中国語の「作文コンクール」一等賞決定― E [2011年12月06日(Tue)]

一つのりんごと一通の手紙


四川省 王丹青

 少しだけ複雑な感情と眼差しで、私はずっと黙々と日本に関心を持っている。日常会話で日本の話題が出ることは多いものの、2008年の“5.12”汶川大地震までは、日本と私個人との間に何か直接的な繋がりができるなどと思ったことはなかった。

 ブン川大地震の発生当時、私は18歳で、四川綿陽高校で大学入試に備えているところだった。突然の天災で全てが狂わされ、落ち着いていた心もかき乱された。まるで激しく揺れ動く夢の世界に身を置いているような感覚がして、頭がぼうっとした。地震から回復しつつあったある日、甥から大きな赤いりんご一つと一枚の紙をもらった。姉によると「日本人からよ」とのことだったが、不思議に思ってその紙を読んでみると、おおよその内容とは…

 「皆さん、最近いかがお過ごしですか。寒くなってきたので、お体にお気をつけてください。日本のWYと申します。居ても立ってもいられないので、私に出来ることをすることにしました。私が摘んだりんごを皆さんに送ります。お爺さん、お婆さん、頑張ってください。今こそ、あなた方の人生経験がものを言う時です。お父さんお母さん、今こそ、目下の人達に強さを見せる番ですよ。若者の皆さん、自分達の素晴らしい郷里を築くために奮起してくださいね。よい子のみんな、怖がらないで、力を合わせれば、何でもできますからね。このりんごは普通のりんごではありません。父のWJが生前に荒れた山を耕して植えた樹になったものなのです。生命力の強いりんごで、希望に満ちた果実なのです。財産より身体、身体より精神が重要です。冬はいつしか過ぎ去り、必ず春が訪れます。これは私達人類全体にとっての災難であり、全員の苦痛なのです。一緒に戦わせてください。頑張って!心から声援を送ります。

WYとその仲間達より


 感動と共に少し震撼を覚えた。私は長い時間ものを言わず、日中間のたくさんの事を一気に連想し、汶川大地震と関係した日本に関する情報を連想した。それまでも中日関係がらみの報道を見聞きすることはよくあったが、どうせ国同士の関係は、私個人の実際の生活からは遠いものだと思っていた。なので、一面識もないWさんが手ずから摘んだという、幸運と平安を表すりんごが私の手に届いた時には驚いた。まさか私自身の身にこんなことがあるとは。

 災難を味わった人は感性が鋭くなるのかもしれないが。長い間考えてから、私はこの「小さな出来事」と自分の感想を“人人網”に書き込んだ。多くの友人がその書き込みを見て、震災後に彼ら自身が味わったり聞いたりした日本人の善意を“晒し”た。みんなの気持ちは驚きに似たもので、まずは感動し、それから以前の偏見や誤解を後ろめたく感じるというものだった。

 時間が過ぎるのは早いもので、瞬く間に2011年となった。3月のある午後、同級生に「日本が大変だ、地震だよ」と言われ、私はぎょっとした。無情な地震と津波が日本を襲ったとは。同じような経験と痛みを味わった私には、他人事ではなかった。寝室に戻ると、私は、狂ったように日本の地震に関する情報を全て調べ、サイトを更新して、日本に留学している友人の最新情報を待った。その後、中国政府が日本の被災地にたくさんの物資を寄付したこと、多くの中国人が日本の被災者に募金したことをニュースで見た。時間の大きな傷口が裂けたように、私は3年前の5月に引き戻された。死傷者数は絶えず増え続け、テレビが映す惨状に心が痛んだ。時空が倒錯して混乱した私には、2011年と2008年との区別も、3月11日と2008年5月12日との区別も、宮城や福島と映秀や北川との区別もつかなくなってきた…唯一はっきりしていたのは、また多くの命が絶たれ、多くの家庭が崩壊し、多くの人々が居場所を失い、多くの心が苦しみ壊れていることだけ…

 手摘みのりんごと真心あふれる手紙が万里の彼方から他国の高校生に届いた。そこには、うわべだけの親切もパフォーマンスもなく、あったのは真心だけだった。“りんご事件”以来、日本に対する私の認識と見方には密かに変化が現れている。その時の手紙はずっと大切に財布の中にしまってあって、人間性の輝きとは、自然災害に破壊された中で益々きらめくものである、ということを思い出させてくれる。



教育・研究図書有効活用プロジェクト室
中国の若者が綴る“感知日本”−「作文コンクール」第6回優秀賞作品− @ [2011年12月02日(Fri)]
中国の若者が綴る“感知日本 ”


―「作文コンクール」第6回優秀賞作品―


 日本科学協会と中国青年報社が共催する「笹川杯作文コンクール2011」(中国語版)は、10月31日で作品の募集を締め切りましたが、中国全土の様々な身分・職業・年齢層・境遇の若者から8,410点の応募がありました。これらの作品を対象に厳正な審査を行った結果、第6回(11月分)優秀賞3点が決定しました。
これにより2011年度の優秀賞18点が全て出揃いましたが、これらの作品を対象に更に最終審査を行い、12月中旬には一等賞6点が決定します。

 ここでは、優秀賞3点の和訳を紹介しますが、中国語の原文は、それぞれ11月12日(「導師送我両本書」)、20日(「物哀之美」)、26日(「泥土下的尊厳」)の「中国青年報」紙と同webサイトでご覧いただけます。



「中国青年報」紙(2011年11月12日、20日、26日版)



先生がくださった二冊


北京市 盧学麗

 私の机の上には2冊の本が置いてある。1冊は稲森和夫の『働き方』で、もう1冊は呉暁波の『大敗局』である。
 どちらも、私が私の指導教師から頂いたものである。私が幸運にも大学院生として張先生について間もなく、私は先生から最初の本『働き方』を頂いた。先生は50数歳で、母親のような慈悲と優しさで私達全ての学生に気を遣ってくださる方である。先生は、私が農村の恵まれない家庭出身であることも、省都所在のある普通大学から中国政法大学に入学したため、基礎がそれほどしっかりしていないということもご存じである。先生は、新しい環境に入ったばかりで落ち着かない私の心情を見抜き、私をご自宅に招いて斬新な図書『働き方』を手渡してくださった。「私は、法大に来たばかりのあなたの気持ちとプレッシャーを理解できますよ。プレッシャーに打ち勝つには、努力をなさい。稲森和夫さんの精神を学ぶといいでしょう。きっと何ごとももっとできるようになります」と心のこもった言葉を添えて…。私は懸命に頷いた。

 その夜、私は、電気スタンドの下で稲盛和夫氏の精神を初めて感じ、日本人の仕事の態度を悟った。稲森氏は大学で有機化学を専攻していたが、幾つかの理由により最終的には有機化学の分野に進まなかった。彼は、未知の専門分野と業務環境に対して気落ちしたり尻込みしたりすることはなかったし、会社が破産して彼しか残らなかった時でさえ、仕事を離れることはなかった。彼は仕事を愛することに努め、自分の子供を抱くかのように実験材料を抱えて寝たことさえあった。そうした情熱と安定した心を持っていなかったら、基礎から始めた彼が、会社を最終的に世界500強企業に押し上げることはなかっただろう。

 稲森氏は、次のように語っている。「熱愛中の恋人は、傍目には呆然としそうなことがあっても、落ち着いて対処する。仕事も同じであって、夢中になって、心から愛してこそ、苦しい仕事でも長く続けることができる。こうした姿勢を貫けば、恨みも後悔もすることはない。」、「自分で仕事をし、仕事は自分でするという境地に達してこそ、全身全霊で仕事に打ち込める。」と。彼は自らを“自己発火型”人間に育て上げる努力をしたのである。事業を成就させるためには、自ら燃えることのできる人にならなければならないからである。仕事を心から愛して自分の火種とし、自分の情熱を全ての人や物にまで浸透させるのである。

 私は、彼の精神に深く震撼した。日本人は昔から、落ち着いていて、厳格で、目標が明確であるということで有名だが、日本人の優れた特質をここまで一身に集めた人は珍しい。こうしたことは、まず起こりえないことであるが、稲森氏には起きたのである。日本は小さいが、その意欲と戦闘力は決して弱くない。それは、日本が自分の弱みを明確に理解しているため、全力を尽くしてほぼ完璧に自らの忍耐力を示し、最終的にある精神を日本人から引き出し、こうした戦闘力を日本の至るところに広げてきたからである。

 指導教師は、研究の第二学期に二冊目の本『大敗局』を私に下さった。驕らず、焦らず、小さな成果に心を奪われないようにすること、さもなければ、即、敗北へ突き進むことになるとの教えだった。この本も、私の最愛の書の一つである。『大敗局』の三文字は、驕らず高慢にならぬよう、いつも私に警鐘を鳴らしてくれる。呉暁波氏の『大敗局』は、改革開放の数十年来、中国の一部民営企業が苦境の中でどのように苦闘しながら成長し、遂には一時的な輝きを得たが、それでも劣勢を脱することができなかった有様を記録したものである。その中の原因には深く考えさせられるものがある。浮き足だったり、巧妙に立ち回ったりすることを避け、物質的な誘惑と罠を回避しなければならないということである。勿論、偉大なる環境との関係をより良くする必要もある。全ての要素が調和した時、私達は成功から遠くない位置にいるはずだ。

  巨人集団(上海巨人網絡科技有限公司)、秦池酒、三株口服液…全ての輝きが黄ばんだ写真に納まっている。あの時代の若者には勇気、戦闘力、燃焼力があったし、創業に歩み出す時の落ち着きと、一歩ずつ進む戦略があった。しかし、成功と失敗は一夜のうちに決まってしまう。私達は“野蛮な生長”をしてきた。“大敗局”は、決して決定的な状態ではない。私達は今でも前に進んでいるのだから。

 私の机の上にある二冊には、東洋人の知恵と生命力が詰まっている。私は、『働き方』により日本を少し理解することができた。日本人は不屈の民族であり、その忍耐力と戦闘力が依然として強大であるということを知ったのである。日本は地震、津波、放射性物質の漏出など大小様々な災難を経験したが、日本人の精神はこうした困難に打ち勝ち、その精神をより輝かせ、伝承し続けていくと、私は信じている。こうした初歩的な認識の中で、個人的に恥ずかしさと悟りを覚えたこともある。新たな時代の若者として、私達は、些細な事でも勇気と活力をもって一つ一つ着実に片づけていってこそ、私たちの才能は成功への道をゆっくりと歩めるということである。『大敗局』は、吸収することのできる一種の教訓を私に与えてくれたのだが、この教訓は生涯に亘って私の役に立つことだろう。おかげで遠回りを減らすことができるのだから。
中国の若者が綴る“感知日本”−「作文コンクール」第6回優秀賞作品− A [2011年12月02日(Fri)]

もののあはれ


山東省 呂盼

 日本人は美しいもの、特に“もののあはれ”の美しさを好む。日本列島は優美で心地よい自然の風土に恵まれているが、資源は相対的に乏しく災害も多いため、日本人には哀悼を尊ぶ気質が形成された。“もののあはれ”は悲哀、悲しさ、悲惨さと解釈されるだけでなく、哀れみ、同情、感動、さびといった意味も持っている。“もののあはれ”は感覚的な美であって、知性や理性で判断されるものではなく、直感や心で感じ取るものであり、心でしか感じ取れない美しさなのである。

 自然災害が頻発する小さな島国は、日本人に個体の矮小さを深く感じさせた。生命の無常と短さは、桜のようであり、最も美しい時が世を去る間際の時なのである。日本最古の歌集『万葉集』では大部分の歌が繊細な感情で詠まれており、悲しみや恨みに満ちている。この中に「秋づけば、尾花が上に置く露の、消ぬべくも、我は思ほゆるかも」と詠まれた一首があるが、この歌の中で作者は露の宿命に人生の無常をたとえ、自らの悲しみと憂いを託している。

 いわゆる“もののあはれ”とは、懸念に対する解答のひとつでもあって、日本に対する理解はいつも懸念から始まり、懸念は物語の出発点である。人は疑問を持つと、往々にして遡及していくものなのだが、追えば追うほど、最終的には一定の懸念が生まれてしまうのである。日本では風に舞う桜の花は、もののあはれの心をとてもよく表しているものである。桜は美しいが、美しい時期は長くはなく、一般的に一株の桜の花は咲き始めてから三、五日程度の寿命しかない。人々は満開の桜を愛で、解き放たれた青春を味わうと同時に、花が乱れ散る瞬間には、風に舞い落ちる花吹雪の中に生命の脆さと青春の短さを感じ取り、より深い趣を感じるのである。

 日本人は、古来、自然を愛し人為的なものを嫌うが、これは日本人独特の美的感覚である。日本人は抽象的な表現能力に欠けるため、具体的で直感的な表象にますます関心を払うようになる。自然を感じ取るというのは、もちろん単に自然を観察するということではなく、自然物の心に入り込むことであって、真の万物が個人の魂の力を借りて情緒として表れてくるが、その背後には思想や道理が隠されているのである。
もののあはれとは、哀しく荒んだ心境から生み出される悲劇の美であり、憂鬱の美である。生命に対する哀れみであり、歳月の無常に対する感傷である。これは日本の伝統文化の核心的な部分であり、日本文学の一大特色でもある。

 日本の伝統文化には婉曲的で含蓄のある悲しみや気高い感情の悲壮さがあり、こうした点は『平家物語』、『源氏物語』の中に見ることができる。『源氏物語』から敷衍し形成された“もののあはれ”という日本的な美学名詞は、当然、日本民族の思考法の特徴を最もよく表しているということができる。“もののあはれ”は表象と感情の結合点となり、日本文学の伝統的な審美観念の核心となっている。

 日本の芸術の美を最も理解する民族とは、世界中で恐らく漢民族だけだろう。茅盾は、「1920〜30年代の中国は多くの優れた作家を輩出したが、彼らと日本留学の経験とは大いに関係がある。」と述べている。多くの中国の作家が日本文化を熱愛するのは、内心から発することである。郁達夫は、日本の文芸美の特徴について次のように語っている。日本の文芸は「希薄さの中に独特の趣を出し、簡単さの中に深い意義を込めている」と。それは「空中のそよ風、池のさざ波のように、始まりも終わりも分からず、飄々としなやかなものである。ごく短い言葉でも、よく反芻すると、長い年月を経てもオリーブのように噛めば噛むほど深い味わいがある」というのだ。戴季陶は、「日本の山水は、全て、静かな趣があって精致で、工夫を凝らした見事な彫刻のようである。こうした明媚な風光は、当然その国民の美的感覚を養うものである。」と言っている。

 “もののあはれ”という審美の観念は、心にあるインスピレーションが感じ取るところを表すものであり、主に“一瞬の美”を強調している。それは、瞬く間に過ぎ去る瞬間の感銘の一つであり、その時に生じる微妙な情緒なのである。自分の心が感じ取るところを重視する日本人にとって、現実の物は単なるモノに過ぎず、特殊な環境の下で表れる美しい瞬間こそが永遠なのである。

 もののあはれ意識は、日本人の感情の世界に浸透していて、日本人の生活様式に影響し、この民族の心理的遺伝子の一部となっており、ここから道理を受け入れない極めて壮烈な行為が派生してくる−
山口百恵は、芸能人として最も光り輝き最も華やかな時期に決然と引退したし、芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫は、文学の最高峰を創作した時に自殺した。武宮正樹、大竹英雄などの棋士は、対局中に全軍が壊滅したとしても、“美しい指し方”を放棄しようとはしなかった…

 日本では津々浦々に“伊豆の踊子”像があるが、本物の“伊豆の踊子”(1990年代の初めまで生存とのこと)は、終生その姿を現さなかった。これは、彼女が人々の心にある踊り子のイメージを自らの老いた姿により損なうことを危惧したためである。

 “もののあはれ”の薫陶は、日本人の精神世界を変えた。もののあはれ意識は、日本で生まれたものであり、島国の特殊な地理的環境と非常に大きな関係がある。日本列島は、古来、霧に覆われることが多く、自然の風光が与える印象は、朦朧として移ろいやすいものである。雪山、砂浜、谷川、峡谷、温泉、滝、青々と茂る林、錦のような花々、橋がかかる小川、静かで趣のある庭園−これほど多くの美景が狭い地域に集中している国は、世界の中でも日本だけだろう。噴火、地震、大雪、津波、台風、戦乱−これほど多くの自然災害が日本のように古来頻発してきた国もない。長年に亘って日本人がいつも見てきた美しさは、束の間のものであり、鳥有に帰すものなのである。そうした全てのことから、素晴らしい事物は不安定なものであると、彼らは信じるようになったのである。そして仏教の伝来により、日本人はそうした認識をさらに強くしたのである。

 日本人の国民性の特徴として、彼らが残月やほころび始めた蕾や散る花びらをより深く愛するのは、そうしたものの中に哀れみを誘う情緒が潜んでいて、そのことで美感が増すと考えるからなのである。その無常の哀しさと美しさこそ、まさに日本人の“もののあはれ”の真髄なのである。

  “もののあはれ”は死生観の一つでもある。その主体は“一瞬の美”を求め、美しい瞬間に“永遠不変の静寂を求める”ことをいとわない。このため、生命の一瞬の煌めきを追究すること、これがもののあはれの重要な特質なのである。生活の中に浸透しているもののあはれこそ、大地震の悲しみから彼らを解放し、彼らが再び奮起して新しい生活を始める力になれるのかもしれない。
中国の若者が綴る“感知日本”−「作文コンクール」第6回優秀賞作品− B [2011年12月02日(Fri)]

土の下の尊厳


四川省 王珂旻

 昔から“大和魂”と称される桜が見守る下で、滑らかなそよ風が無名の墓のひとつひとつを優しく撫でていく。生花、ミネラルウォーター、そして故人の遺品、こうしたものは忠実な“臨時の墓碑”であり、埋葬された遺体がそこにあることを示している。この公共墓地の写真からは、悲しい影どころか、この地で起きたばかりのことを推測できる人すらいない。

 これは、“3.11東日本大地震”後の宮城県気仙沼市内の身元不明被災者を納めた臨時の共同墓地の一つである。4月24日現在、地元自治体が造成したこの臨時の共同墓地には既に205名もの被災者が埋葬されている。こうした臨時の共同墓地は、被害が深刻な他の被災地にもたくさんある。被災地周辺の火葬場が大量の被災者の遺体に対処できないため、日本政府は、伝染病の流行を防止するという目的で集団土葬を緊急決定した。日本においては、土葬廃止から既に長い年月が経過している。公式統計によると、2009年に死亡した日本人の99.9%は火葬されている。

 「一時的に埋葬しているだけであって、二年以内に遺体を掘り出して改めて火葬する。」東松島市環境課の相沢氏は取材に対してこのように答えた。こうした臨時埋葬用の穴は正式な土葬の半分ほどの深さである。遺体は全て、納棺師が一体ずつ心を込めて清めた後、最寄りの臨時墓地へと搬送されるのである。埋葬を担う自衛隊員たちは、日本の伝統である“北枕”を守って遺体の頭を北に向けて安置し、安置する度、整列して敬礼するのである。被災者の遺族は、棺の上に菊の花や線香を手向けて黙祷し、それからスコップで棺に土をかぶせるのだ。毎回数時間に及ぶ儀式のため、仏像を祀った香堂も特別に設置されたが、それらも“臨時埋葬”のためだけのものである。

 マーク・トウェインが『バック・ファンショーの葬儀』の中で書いているとおりである。「ある社会の構造を理解したいのなら、その葬儀を観察することだ。どういう人が最も立派な葬儀をしてもらえるのかを知るだけで、多少のことは分かると古代の人は言ったものだ。」葬儀は人生最後の旅路として、一人の人間の長い一生、或いは短い一生の収穫と期待を載せている。しかも、残された身内のために思いを伝える橋を架けるのである。俗世間的な意味における完結を通じて、ある種のこの上ない円満さに達するのだ。葬儀の礼儀は、早い時代から既に社会の文化の縮図となっており、ある種の儀式を代表するだけでなく、ある社会の人の尊厳に対する保護を表しているのだ。
この点から見ると、日本の大地震後の合同葬儀には火葬の過程こそないものの、自衛隊員の礼儀と現場における一連の儀式の過程は、一人一人の被災者の命に対する尊厳を具現化していると言える。

 日本映画には葬儀に関するシーンを含むものが多く、その中でも最も有名なのは、アカデミー賞外国語映画賞受賞作品『おくりびと』である。『おくりびと』は、作品全体の雰囲気に想像されるような死と関わる息詰まるものはなく、一貫してある種の静けさと安らぎに満ちている。この映画で最も印象に残ったシーンは、一家4人の老若の女性遺族が遺体の顔に赤く唇の跡をつけ、泣き笑いしながら感謝の言葉を口にするところである。この時の葬儀には伝統的な厳粛さ、連綿と続く悲しみの涙があるだけではなく、死者が身内と過ごす最後のひと時に家庭生活のような自然で温かい雰囲気が満ち溢れていた。

 筆者は日本で葬儀に参列したことはないが、近年の日本の葬祭業界で“死者の普通の生活の再現”を追究するホールが出始めたという話なら知っている。葬儀の形式的な煩わしい虚礼を排除して、それぞれの家柄によって家庭的な装飾、整ったきめ細やかなサービスを提供し、死者と遺族のために“恐れや嘆きがなく、互いに慰め祝福し合う”過程の雰囲気を醸し出して、死者の最後の旅路を生者に共有させるというものである。村上春樹は、日本人に高い評価を得ている『ノルウェイの森』の中で「死は生の対立面ではなく、生の一部分を永久に存在させるもの」という言葉で、死そのものに対する自分自身の理解、つまり生死同源を表現している。そして、概ねこれが、近年、日本の葬祭業が大胆な革新を行っている根拠なのだろう。

 中国の葬祭業は未だ整備段階にあるとは言え、経済発展に伴い、国家が重大災害における死者の尊厳を保護するという意識は日増しに強まっていることを容易に見て取ることはできる。汶川大地震から暫くして掘り出された遺体は、天気や伝染病などを理由に“消毒後、地中深く埋却“されたが、こうした対応は、被災者の遺族や友人達にとって感情的に受け入れ難いものであった。

 玉樹地震後、政府は“死者の尊厳を尊重し、少数民族の葬儀と埋葬の習慣を尊重する”ことを原則として、千人近い被災者の遺体のため、塔葬に次ぐ高級葬―集団火葬を行い、活き仏が数百人の僧侶を率いて死者の霊のため読経して済度した。こうしたことから、これら二度の地震において、死者の尊厳が重視されるようになってきたことは容易に見てとることができる。この点だけでも、充分喜ばしく慰めを感じることである。

 日本にいようと中国にいようと、被災者の遺体処理だろうと普通の人の葬儀だろうと、私達一人一人が分かっておかなければならないことがある。それは、生命が果てまで歩きついた時、葬儀という旅はまるで最後の回顧のようなものであること、一人の遺体が深く埋葬される時、沈黙するのは死去する者の外に存在する身体だけではなく、その人の長い一生、或いは短い一生の尊厳でもあるということである。



教育・研究図書有効活用プロジェクト室
中国の若者が綴る“感知日本 ”―「中国語の作文コンクール」第5回入賞作品― @ [2011年11月22日(Tue)]
中国の若者が綴る“感知日本 ”

―「中国語の作文コンクール」第5回入賞作品―


 日本科学協会と中国青年報社が共催している「笹川杯作文コンクール2011」(中国語版)については、2011年10月31日で作品の募集を締め切りました。

 4月の募集開始から約7ヶ月、中国の各地域、各年齢層、様々な背景を持つ多くの若者から8,410点の応募があり、今回紹介する10月分(第5回)の優秀賞を含めて既に15点の優秀賞が決定しています。第6回優秀賞で全ての優秀賞が出揃うこととなりますが、11月の優秀賞決定を待って全18点の作品を対象に最終審査を行い、最優秀賞6点を選出する予定です。

 今回は、9月30日までに応募のあった4,175点の作品の中から選出した10月分優秀賞4点(和訳)を掲載しますが、中国語の原文は、それぞれ10月1日(「良法助美徳養成」)、15日(「日本不欠教師節」)、22日(「妖怪文化与敬畏之心」)、29日(「福島之花」)の「中国青年報」webサイトでご覧いただけます。


(「中国青年報」紙2011年10月1日、15日、22日、29日)



良き法は、美徳を養う支えとなる

広東省  王暁霞

 中国の列車事故、リビアの動乱、欧米の金融危機といった事件が続々と起きる中、3月11日に日本で発生した強い地震と津波は記憶から薄れてきている。今でもぼんやり覚えているのは、日本人が災害に直面した際に見せた冷静さと強靭さくらいのものである。しかし、私は、数ヶ月したある日の報道によって再び日本に目を向けることとなった。警察庁が表した情報によると、3月11日から7月10日の間に岩手、宮城、福島の被災地で回収された金庫が5700個あり、その中にあった現金は23.67億円にも上るという。それらの金庫は災害現場を整理する際に拾得されたもので、このうち三県の警察が拾得したものは1,740個で、残りは市民や自衛隊員が拾得したものである。発表時点では、現金の96%、合計22.7億円が元の持ち主へ返された。

 この報道を見て、中国の一般人が真っ先に思い付く言葉は、“拾った金を隠匿しない”であろう。“拾った金を隠匿しない”というのは、中国の伝統的な道徳で求められていることなので、当然のことであり、少なくとも中国人の心の深いところにはずっと根付いているものである。しかし、筆者からすると、この件に関するニュースは“拾った金を隠匿しない”というタイトルを貼るだけのものではなく、現在の社会背景のもと日本で震災後に回収された金庫の数の多さ、金額の大きさ、そして元の持ち主に返される迅速さは、私達が考えるに値することのように思われた。

 三県の被災地で回収された金庫の約70%は、現地の市民と自衛隊員が拾って届け出たものであり、警察が拾得したものは僅か30%だけである。これと対応するように、金庫の中にあった現金のうち96%は既に元の持ち主へ返されている。これは、日本人の道徳水準がかなり高いレベルにあるということを示すものではなかろうか。だとすれば、彼らが大金の誘惑に打ち勝つことができた原因は何だったのだろうか。

 法律の仕事に携わる者として、日本人が欲張らずに隠しもしないことに関するエネルギーと理由を法律の原点から探ってみたい。日本では100年以上も昔に『遺失物法』が出されており、近年になって一部が改正された。この法律では、拾得物を届け出ない人は起訴される可能性があるが、自主的に届け出た人は、当該拾得物が元の持ち主に返された後に元の金額の5〜10%に相当する報酬を得ることができる。ただし、国庫またはその他の公的機関(警察など)は、報酬を請求することができない。また、同法では警察署を拾得物の届け出先機関としている。このほか、政府は、ネットにデータベースを公開して国民が遺失物を捜しやすいよう便宜を図っている。

 こうした事情を知れば、被災地で何千もの金庫が回収できたということも、もしかしたら驚くべきことではないのかもしれない。日本人にとって、“拾った金を隠匿しない”は、遵守せねばならない法律上の義務だからである。
しかし、日本人は、内心では“拾った金を隠匿しない”を遵守せねばならない法律上の義務としか思っていないのだろうか。

 法律というダモクレスの剣が掲げられているとは言え、人間の“欲望”は“貪欲”に発展しやすいものである。震災後の混乱の中、被災地の市民は、恐らく誰にも知られない状況で金庫を拾ってしまうことも完全に可能であり、自分の物にしてしまうことすら他人に知られずに済んだことであろう。しかし、事実として、絶対的大多数(百パーセントと断言はできないが)の人は私物化しなかったのである。このことから、日本人にとって、拾った金を隠匿しないことは、法律上の義務と誠実な美徳の完璧に統一であると理解すべきではなかろうか。この命題が成立することを証明する別のデータもある。新華社の報道によると、2004年の日本における遺失物は740万件で、届け出のあった拾得物は1070万件にも上り、これらの中には携帯電話33万台、財布73万個、現金132億円が含まれている。これらの物品は大部分が持ち主の元へ返されている。

 モンテスキューの言葉に、「法律は基本的な道徳であり、道徳は最高の法律である」という言葉がある。日本政府が『遺失物法』の精神から遺失物照会データベースを整備したため、震災後に何千個もの金庫が回収されたというニュースからより進んだ結論を得ることができた。良い法律は美徳の養成を促し、美徳が継続することを保証するのである。

 『遺失物法』が良い法律であるとする根拠の一つは、物神両面で二重の奨励手段をとっていることである。この法律が拾った金を隠匿しないという行為を肯定し、人を善良に教化する行為の促進作用を果たし、誠実や信用といった道徳への誘導を実現しているのだ。もう一つの根拠は、同法が道徳的な要求と法律規範との関係でうまくバランスをとっているということである。市井に溢れる小市民が、聖人のように振舞えるかは法律ひとつで簡単に決められるものだろうか。道徳は人々に高尚な品行の聖人であることを求めるが、法律は俗人のために決められた規則である。法律規範は、社会が容認できる俗人の悪行のボトムラインを示しているに過ぎない。『遺失物法』は法律の権利本位で、道徳の義務本位に置き換え当事者間で合理的に権利と義務を配分することで普通の人を対象とする法律に調整されている。一定の範囲内で利益を得る欲望を肯定しているのだ。拾得者には報酬の請求権と一定の条件下における取得権を与えるが、社会の構成員ひとりひとりが道徳の模範的水準により自らを拘束することは求めていない。同法の実行力を効果的に保証することにより、拾った金を隠匿しないという道徳を最大限に現実化しているのである。

 『遺失物法』は、公的機関に対して更に高い法律上の要求をしていて、報酬の権利を主張できないことになっている。これは公的機関の職責が公民の財産を保護するためのものであるからであり、こうしたケースで公的機関が報酬を享受してしまうと、公的機関の社会的趣旨が損なわれてしまうのである。従って、『遺失物法』では、そこに制限を加えることにより、社会の人々に更なる美徳を養う誘因作用を果たしているのだ。

 一つ一つの社会現象とその背後にある法律が映し出すものは、社会管理の知恵と水準である。調和社会のシステム構築の過程において、法律は不可欠なプロセスの一つである。良き法は、美徳を養う支えになる。これこそ、大災害が生じた日本が映し出してくれた、私達が学ぶに値する経験なのである。
中国の若者が綴る“感知日本 ”―「中国語の作文コンクール」第5回入賞作品― A [2011年11月22日(Tue)]

日本にも教師の日はある


湖南省 譚詠 

 9月10日は、中国の“教師の日”である。高校の国語教師である私は、この日を前にたくさんの生徒から祝福のショートメールや電話をもらい、思わず幸せな温かいものが心にこみ上げた。しかし、日本には”教師の日”はないと聞き、同業者として日本の先生方は辛いのではと感じた。まさか日本人は教師を尊重し、教育を重視するということを知らないのだろうか。

 こうした疑問は、日本へ行って氷解した。
 一昨年の7月、私の叔父が日本の早稲田大学での学術交流に招待されたのだが、良い機会なので、私も彼に付いて旅行に行った。私にとって、日本の自然風景は憧れなのだが、“旅行”となると、そればかりではない。日本の教育を体験し、心の中にある疑問を解決するというのも今回の旅行の重要な目的の一つだった。

 以前、大阪で山本恵子さんという先生に「日本では、何月何日が教師の日ですか。」と真顔で尋ねると、彼女は不思議そうな顔をしてから、日本には教師の日はないと教えてくれた。私は、耳を疑った。経済も文化も進んでいる国なのに、どうして教師のための祝日がないのだろうか。しかし、これで以前に聞いた話が間違いではなかったということが証明された。

 山本先生の自宅は学校からちょっと遠かったので、私たちは地下鉄でお宅に向かった。ちょうど退勤ラッシュの時間に差しかかっており、地下鉄は満員で、詰め込まれるように乗車してしばらく立っていると、近くにいたお年寄りが立ち上がって席を譲ってくれた。私の方が若いのに、お年寄りに席を譲ってもらうわけにはいかない。しばらく遠慮していたが、彼は頭を下げながら「どうぞ、どうぞ」と勧めてくれた。誤解されるといけないので、敬意を持って従うことにした。地下鉄を降りてから、あのお年寄りがわざわざ席を譲ってくれたのはなぜなのかと山本先生に尋ねると、彼女は笑いながら私の服についた校章を指さした。「あなたが先生だからですよ。」彼女のこうした説明を聞いて、私は教職の神聖さに熱い感情が自然に湧き起こってくるのを感じた。

 私が山本先生にプレゼントを買おうとしたら、彼女は断らず、ほど遠からぬ所に“教師の店“があり、自分が教師であることを証明できれば、全商品がそれぞれ割引きになると、私に教えてくれた。彼女が言うには、「日本の人々は教師を大事にするので、教師が自分のお店を愛用してくれることは、商売人にとっても、名誉の一つである。」とのこと。なるほど―日本には教師の日はないが、日本人は別の形で教師を敬っていたのだ。

 日本滞在中に見聞きしたことなのだが、日本では教師は“二高”、つまり、地位も収入も高い職種なのである。教師は医者、弁護士と並んで尊敬を集める職業で、30年も勤めた教師の月給は、3.3万元を超える。ふだん日本の教師はバスで出勤していて、胸にIDカードを着用しているが、他の乗客はそれを見ると席を譲るのである。日本では地下鉄に教師の席、街に教師の店があり、教師は並ばずに乗車券を買うことができるのだ。公的機関から物品の配給を受ける時でも、教師が優先なのである。

 日本人からすると、教師は社会のために巨大な犠牲を払う職業なので、この上なく神聖なものなのである。
 神戸市である高校を見学した時、学校としては、教師の優劣をどのように査定しているのかと、私が校長先生に質問すると、そうした問題に遭遇したことがないので、答えようがないとのことだった。中国の学校では、学校の教師に対する査定、校長の教員に対する評価が、教員個人にとってかなり重要なものであることを、教師である私は十分に承知している。

 日本の学校では、放課後に校門まで迎えに来る父兄の姿は一人も見受けられなかった。子供達も親が迎えに来るという発想はないようであった。しかし、中国では、多くの学校で「ご父兄は、ご遠慮ください」といった警告表示が立ててあっても、放課後には早くから人がごった返し、道路も渋滞する。日本では、児童達の交通安全を守る民間組織“PTA”というものがある。この組織は自発的ながら義務的なものであり、そのメンバーが定期的に安全当番を担当し、児童達の登下校時になると、通学路の要所で児童達を見守るのだ。

 日本における教育の様々な手法や社会の教育に対する理解と協力は、私達が考え参考とするに値するものである。こうしたことから考えが及んだのだが、日本の人々が大地震、津波、放射性物質の拡散という大災害に直面した時の冷静さ、秩序、強靭さは、日本の国民教育と緊密に関係しているのである。

 短い日本旅行ではあったが、日本人に言いたいことは思い浮かんだ。日本には教師の日こそないが、日本人は非常に教師を敬っていて、しかも、それを実行しているのだ。日本は教師の日を欠いているのではなく、毎日が教師の日なのだと言えるだろう。
中国の若者が綴る“感知日本 ”―「中国語の作文コンクール」第5回入賞作品― B [2011年11月22日(Tue)]

妖怪文化と畏敬の心


海南省 李芯儀

 小さい頃、私は、両親が残業のため、家で独りぼっちになることがあったが、あの孤独な夜は得も言われぬ怖さだった。上の階から玉の落ちるようなトントンという音が絶えず聞こえてきて、私は心臓を叩かれるような感じがした。偶然めくれ上がったカーテンの向こうが青紫色の光に照らされ、ぞっとする眺めだった。

 真夏の夜なのに、私は押し入れから綿布団を出してきて、きっちりとくるまったものである。分厚くて重たい布団で汗だくになれば、妄想の中の“怪物”を遠ざけることができそうな気がしたからである。こうして思い出してみると可笑しいのだが、子供の頃は、未知の事物に対して恐れや憧れの入混じった緊張をするものであるし、その感情は成長しても完全に消えるものではないのだ。すっかり大人になったと自認する今でも、あの頃と似た闇夜になると、まだ「そもそも妖怪なんていない」と自分に言い聞かせつつも、奇跡が起こるのを期待してしまうことがある。夜のとばりを切り裂いて、誰かが天から降り立ち、怪しいながらも怖くはない笑顔で、全てが単なる妄想ではないのだと告げてくれはしないかと待ち望んでしまうのである。

 大学では日本語を学んだのだが、先生に「日本の何が一番好きか」と聞かれた時には、私は迷わず「妖怪文化」と答えた。あるクラスメイトには「とても奇怪」と言われたが、却って私は本当のことを言えるのは愉快だと感じたものである。私は、以前から様々な神霊伝説の類が異常に好きだったし、“八百万の神”がいると言われる日本は、疑いなく世界で最も神霊文化の豊かな国なのである。こうしたことは、私が日本に触れ日本を深く理解したいと渇望するようになったきっかけの一つでもある。

 魔獣が一貫して邪悪なイメージである欧米と違って、日本の妖怪の世界は、正邪がそれほど明確には分かれていない。人の命を奪う悪霊もいれば、無害だったり、時々いたずらするだけだったりの妖怪もいる。人と殆ど関わらずに善悪の境界線を漂って、人間社会の影の中で悠然と暮らしている妖怪はさらに多い。聞くところによると、日本の妖怪の多くは、中国にその原型を見出すことができるそうだが、今や中国には、妖怪文化が育つ土壌は無くなっていて、ホラー映画では人食い幽霊や多情な女の霊といったものが見られるものの、古い神話の妖怪が暮らしの中で言及されることは殆どない。

 しかし、日本では、妖怪を題材とする小説、漫画、映画が次々と出てきて、妖怪文化を専門的に研究する学科や学者も増え、目も眩むほど様々な妖怪が人々の日常生活を彩り、不思議で面白い姿を度々見せてくれ、人間臭くて活発で可愛い妖怪が現れることさえあるのだ。日本の妖怪の大多数は人々に嫌われることなど決してなく、むしろ好かれているのだが、これは概ねこうした事情のためなのだろう。そして、私も、世界各地に存在する日本の妖怪ファンのひとりなのである。

 『日本妖怪大全』を買ったばかりの頃、私は、いつも寝る前にそのページをめくっていた。何ページか読んで満足してから眠りに就いて、自分が想像する妖怪達と夢の中で出会ったものである。私がずっと抱いていた幻想では、真夜中に人間が現実社会全体を覆う巨大な翼をたたみ、夢の中で最も原始的な自我に返る時、別の世界からの客人が気泡のように地面の裂け目から現れるのである。彼らは美しい彩りの身体や透明な身体を持ち、人の姿をした者や動物に似た者がおり、物や精神に化け、霧のように変幻自在な姿をとれる者もいる。美麗かつ奇怪、神秘的でオープンな彼らは、最も深い闇夜の中で無数の華麗な伝記を展開するのだ。

 妖怪を研究する学者達によると、日本の妖怪文化が異常なほど豊かなのは、日本人が島国に暮らしていることによる不安と密接な関連があるという。日本では自然災害が多発するため、人々は自然が持つ力に対してより深刻で複雑な感情を抱いている。この複雑な感情を的確に総括することができるのは、おおよそ“畏敬”の二文字に限られるだろう。こうした畏敬の心こそ、鬼神に関わる伝説を日本に広く伝播させ、唯一無二の“妖怪文化”を作り上げたものでもある。妖怪の世界は人間界の投影であり、多くの人々が妖怪を好み研究するが、これは決して盲信からではなく、こうした独特で奇怪な想像を通して、人間自身が思想の深くに隠している心理を窺い知りたいと思っているからである。

 今年3月に日本で大地震が発生してから瞬く間に半年余りが過ぎた。あの地震を思い出す度、日本に住むある中国人が書いた、地震後の心痛む細かなことが胸をよぎる。いつ来てもおかしくない余震に備え、人々はいつも寝る前にホイッスル、懐中電灯、ミネラルウォーター、保存食を枕元に置いていたという。万一、地震が来て避難できなくても、こうした物があれば、生き延びられる可能性が高まるからとのことだ。この話を聞いて、私の心の中には敬服と悲哀の感情が同時に湧き上がった。痛みを味わっても依然として勇敢さを失っていないこれらの人々は、屈することなく予期できぬ苦難に絶えず立ち向かい、死中に活を得るのである。この絶体絶命の中での冷静さ、そして、それでもどうしようもない状況は、共に私の心を深く揺さぶった。

 広い世の中のちっぽけな生命として、人が、世界に対する畏敬の心を終生持ち続けることができるのなら、それは貴く感心に値することなのである。心にいつも畏敬を抱いている人は、自分の足りないところをより意識することができ、豊かな心を持って、悲しみと哀れみを理解し、自省すること、寛大に許すこと、大切にすることを理解するのである。日本の彩り豊かで美しい妖怪文化は、人々の万事万物に対する畏敬の心が特殊な形で現れたもののひとつかもしれない。そこには日本国民の強靱な意志と軽妙さやロマンを忘れない心持ちが示されている。同時に、長い間衰えることのない妖怪文化も、自然と生命に対して畏敬を決して忘れないよう人々の注意を喚起している。

 現代の社会生活のリズムが日増しに加速しているため、妖怪伝説は次第に人々の生活からフェードアウトするかもしれないと言う人もいる。しかし、もし都市の喧噪が静まりかえった暗闇に残る最後の神秘的な息吹を本当に消してしまったら、私たちは、科学技術の発展と文化の進歩に喜びを感じると同時に、かけがえのない多くの物語を失ったことに残念な気持ちを覚えることだろう。つまり、妖怪に驚いて布団に逃げ込んだことがない子供の少年時代は、きっと楽しみも幾分少なかっただろうということである。
中国の若者が綴る“感知日本 ”―「中国語の作文コンクール」第5回入賞作品― C [2011年11月22日(Tue)]

福島の花


四川省 周夢娜

 1844年、福島の地に一人の偉大な女性が誕生した。彼女は、“幕末のジャンヌ・ダルク”や“日本のナイチンゲール”と称えられる、同志社大学の母、新島八重である。

 八重は、会津藩の砲術師範、山本権八の娘で、幼少から女性の手仕事より銃器に興味を持っていた。戊辰戦争では、スペンサー銃を携え、500人の女子と共に会津若松城の防衛戦に参与し、そのため、“幕末のジャンヌ・ダルク”と称されている。明治の中頃には、彼女は“日本初の看護士”という身分で従軍し、“日本のナイチンゲール”と呼ばれた。戦後、八重ら女性看護士16名は、皇族以外の女性として初めて褒賞を受賞したが、女性の能力がおしなべて低いと見られていた時代にあっては、こうしたことは画期的なことであり、女性が社会に踏み出す第一歩となった。

 八重は勇敢で強い女性であったが、より感銘を受けるのは、世俗に揺らぐことのない堅固な心を持っていたことである。戊辰戦争の前に八重は但馬出石藩校教授の川崎尚之助と結婚していたが、若松城の防衛戦が始まる前、人妻である八重は封建社会の男女の秩序に公然と挑み、自ら夫に離婚を切り出したのである。1876年、彼女は“明治時代の六大教育家”の一人、同志社英学校の創始者である新島襄に嫁いだ。封建文化に囲まれた生活環境も彼女の男女平等の願いを打ち消すことはなく、彼女は敬語を使わなかったばかりか、夫を“ジョウ”と呼び、 “奇妙な関係”という周囲から夫妻に向けられた批判の目も気に留めることはなかった。彼女は、世間の人々に“日本初の悪妻”とさえ呼ばれた。それでも彼女は毅然とした態度で、自分の生きる道をしっかり歩み続けていくことに執着し、ついには優秀な教育家、西洋学者、茶道家との名声を残したのである。

 女傑、新島八重は、福島の地に咲いた奇跡の花である。一世紀以上が過ぎたが、今の日本においても、彼女の勇敢さ、強さ、世俗に揺らぐことのない堅固な心は重要なものである。“3.11”大地震と原子力事故を経験した福島の被災者にとって、身内を失った痛みは時間が癒してくれても、新しい郷土は自分の両手をまめに使って再建できても、様々な俗世間からの目は自分の努力では変えることができない。

 深刻な被災地である宮城県、岩手県と比べても、福島県は、地震と津波による生命や財産の損失を克服しなければならないだけでなく、原子力発電所の事故による巨大な傷をも負っているのである。福島の被災者は多いが、その大多数は原子力発電所周辺の住民で、“放射能難民”のレッテルのために、彼らの避難生活は他の人々より多くの辛酸と無力感に見舞われているのだ。日本列島全域で、多くの国民が“放射能と聞くと、顔色を変え”、福島の被災者は心ない言動の直接の被害者にもなってしまうのである。報道によると、3月中旬、福島県南相馬市から船橋市に避難していた小学生の兄弟二人が、公園で遊んでいた時、現地の子供が“地方の訛り”を耳にして、出身地はどこだと聞きに集まってきたという。兄弟が”福島”と答えたのを聞くと、その子供達は声を上げて逃げ出した。そして、逃げながら”放射能注意”と口にしていたという。兄弟は泣きじゃくりながら、一家が身を寄せる親戚の家に帰ったのである。両親はその理由を聞いて大変心を痛め、福島市での避難生活に戻ると決めたのだ。

 厚生労働省が報道機関へ提供した情報によると、他県の旅館が放射性物質検査安全証明書を提示できない福島県人の宿泊を拒否したり、タクシーが福島県人の乗車拒否をしたり、葬儀会社が福島県の地震や津波の犠牲者の遺体を受け付けないというケースまであったという。西日本にある岡山県では、賃料の安い住宅に入居申請した福島県人が様々な口実で拒否されたのである。”放射能難民”をもっと傷つけたことは、福島県内の一部の地域でも差別を受けたことである。現地の新聞によると、福島市に避難している南相馬市の女子児童が、福島市の病院で皮膚病の診察を受けようとしたところ、”安全証明書”がないことを理由に拒否されたという。ニュースでは、医療関係者は常人よりも理知的に放射能問題を扱うべきであると続いていた。人だけでなく、農産物、水産物、福島県のごみまでが“差別”を受けているのである。神奈川県川崎市の市長が福島県を訪問した際、地震と津波による廃墟のごみ処理を手伝おうと好意で提案した。しかし、僅か数日間で、川崎市役所のごみ処理計画課は2000本以上の反対電話を受けたという。

 こうした差別や流言飛語と向き合うには、政府が最前に立って人心をなだめ、核問題の専門家と医学専門家が関連知識の普及に努める必要があるし、福島の被災者については、自分自身の心の強さがより重要なのである。福島の女傑、新島八重が身をもって示した勇敢さ、強さ、世俗に揺らぐことのない堅固な心こそ、まさに今の福島県人が必要とするものなのである。−たとえ外界からあれこれ誤解されても、人々が生活する勇気を失うことなどあり得ない。時が流れて正しい科学知識が広まるにつれ、こうした偏見を抱く人達も、次第に口を噤んでくるだろう。それまでの間、まずは強く生きて欲しいのだ。たとえ他人の考え方を変えられないとしても、自らの生活態度と世界の見方は変えることができる。一時的には冷たい眼差しも、災害への恐怖と無知から来るものなのであり、全ては素晴らしい生活が到来するまでの試練と見なすことができる。

 心の強さとは、まさに全ての事物を包容して征服できる偉大な力なのである。八重は、あの時代、男尊女卑の巨大な圧力のもと、動じることなく堂々と、勇敢にしっかりと自らの生きる道を歩み続けたのだ。彼女は一介の女性でありながら、自らの力だけで、強大な現実と頑強に立ち向かい、そして最終的には社会からの承認を獲得したのである。100年以上も経った今、再び福島県人はよく似た困難に直面している。しかし、今の彼らは独立独行で戦っているわけではない。結局のところ、人類の善良な本性から来る温もりと支えがまだ主流なのである。だからなお更、福島県人が勇気を失う理由はなく、八重が成し遂げられたことは、彼らも同じように成し遂げられるのである。

 誰よりも早く帽子を被り、革靴を履いて、ゆったりと優雅に街頭を散歩していた八重、その常に旧習と相容れない姿は梅の花に喩えられ、俳句にも詠まれた。「世の中の 春に先立つ 梅の初花」八重の強靭さと粘り強さに根源を持つ、きらきらと美しい福島の花が、再びこの地上で満開になることを願っている。


教育・研究図書有効活用プロジェクト室
1人でも多くの“知日派”育成のために−中国で知識大会を開催− [2011年11月07日(Mon)]
1人でも多くの“知日派”育成のために

−中国で知識大会を開催−



 日本科学協会は、2011年10月29日(土)、30日(日)の両日、中国の南京大学で「笹川杯全国大学日本知識大会」を開催しました。中国全土の29大学(選手:87名)が参加して白熱線が繰り広げられ、団体戦では蘇州大学、個人戦では洛陽大学の栗碩さんが優勝を獲得しました。

 この大会は、「笹川杯日本知識クイズ大会」として、日本科学協会が2004年度から中国の大学の日本語学習者を対象に実施している人材育成事業で、目的は、日本への理解や関心を深めること、日本語学習のモチベーションを高めること、日本語学習者間の交流を深めることです。

 2004年の立上げ以来、“知日派”の育成をキーワードに地域レベルの大会を毎年開催し、2010年度までの参加大学は延べ193大学、参加選手は579名に上りますが、日本に関する知識や語学力を検証する場として、この大会は、現地の日本語学習者に広く認知されており、日本語能力検定試験とともに日本語学習の目標の1つになっています。

 国と国との関係をより良くするには、まず“自分の国を知ってもらうこと”という観点から、1人でも多くの“知日派”を育成するため、2011年度は開催規模を地域レベルから全国レベルに格上げして参加者のすそ野を広げ、併せて大会名も「笹川杯全国大学日本知識大会」と改称したものです。

 個人戦優勝の栗碩さんも、大会後のインタビューでは
 “中日両国の間には、歴史的な問題もあるし、去年の尖閣諸島のような現実的な問題も存在している。だからこそ、両国はもっともっと交流して、お互いを理解する必要がある。我々日本語の学習者としても、日本語だけではなく日本という国を全面的に理解すべきだ―”
と日本を知ることの重要性を語ってくれました。

≪大会結果≫
                            
★団体戦  優 勝  蘇州大学
        2 位   四川外国語学院
        3 位  南京大学
★個人戦  優 勝  栗碩(洛陽大学) 
         2 位  杜威凡(南京大学)、張笑笑(山東大学)
        3 位  蘇頴爽(上海海事大学)、蒋青青(黒龍江大学)、王玉玲(揚州大学)
  ※団体戦上位3チーム(選手9名)と個人戦上位6名については、来年2月頃に日本に招聘する予定です。

≪大会問題(翻訳版)≫

※出題・回答とも、中国語で行われました。

★問題
1.2009年、エルサレム賞で話題の受賞スピーチ「Always on the side of the egg」を発表した作家は、誰か。
2. 皇室関係の国家事務、天皇の国事行為にあたる事務を司る日本行政機関は、何というか。
3.戦後日本国憲法によって制定された『学校教育法』が公布されたのは、いつ。
4.江戸時代、幕府が大名統制のために一定期間、諸大名を江戸に出仕させる制度は、何というか。
5.1945年、太平洋戦争の末期、アメリカが広島と長崎に原子爆弾を投下したのは、何月か。
6.日本の人気女性アイドルグループAKB48の「AKB」は、何の略称か。

★回答
1. 村上春樹、2. 宮内庁、3.1947年、4.参勤交代、5.8月、6.秋葉原



370名の観客が詰めかけた「大会」会場



“もっと日本を知って欲しい”と日本科学協会大島美恵子会長




“笹川杯”を抱く蘇州大学チーム




個人戦優勝の洛陽大学 栗碩さん



教育・研究図書有効活用プロジェクト室