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中国の若者が“生の日本”を実体験―「日本知識クイズ大会」、「作文コンクール」優勝者が来日― [2010年02月08日(月)]
中国の若者が“生の日本”を実体験

―「日本知識クイズ大会」、「作文コンクール」優勝者が来日―


 日本科学協会は、「笹川杯日本知識クイズ大会・作文コンクール2009」日本招聘を2010年1月24日から1月31日まで8日間の日程で実施しました。

 この招聘は、当財団が中国で開催した「クイズ大会」と「作文コンクール」の優勝者等合計29名を対象に実施したもので、目的は、日本理解を深めること、日中の若者の相互理解を深めること、友好精神を涵養することです。
 訪日団員は、東京、大阪、京都、広島と各地域を巡り、訪問見学、人的交流、文化体験などを通して“生の日本”を自ら体験することによって、多角的に日本を理解すると同時に友好の絆も深めたようです。

 このプログラムには「東京財団日本語作文コンクール」優秀者2名も参加したため、日中の2国間交流は、“日本理解”、“日本語”、“国際交流”をキーワードに、日本、中国、オーストラリア、ニュージーランドの多国間交流となりました。

☆ 訪問見学等
  東京ではANA機体整備工場、国会議事堂、市街地などを見学し、日本の企業や政治、社会などに対する理解を深めました。また、日本財団の笹川陽平会長を表敬訪問し、“親日派にならなくとも、知日派になって”とのメッセージ、そして、就職難など将来に向かって厳しい状況に直面している中国の大学の4年生に対しては“努力していれば、必ずチャンスはやってくる”との励ましを笹川会長からいただきました。

 広島では、原爆ドーム、平和記念資料館を見学し、被爆2世が語る原爆被害の悲惨さ、恐ろしさに衝撃を受け、世界平和の大切さを実感していました。また、厳島神社は、日本三景の1つとして「日本知識クイズ大会」の定番問題ですが、海の青さに映える朱色の大鳥居に日本の景勝地の趣を実感していました。
 京都では金閣寺、清水寺を見学しましたが、清水寺では“清水の舞台から飛び降りる”心境を実感しようと、舞台から下を覗き見る姿も多々見られました。


日本財団・笹川会長、日本科学協会・大島会長、東京財団・松信常務とともに(日本財団)




安全運航を支える整備システムを理解(ANA機体整備工場)




被爆2世の話に耳を傾ける訪日団員(爆心地「島外科病院前」前)



☆日本の大学生等との交流
 日、中、豪、新の若者が同じ目的のもと“行動を共にし、本音で意見を交換することにより、互いに理解し、真の友情を育む”という趣旨で、それぞれ東京と京都で交流活動を行いました。

 東京では、東京大学国際交流サークル「茶柱」を中心に日本の6つ大学(東京大学、日本女子大学、早稲田大学、青山学院大学、聖心女子大学、共立女子大学)の有志学生合計11名と訪日団員が、6つのテーマに沿ってグループに分かれ、東京、横浜の様々な場所を見学しながら交流し、交流終了後には、東京大学駒場キャンパスの学生食堂で「交流報告会」を開催しました。
<6つのテーマ>
  ・日本経済・政治の中心を知る
  ・古き良き東京の情緒を味わう
  ・東京の古さと新しさを知る
  ・若者の街-東京を知るしさを体験
  ・東京のユニークな面を知る
  ・横浜を知る



テーマ「古き良き東京の情緒を味わう」による交流




交流報告をするグループ代表(東京大学「学生食堂」)
中国の若者が“生の日本”を実体験―「日本知識クイズ大会」、「作文コンクール」優勝者が来日―A [2010年02月08日(月)]

 京都では、立命館孔子学院(主に中国語や中国文化を学ぶ、社会人が多い)と立命館大学の有志学生の案内で金閣寺、清水寺を見学しながら、日本語で或いは中国語で、日本理解や中国理解、そして、友好を深めました。



           日中交流、日本語・中国語を実践するチャンス(清水寺)


☆文化体験
  日本に関心のある人なら誰でも知識としては知っているものの、その実を知る人は少ないというものが日本には多々あります。茶道とお好み焼きもそれにあたり、そこで、東京では、裏千家師範の中島温恵先生にご指導いただき茶道を、広島では自ら作って味わうことによりをお好み焼きを実地体験することにより、日本の伝統文化と庶民の食文化を理解してもらいました。



茶道文化を伝える中島師範(東京)




庶民の食文化を実体験(広島)



教育・研究図書有効活用プロジェクト室


中国の若者が綴る“感知日本 ”―中国語の「作文コンクール」一等賞決定―@ [2009年12月15日(火)]

中国の若者が綴る“感知日本 ”―中国語の「作文コンクール」一等賞決定―


 日本科学協会が中国青年報社とともに実施している「笹川杯作文コンクール2009」(中国語版)については、既に優秀賞18点が全て決定しています。これらの作品を対象に最終審査を行った結果、この度、一等賞6点と二等賞12点が決定しましたので、一等賞作品をまとめて紹介します。

 一等賞者6名については、日本語の「笹川杯作文コンクール」優勝者2名とともに、副賞として2010年1月24日から8日間の日程で日本に招聘する予定です。ほぼ全ての受賞者にとって、この招聘が初めての来日であり、中国で抱いていた“感知日本”と日本で実感した“感知日本”との差異については、興味が惹かれるところです。

★一等賞受賞者



★一等賞作品

「人生を変えたアニメのワンシーン」

上海市 叶珠峰

 数年前のあの日、孔子廟の日本アニメコーナーでCDをあさっていた時、店内のテレビで『スラムダンク』が放送されており、私は思わず足を止めて眺めた。まさか自分の人生を変えるシーンに出会うとは思ってもいなかった。
 “俺は自分が言ったことを曲げない男、三井寿だからだ!”
 “もう二度と喧嘩はしないとコーチに誓ったんだ。…もう喧嘩はしないぞ!!!”
 “なぜ、… どうして、俺はこんなに多くの時間を浪費してしまったんだ。…” “俺はやるぞ!歯が欠けていても!”
 哀感に満ちたBGM「世界が終わるまでは…“が流れる中、三井寿が安西コーチの前に跪き“もう一度バスケがしたい。」と言う場面を目にして、私はさめざめと涙を流した。
 三井寿は、日本の漫画家・井上雄彦の漫画『スラムダンク』の登場人物である。中国の“80年代”以降の人なら、きっと誰でもこのバイブル的なアニメを見たことがあり、この作品からバスケットボールを好きになった人も多いはずである。私が好感を持っている三井寿には、主人公である桜木花道の尊大さや愚劣さがなく、ナンバー2である流川楓のように垢抜けて洒落たところもないが、彼は正直で果敢であり、欠点を改める勇気があり、強烈な責任感を持つバスケットボール選手であって、再生を果たした男なのである。

 私は漫画のあらすじを余り述べたくはないが、三井寿の成長の軌跡を大まかに紹介したい。
三井は高校生の素晴らしいバスケットボール選手で、チームから大いに期待されていた。しかし、ある激しい練習試合で事故に遭い、左膝を負傷して入院治療を余儀なくされる。回復には長い時間がかかり、彼はひどい挫折感と苦痛を味わった。強烈な自尊心と名誉を失った落差感に心を痛めた彼は、バスケットボールに泣く泣く別れを告げる。その後、自暴自棄になり堕落し、不良少年になってしまった。ある暴力沙汰の中で、三井は昔のチームメイトに遠い記憶を呼び起された。最終的には、自尊心も強情さもかつての恩師・安西コーチの前では脆くも崩れ去り、三井は地面に跪き泣きながらもう一度バスケットボールがしたいと本音を漏らしたのだ。それから彼は長髪をばっさり切って自惚れと傲慢な態度を改め、暫らく振りにコートに戻ると、直ぐにチームの主力に成長した。

 私は読書家の家庭に生まれた。両親が首尾よく育ててくれたおかげで、私の人生の序章は光り輝いていた。成績はずば抜けて良く、美術に長け、文学とスポーツを心から愛するようになっていた。
 しかし、私が高校に進学した時、全てが変わってしまった。あの青春の日々は異常なほど反抗的だった。私は三井と同じように、血気盛んで気が短く、他人を眼中に置かなかったため、取るに足りないことで他人と不要な口論や衝突をしてしまうこともあった。もしかしたら、高校時代のクラスメイトが優秀すぎたため、成績のランキングが下がったという落差感から自分を卑下する心理が生まれ、自暴自棄になってしまっていたのかもしれない。深い考えもなしに多くの不良少年と付き合っていたため、私は学生にあるまじき長髪をしており、義侠心から何度となく集団で喧嘩をしては多くのトラブルを招いていた。あの一時期は、振り返るに忍びない経歴である。

 幸運なことに、私が泥沼に深くはまり込んで自力では抜け出せないでいた時、命の恩人に出会った。―三井寿、その恩人とは君だった。
 長髪を振り乱し、前歯が二本も折れた状態で体育館の喧嘩に踏み込む君の姿を初めて見た時、私の中で君は偶像となったのだ。当時、私は、君を魅力的で喧嘩が強い馬鹿としか感じておらず、君がバスケットボールチームの人を痛打するのを見ては、心の中で喝采していた。しかし、友達思いのチームメイトによって、君が輝かしくも痛ましい過去を少しずつ思い起こさせられた時、安西コーチの前で声にならない声で「もう一度バスケがしたい」と言った時、私の心も震え、強烈に自分を責めだしたのだ。「なぜ…どうして僕はこんなに多くの時間を浪費してしまったんだ…」その時から尊敬の念に打たれはじめた。自身さえ予測していなかったのだが、最終的に私は君のことが無茶苦茶好きになり、君を人生の模範とするようになったのだ。

 私は改めて自分をじっくり見つめ始めた。私の高校時代は、果たしてこんな無知蒙昧に過ごすしかないのか? 高校の1、2年を“世間をなめて不遜”な態度で過ごしたため、私は理想の大学に合格することができなかった。今、改めて考えてみても、私は後悔していない。たとえ回り道でも、これは私自身の選択であり、溝は自分で埋めるべきである。また、最後まで自分に対する責任を負うことができるのは、自分だけなのである。喜ばしいのは、三井と同じように、私達もそれから正しい道に戻れたことである。あの振り返るに忍びない経歴については、神が与えたもうた試練だったのだろう。

 私は三井寿の過去と“現在”に対して共感している。私も彼も、人生の序章は輝かしく誇らしいものだった。それから“不良少年”の経歴もあり、“人生経験も豊富”である。そして、私たちには、再び帆を揚げて出航する願望と努力があった。きっと、このような経験をしたことがある人なら誰でも、私や三井のように再び自分を奮起させることができるのではないだろう。重要なのは、世間をなめて勝手気ままに振舞っていた裏側に、強靭で善良な心を隠していたことである。自分と似た三井の経歴に感嘆し、彼のため、いやそれ以上に自分のために私は涙を流した。彼が私の精神的成長の描写であり縮図であったからだ。
 三井よ、君は私の心の英雄だ。私が挫折や困難に遭遇する度、君のその身から放たれる日本式の志を励ます精神は、いつも君の再生後の言動の一つ一つを思い出させてくれる。 作品の中で、三井は最後には真の成熟した男になっている。同様に私も謹厳で落ち着いた素晴らしい男になることができると固く信じている。
中国の若者が綴る“感知日本 ”―中国語の「作文コンクール」一等賞決定―A [2009年12月15日(火)]

「日本語を学ぶ農民」

浙江省 崔海波

 初夏のある晩、私は鄞西の友人宅を訪ねた。ふと、隣家の戸の隙間から朗々と本を読む声が漂ってきて、更に耳を澄ましてみると、ああ、やはり外国語だ。そこで、好奇心に駆られ近づいてみた。近所の二階にある大きくもない書斎に、中年と青年の農民が十人ぐらい整然と坐っているだけだった。街から来てもらった先生に習って真面目に“わいわい、がやがや”と日本語を学んでいるところだった。ああ、自発的に集まった家庭での日本語養成教室だったのか。

 日本語養成教室の発起人兼リーダーは朱さんで、学習者の多くは現地の大手イグサ栽培農家とイグサ加工企業の管理職だった。鄞州は「中国イグサの里」で、鄞州の西郷全域がイグサの主産地である。イグサ製品は主に日本で販売されるので、イグサを商う人にとって日本語は必修科目になっているのだ。
 イグサはゴザ草、燈芯草とも呼ばれ、莚を作るための上等な原料である。遠く南宋初期、既に当地ではイグサを栽培して筵を作る産業が非常に盛んに行われていた。高橋の大勝の物語が今なお鄞州の西郷に広く伝わっている。南宋の初めの年、金国の軍が南へ侵攻し、宋の高宗趙構は寧波まで命からがら逃げたが、金国の騎兵はやはり徹底的に追いつめた。鄞州の西、高橋一帯では、当地の農民が金国の騎兵に対処する田舎くさい方法を考え出した。金国の騎兵が必ず通る経路上になめらかな筵を敷いたのだ。宋の高宗趙構を追って金の騎馬隊が莚の道に足を踏み入れると、軍馬が相次いで足元を狂わせ、てんやわんやの大騒ぎになり、戦わずして負けた。

 それから千百年来、鄞西の農民が植えてきたのは全て当地の草で、草製品は主に莚、帽子、扇子、敷物などだった。イグサ製品は香りが良く、適度に硬さがあり、弾性に富み、引張りにも強い。中でも白麻筋の莚が最も有名である。「各家に織機があり、どこでも帽子を編んでいる」というのが、鄞西一帯で草製品加工業がもっとも盛んだったときを確実に表現している。1954年、周恩来総理がジュネーブで開催された国際平和会議に出席した際、四十枚の白麻筋の莚を持参し国礼として各国の友人に贈り、広く称賛を受けたことが美談となっている。半世紀が過ぎたが、この件に話が及ぶたび、鄞西のイグサ農家は隠しきれぬ誇りを顔に浮かべるのだ。

 1978年、832株の日本イグサが「中日友好の草」として鄞州に入ってきた。その時に集仕港の人民公社売面橋大隊が試験的に植えて以来、その生産高は当地の草を上回っている。しかも細くて軟らかく、長くてしなやかな特徴があるため、徐々に当地の草と取って代わり全域に広まっていった。イグサで編んだ畳を日本に売った効果と利益は見るに値する。改革開放の時期に、一部のイグサ農家は先を見越して自ら編機を買い入れ、量産した畳の輸出による外貨獲得で、真っ先に裕福になる模範となった。
 朱さんは生まれも育ちも鄞西の人で、祖先は全てイグサの栽培で生計を立ててきた。改革開放の初めは彼も市場の挑戦に組みついて闘った一人で、資金をかき集めて何台もの編機を買い、細々とやっていた莚製品の生産を次第に発達させた。しかし、輸出商品の生産には三日にあげず外国商人とつきあうことが避けられない。日本語が分からなかったために、「こんにちは」、「おかけになってください」といった簡単な日常会話すら通訳を必要としていた。そこで、人について日本語を学ぼうという思いが朱さんに芽生えたのだ。

 彼はわざわざ寧波の街区から日本語の先生に来てもらい、何人か当地のイグサ業者に連絡を取って、鄞州で初めての日本語養成教室を始めた。学習者たちは学びながら使い、しばらく勉学にいそしむことを経て、一応は基本的な日本語の会話が分かるようになり、日本語を操って日本の業者と話せるようになりだした。初めて日本語を使って、遠路はるばるやって来た日本の客人に挨拶したとき。その光景を思い出すと、朱さんは爽やかに感じるのだそうだ。「私が日本語で客人に挨拶をし、歓迎の意志を伝えたとき、相手は初めはぎょっとして、続いて喜んで拍手しはじめた。あのときの協業はとても楽しかったので、互いに深く印象に残っている。」
 数日前、私は実際に朱さんの工場を見学し、日本のビジネスマンの畳生産ライン視察に彼が同伴しているのを目にした。しかも、慣れた日本語で客人に工場内の状況を紹介している。ちょっと前まで黄土と向き合い空に背を向けていたイグサ農家が、今や換骨奪胎して「外国語」を話せる起業家になっているのだ。

 朱さんによると、彼の工場は今年、平均して毎日コンテナ一杯の畳を出荷しているが、まだ需要に追いつかないのだという。客先の注文数を満たすため、一部の業務を他者に譲る必要があるそうだ。驚いたことに、取引先に付き添って自分の工場を見学し終わるなり、彼は、また慌ただしくよその工場へ視察に行った。原料の品質を確保するため、彼は近くの村の農民から500畆の土地を借りて質の優れたイグサの栽培拠点としている。農業、工業、貿易を一貫させた生産と販売を実行しているのだ。今はまさにイグサを刈り取る季節。鄞西の田野を歩いて目を向けると、濃緑は統一された畑にそよ風が吹き、イグサの香りが溢れる。
 去年、朱さんは20歳の息子を日本留学に送り出した。その子が学び終えて帰国したら、新世代の農家がより抜きんでた姿で国際貿易の舞台で活躍するだろう。
中国の若者が綴る“感知日本 ”―中国語の「作文コンクール」一等賞決定―B [2009年12月15日(火)]

「Kさんと私の教師への夢」

                                  ※個人情報保護の観点から、個人名については
                                  アルファベット表記とさせていただきました。
河南省 常愛涛

 「良い教師になって、将来は良い学生をたくさん育てるんだぞ!」他人からするとありふれた励ましの言葉かもしれないが、私にとっては、ここ10年のうちで最も影響の強いものであり、認識や価値観さえ変わってしまう程のものなのである。
1999年、当時、私は小学校5年生で、私の田舎は国家級の貧困地域だった。授業で使う教室や椅子などはいずれも親世代から使っていたものであり、ひどいものはもっと古いことさえあった。その古い教室や机、椅子には美しい記憶が詰まっているのだが、それらは最早風雨に耐え得るものではなかった。その頃の私達は、いつか広くて明るい教室で勉強できるのだろうか?ということばかりをいつも考えていた。今でもはっきり覚えているのは、日本の友人であるKさんから援助をいただいてから、その夢が現実のものになったということである。

 1999年4月6日に起きた全てのことを昨日のことのように覚えている。私だけでなく郷里の人全員にとって、忘れ去ることのできない一日だったのである。その日以降、子供達は広く明るい教室で勉強できるようになり、危険な教室でびくびくしている必要がなくなったのだから。私達もこの教室棟の寄付者、日本の友人、Kさんに心から感謝した。
 Kさんは和やかで親しみやすい老人で、まだらになった白髪が彼の年輪を映し出していた。もとは中国科学院の南京土壌研究所で働いていた人で、定年退職後にここ河南省封丘県の農業科学院を視察に訪れたのである。Kさんは教育熱心で、私の田舎の小学校にやって来て子供達が苦労しているのを目にして、かなり心を痛めていたようであった。それで彼は帰国後に自分の貯金から200万円(当時のレートで15万元)を私達の学校に寄付し、新しい教室棟を建設してくれたのだ。この建物は後に“K教育楼”と命名され、路甬祥教師に題字をいただいた。

 竣工式の日は県の指導部もやってきて、普段は地味な小さな田舎が急に賑やかになったのである。誰もがこの心ある日本の老人を見たがっており、私は間違いなく幸運だった。児童代表として貴賓席で挨拶した上、Kさんと一緒に写真を撮り、記念として残すことができたのだから。
 挨拶する時はどうしても緊張してしまい、原稿を持つ手がずっと震えていた。「緊張しなくても大丈夫、すばらしいよ!」Kさんの激励が聞こえた。私が原稿を読み終わると、Kさんはそばに来て「よくやったね!」と優しく声を掛けてくれた。そして、「将来は大学に進んで教師になり、将来はたくさんいい学生を育てるんだぞ!」と意味深長に言葉をかけてくれた。
 「良い教師になって、将来は良い学生をたくさん育てる!」私は感動してKさんの言葉を繰り返した。その時、私は涙をためてKさんを見、彼は優しく頭を撫でてくれた。このひと時が永遠に私の脳裏に焼き付いている。

 私は、Kさんの言葉をその時の記念写真の裏に書き記した。その写真を見る度、私は、彼の期待と励ましを思い起こすことができる。後に、それは自分を鼓舞する方法のひとつになっていった。中学校の在学中に家庭の事情で中退した時も、Kさんの期待が最終的に学校へ戻る励みとなってくれたのである。
 2006年6月、二度目の大学受験(一度目は失敗した)、試験後に願書を書く時、私は何のためらいもなく省の師範学院の教育課程と記入した。その時、家族や教師は師範学院以外の良い専攻を受けるように勧めてくれた。私の成績は確実によりレベルの高い重点校に受かるものだったのである。それでも、私は自分の理想を思い、Kさんの私への励ましと期待に思いを馳せた。「良い教師になって、将来は良い学生をたくさん育てる!」その選択に悔いはない。
 今年は、師範学院で学んで3年、さらに、理想を抱き育んで10年になる。4年次が終了したら、卒業して職場に就くが、人民教師としての責任と使命を履行しようと思っている。私は、かつての母校―深く感動し、夢を育んだ場所―へ行き、教育を支えていこうと心に決めた。“K教育楼”で教壇に立ち、子供達に私の逸話を聞かせよう。Kさんが私を勉励してくれたように、たくさんの子供が自分の理想を持ち、追求するように励まそう!


「尺八との縁」

山西省在住 張ゴウ

 その夜、荒涼とした音が天を破って雲を裂き、石をも砕いて心の最も深いところまで届いた。私はその音に驚き、心を奪われ、うっとりとしてしまった。
それが一尺八寸の竹管の音だと誰が気づくだろうか。その時から、私の魂は尺八に運命づけられてしまったのである。
 この最も深遠なる日本の楽器、尺八とはこのようにして縁が結ばれたのである。
とても小さい頃、私は日本文化にとても興味があった。桜、富士山はもう珍しいとは感じていなかったが、日本のアニメはもっと気に入り、手放せないものだった。
 分別がつくようになってからの私は、さながら音楽に“耽溺”していると言ってもいい程である。私は次第に日本の古楽に夢中になっていった―日本の箏は軽快で変化に富み捉え難く、篠笛の哀調は心を揺さぶる。三味線はさらに高音で趣深く、余韻が尽きない。しかし、私は気付いた。私は、いつも日本の古楽の中でも特にある種の音に注目していたのである。いや、と言うより、鑑賞の度、その音が私の心をすっかり捉えてしまったといった方が正しい。

 私を驚嘆させてやまない楽器!
 その音は古風で荒涼とし、世の中の埃や垢に全く染まっていないような清らかさである。時には極めて重々しく、山の奥深くにある泉のすすり泣きのようであり、更には、賢者の深い思考を彷彿とさせる。また、時には軽快で感動的、優雅で麗しく、まるで引力から抜け出し、天空を飛んでいるかのようである。中でも私が最も好きなのは“トゥル”に近い音で、私にとっては完全に大空のむせび泣きなのである。音は管から吹き出され、中国の簫のようだが、簫より深遠で、変化に富みとらえがたく、また荒涼としてもいる。聞くたび、その清らかな荒涼さに心を動かされ、口も利けなくなってしまうのである。以上が、その後、私が理解した尺八である。

 ある晩のこと、私はパソコンで日本の有名なアニメ『NARUTO』を観ていた。ふと、耳慣れた音色がBGMから聞こえてきて、私は興奮で戦慄を覚えた。その音はすすり泣きのように聞こえながら、とても闊達で、忍者のもの悲しい宿命と彼らの恨みも後悔もしない心を余すところなく表現していた。私は本当に震撼させられ、再生するのを一時停止して、気がふれてしまったようにネットでその楽器を探した。ここから、尺八という語彙が完全に私の生活に入ってきたのである。
 私は尺八が中国に起源することをネットから知った。唐代の初めに日本に伝わり、宋代以後は意外にも中国での伝承が絶えている。今尚こうした楽器について知っている中国人は殆どいない。尺八は日本で更なる輝きを放ち、国中で演奏され、耳にした人を夢中にしたのだ。私は、中華民族がこの古典楽器の伝承を絶やしてしまったことに思わず扼腕し、同時に日本民族の偉大な習得能力と執着に秘かに敬服した。

 それから、尺八の吹き方を独学でマスターしようと私は決心したのである。しかし、この学習の道は非常に苦しいものである!分かっている状況と言えば、中国で本当に尺八が吹ける人はたった2人で、何れも南方在住であるということだけである。私は、重慶市の佳翁先生が開設している「尺八縁」サイトの指導に従い、少しずつ理解する他なかった。また、尺八は製作技術が極めて複雑なため高価で、奥地では買うことができないのである。私はまたネットで苦労して調べ、やっと浙江省の人が作ったポリプロピレンパイプ製の尺八を買うことができた。尺八の夢への第一歩を踏み出させてくれた彼らには感謝している。

 今や高校三年であるが、私は苦労して学んでいる。そもそも音が出せないというところから次第にコツを探り当て、簡単な練習曲や童謡が吹けるようになり、更に今では尺八の名曲を下手ながら真似られるようになったのだが、そこまでには実に多くの心血を注いできた。
 友達に「ただのプラスチック管だろう!」と言われても構わず、努力して音が出せるようになった。
 友達に「気分が悪くなる!」と言われても構わず、じっくりと時間をかけて練習した。
両親に「そもそも調子が狂っている!アコーディオンでも練習していた方がましだ。」と言われても構わず、私は尺八に惚れ込んでいる。
ネット上で「吹けるようになるには、絶対に8年はかかる。」と言われても構わない。8年後でも、まだ26歳だ。
 どうして尺八がこんなに好きなのか?私もよくそのことを考える。尺八には人生、自然、宇宙、魂に対する日本民族の思索や悟りが浸透しているのだと思う。この世界は余りに入り組んでいて複雑すぎる。良いからと言って、強要してはいけない。しかし、尺八の調べを聴いた友達が口にした言葉は、“飛び上がる”だった。そう、それは魂が“飛び上がる”感覚なのだ。生命の殻からなる浮ついた仮面を外してしまうと、生命の本質は悲しいものであり、尺八の荒涼としている音のようなものではないかと思っている。しかし、私達の魂は、尺八の音色のように、荒涼とした景色の中を飛び上がり、宇宙の最も深いところへ向かうことができる。尺八は人生を考えさせてくれる。私達が浮き世にいても、荒涼とした人生を送っていても、魂に永遠の自由を与えてくれる。
 清らかで最も自由な空に心を遊ばせるだけで、もの悲しい命も美しいものになる。これが、私と尺八の縁である。
中国の若者が綴る“感知日本 ”―中国語の「作文コンクール」一等賞決定―C [2009年12月15日(火)]

「日本の基礎教育に震撼」

北京市 劉玲

 私が日本の基礎教育に初めて触れたのは、有名な絵本作家である佐々木洋子の作品だった。
 2007年の暮れ、息子が一歳半だった時、友人の薦めで佐々木洋子の叢書一式を手当たり次第買い与えた。本は全7冊のセットで、それぞれの本には赤ちゃんの身近な出来事ばかりが書かれていた。『うんちがしたいの』など、子供に便のしかたを教えるものもあり、『歯磨きするの』など、良い生活習慣を教えるものもあった。
面白いのは、この本が説教めいたところはなく、ふとっちょのカバ、ちっちゃなネズミ、ちっちゃなブタの3匹の仲間がとる行動を通して、子供に何をすべきか、何をすべきでないのかを教えていることだ。息子はこのセットをことのほか気に入り、いつも読み聞かせをせがんできた。

 この本を見て呼び起された子供の頃の記憶もある。小さい頃に見た『鉄腕アトム』、『一休さん』、『花の子ルンルン』など何れも“日本製”の作品が思い出され、ネットからこれらの主題歌をダウンロードして息子に聞かせた。不思議なことに息子はすぐ覚えてしまい、時には口ずさむようにもなった。歌を聴く時には「ママ、この歌って中国語なの?日本語なの?」と尋ねるほどのお気に入りようであった。
 私は、ネットワークセキュリティ・エンジニアである。帰宅すれば子守りが仕事となっており、数々の国際問題にも特に関心はない。しかし、子供と一緒に日本の絵本や歌に触れるようになってから、こうした“製品”たちを生み出した国には、間違いなく子供の教育にも独自の優れた点があると感じていた。それから、意識的に日本の基礎教育に目を向けるようになったのである。
 専門が数学だったため、習慣的にデータから手をつけてみた。見なければ分からなかったこと、見ただけで飛び上がるほど驚いたこと。日本の基礎教育に関するデータを集めると、私は深く震撼した。私は馮昭奎と林昶の共著の『中日関係問題報告』から、日本の基礎教育水準についておおよその理解を得ることができた。

 日本は1868年の明治維新の時に国民全員の義務教育を実行したが、義務教育の責務を完遂できなかったために割腹自殺する地方の官僚も出た。1911年には早くも6年間の義務教育の入学率が98%に達している。1947年、日本は義務教育を9年に延長した。
 日本の初等教育の入学率は100%である。この水準に達している国としては、他に韓国、スウェーデン、イギリス、フランス、カナダ、アルゼンチン、イタリアなどがある。日本の中等教育の入学率は99.5%で、世界でも第1位である。基礎教育の堅固な発展が、平均的に教養のある日本国民を育て、日本の経済と社会の発展の最も貴重な資源になっている。
 日本の教育投資はずっと高い水準を保っている。1990年代以降、教育経費にはGDPの5%前後が投じられ、国の文教予算は国家予算の7.5%〜7.9%を占めており、国及び地方自治体の教育投資はその総支出の16%〜17%を占めている。地方自治体による教育への投資もかなり大きい。例えば、和歌山市の2002年における教育経費は1294億円にものぼり、当年の財政支出の23.5%に相当する。ここから、日本人がどれほど教育を重視しているのかが窺える。

 1947年、日本は『児童福祉法』を発布した。孤児であれば国籍を問わず、全て政府が引き取って育て、高校教育を終えるまで保証するというものである。敬服に値するのは、その頃は第二次大戦終結からわずか2年で、日本は極度の貧困にあったこということである。多くの家庭は生計の維持すら困難であり、多くの子供が裸足で通学するほかなかった。日本人は、最も苦難に満ちた時期にしっかりと緒を締めて教育を行ったのである。その戦略眼と遠大な見識には確かに敬服させられる。
 政府が重視するのは“ハード”への投資だが、教育の内容は“ソフト”に属するものである。私は息子が幼稚園にあがる前に『三字教』を暗唱させ、日本人の友人から大いに賞賛された。彼によると、道徳や礼儀の教育は日本の小中学校の重点科目なのだそうだ。

 日本では、小学校一年生から“道徳”が必修で、教え方には二種類あるのだとその友人は教えてくれた。1つは、教師が道徳、礼儀、処世について語り、道徳が人格形成にどれほど重要かという意識を学生に注ぎ込むというものである。教科書の素材はほとんどすべて諸子百家の思想で、孔子、孟子、老子、韓非子、そして忠、孝、仁、礼がいずれもある。一時間目の授業にはよく「己の欲せざるところ人に施すなかれ」が使われる。教師が「もし、お友達にカバンを盗まれたら、みんなにいじめられたら、うれしいかな?」と問いかけると、児童が一斉に「いやです!」と叫ぶ。教諭が「じゃあ、お友達にもそうしちゃいけませんよ。分かりましたか?」と続け、児童は「はい!」と答える。
 もう1つは、実践である。学校側が子供達を老人ホーム、障害者の入所先などへ連れて行って弱者の世話を経験させ、できるだけ交流させて付き合い方を学ばせるというものである。老人ホームと幼稚園を同一箇所に設立するという現象さえあるのだ。

 こうした話を聞いて、内心ではとても複雑なものを感じた。仁、義、礼、智、信は全て中国の古い文化の精華であり、高齢者を大事にして敬うというのも中国に伝わる美徳である。こうしたものが異国で花開き実を結ぶのは喜ばしいことである。惜しむらくは、中国の伝統文化がむしろ本土ではしっかりと伝えられていないことである。中国の子供が学ぶ重点はアルファベット、ピアノ、数学であって、こうした古典文化ではないのだ。
 基礎教育は個人の成長にとって重要な段階であり、全ての子供が公平な教育機会を得られるべきであると思う。この段階では、古典の漢詩を暗唱することも、何種類もの外国語をマスターすることも重要ではない。最も重要なのは、基本的な礼儀や規範を守り、文化・教養を身につけ、身の処し方を知ることであるべきである。こうした面において、中国が日本から学ぶべきところは多い。
 私は教育に従事している者ではないが、母親たる者、誰でも自分の子供が公平で清潔な環境で健やかに育って欲しいと願うものである。日本の基礎教育についてさらに理解を深める機会が得られることを心から望んでいる。基礎教育の分野で中国と日本がもっと交流を持つこと、互いに長所を取り入れ短所を補い、自らの教育を立派に成し遂げられるようになることを願ってやまない。



「遅れてきた感謝」

四川省 王暁

 2008年5月12日14時28分、四川省汶川地区で世界を驚愕させる大地震が発生した。私の住む綿陽市の北川羌族自治県は最も被害が深刻な地区だった。私は被災地の警官の一人として、大震災の翌日に北川県へ救援に行くことを自ら申し出た。見渡す限り被害の跡と化した北川県の被災地区には、すぐさま全国の部隊、公安、医療チーム、ボランティアが駆け付けただけでなく、ロシア、米国などからの救援隊員やボランティア達も瓦礫の中で活躍した。
 その時とても意外に感じたのは、日本からの専門救援チームも被災地の救援現場に現れたことである。しかも、このチームが、5.12大地震発生後に国外からやって来た最初の専門チームだったのである。彼らは苦労を厭わず、危険を恐れることもなかった。動きには熟練の程が窺われ、専門的なきめ細かさを備えていた。報道で知ったのだが、日本の救援隊員は廃墟の中から一人の被災者を掘り出した後、遺体を丁寧に整えて包み込み、隊員全体がその傍らで頭を下げて黙祷していたという。この情景は、私の心を感慨と感動で満たした。日本の救援隊員達の心からの哀悼により、隣国からの暖かさを感じ取った被災地住民も少なくない。私にとっても、身近に日本人の友情を感じたのはこれが初めてだった。

 その後、私は何度か北川県の被災地へ赴いた。被災地の仮設テント村では、国内の民間による大量の救援テントが張られていただけでなく、被災者が“万国テント村”と呼ぶところには、多くの国や国連などの国際組織が援助のため各種テントを張っていた。“万国テント村”に“JAPAN”と記されたテントを見つけた時、私はひと味違う感慨を覚えた。隣国である日本の願いをより深く理解することができた気がしたのだ。
 前世紀、あの戦争が中日の間に暗い影を落としたこと、それが今なお国民の胸のうちに浮かぶことは隠すまでもない。祖父はあの戦争で侵略軍に抵抗し、その血を流した。日本軍による砲弾の破片は、死ぬまでその体に残っていた。長いこと軍隊に勤めていた父は、祖父の影響を強く受けていた。特に、一部の日本人があの侵略戦争に対して全く反省の意を示さないことをいつも気に掛けており、わだかまりを抱いていた。

 私自身は、1980年代に生まれた若者である。私の記憶には、孫悟空、猪八戒だけでなく、ドナルドダック、ミッキーマウス、日本のアトム、竜の子太郎もいる。年を経るにつれ、より多くのルートから日本に関する情報を理解できるようになった。実際、中国と日本には何千年もの付き合いがある。果てしない歴史の流れの中の大半の時代において、中日関係は友好的なものだった。戦争というモンスターは中日の間に氷山を築き上げ、両国民に傷を与えた。だが、あれは歴史の挿入歌に過ぎない。私達は勇気をもって歴史と向かい合い、歴史を尊重するだけでいい。中日両国民の魂の間にある氷山は、時間が完全に融かしてくれる。日本の震災救援隊員が相手の危機に際して差し伸べた暖かな救いの手は、ゆっくりと傷口を撫でてくれる。
 新しい世代の中国の青年として、私達は中国と日本の過ぎ去った歴史を正しく認識するだけでなく、中国と日本とが友好的に付き合える素晴らしい未来を創造することに着目する必要がある。私が被災地で見かけた日本の救援隊員は、誰もが若いようであった。きっと彼らも、私と同様、歴史が沈降させた重い心理的な負担などないのだろう。彼らが人を危機から救った時の挙動は、人類共通の良心と本性から出たものに違いない。

 去年、「笹川杯作文コンクール−感知日本」が初めて開催された時、震災復旧の責任の重さから、私は応募することができなかった。汶川の大地震から一年余りが経った今、今年のコンクールという機会を借りて、日本の地震救援隊員へ感謝の意を表したいと強く思ったのである。中華民族は恩義の分かる民族だと思う。被災地住民は、中国全土の皆さんが危機に際して助けてくれたことだけでなく、世界各国からの協力やサポートも、もちろん日本からの誠実な救援も、忘れることはできないだろう。一年余りが経ち、ここ四川省の被災地は最も困難な時期を乗り切った。日本の地震救援隊員を含め、四川地震の救助や復興に参加してくれた各国の皆さんが、再び四川省を訪れ、被災地の新たな表情を自らの目で確認していただきたいと望んでいる。


教育・研究図書有効活用プロジェクト室
中国の若者が綴る“感知日本”―日本語の「作文コンクール」優勝作品― [2009年12月14日(月)]

中国の若者が綴る“感知日本”―日本語の「作文コンクール」優勝作品―


 日本科学協会、中国青年報、人民中国雑誌社が共催する「笹川杯作文コンクール」では、共通テーマ“感知日本”のもとに中国語によるものと日本語によるものの2つの独立した作文コンクールを開催しています。

 中国語での「作文コンクール」については、このブログでも紹介したとおり既に全18点の優秀賞が決定し、あとは最終審査を経て一等賞6点の決定を待つばかりです。

 日本語での「作文コンクール」については、「人民中国」誌・同webサイトを通じて今年の4月から募集を開始し、10月31日で募集を終了しました。この間、中国全土の日本語学習(習得)者から、自分なりの日本語で綴られた多彩な“感知日本”が寄せられ、最終的な応募作品は1,698点(2008年度:271点)に達しました。
 これらの作品を対象に厳正な審査を行った結果、この度、優勝から優秀賞まで18点の入賞作品が決定しました。(→審査基準・審査方法

 今回は、優勝に輝いた三江学院の黄満龍さんと江南大学の程天然さんの作品を紹介しますが、その他の入賞作品も順次掲載しますので、中国の若者の日本観を通して、自分の国や相手の国のことを考えていただければ幸いです。
 なお、優勝者2名については、副賞として来年1月下旬、日本に招聘します。

 ※日本語の原文を尊重し、作品には訂正・加筆など一切手を加えておりません。
 ※日本語での「作文コンクール」のサブテーマは、「生活の中の日本のエレメント」、「生活の中の日本の科学技術」です。
 ※作品の後には、それぞれ審査委員の講評と作者の創作の着想を添えました。
 ※全ての入賞作品が「人民中国」webサイトでご覧いただけます。



★日本語の「笹川杯作文コンクール2009−感知日本」審査結果


★優勝作品
「人と人のつながり」

三江学院 日本語系3年 黄満龍

 
 私が子供だった頃、両親の仕事の関係でずっと日本に住んでいた。其の頃の両親は何時も仕事で忙しく、子供だった私達の面倒を見る時間なんかは殆どなかった。
私には姉が一人いる。だから経済的にそれほど豊かではなかった。両親は私達が安心して学校に行けるようにと、朝も晩も働いていたので、普段家には私と姉しかいなかった。だから洗濯、掃除、ご飯の支度とかは全部私達子どもでやらなければならなかった。その時の私はまだ小学一年生、姉も三年生だった。 
 私と姉は小さい時から怖がりやで、夜と暗い所が一番嫌いだった。いつも夜になると二人で手を繋いで父母の帰りを待った。幼い私がいつも泣くので、姉は私が泣かないようによく物語を読んでくれた。でも私は物語が全く頭の中に入ってこなかった。それは、私の手を握っていた姉の手が振るえていたからだ。実は、姉は私よりも夜を恐がった。でも姉として自分の弱所を弟の私には見せたくなかったのだ。私と姉は何時もこうやって翌朝を迎えてきた。今思い出すと、その時は本当に辛い思いをした。何度涙を流したか数え切れないほどだ。

 私と姉は学校が大好きだった。学校に行けば寂しい思いをしなくてすむと分かっていたからかもしれない。私は学校で友達と遊ぶのが好きだった、その頃の私は日本語があまり喋べれなくて、自分の考えや思いを相手に伝えるのに苦労していた、でも日本の友達はそんな私を仲間外れにしないで、物を指差して日本語でどう言うかを丁寧に教えながら遊んでくれた。彼らと遊んでいると時間の流れも寂しい思いも全部忘れてしまったような気がする。姉もきっとそうに違いない。
 私には聞きたくない音があった、それは一日の授業が終わるチャイムだ。そのチャイムの音は本当に大嫌いだった。今でもそのチャイムの音を思い出すと、辛かった昔が思い出されて切ない。

 学校が終わると友達と遊ぶのが小学生の日課なのに、私は行けなかった。家に帰ってから掃除、洗濯、そして八百屋で買い物をして夕ご飯の支度が待っていた。姉の帰宅を待って一緒に八百屋に行って野菜を買う。私達はいつも安い野菜ばかりを買った。特に、モヤシをよく買った気がする。高い野菜を買った記憶は余りない。いつも二人で下手な日本語を使って八百屋で安い野菜ばかり買うので、八百屋さんは私達兄弟の顔を覚え、「偉いね、いつも二人で買い物だね。おまけするよ!」と言って安くしてくれた。本当に好い人だった。それから姉はすぐ夕ご飯の支度にかかり、私は洗濯をする。しかし一つ困った事があった。それは私の身長だ。一年生の私の背は余りにも低く、洗濯物を戸外の竿へ掛けることが出来なかった。ご飯の支度で精一杯の姉の手を煩わせたくなかった。だから、いつも椅子の上に立って洗濯物を竿に掛けたいた。姉のご飯は見かけよりおいしく、三年生にしてはいい味だったと思う。

 そして、また怖い夜がやって来た。私は姉といつものように両親の帰りを待っていた。突然ベルが鳴り、私と姉はお互いの顔を見つめ合い、両親が帰って来たと思った。急いでドアから覗いて見ると、隣りのおばさんだった。私は、何故こんな遅くによその家へ来るのかと思いながらドアを開けると、おばさんの手の上には手作りクッキーが一皿乗っていた。後で姉に聞くと、このクッキーはおばさんがわざわざ私達の為に作ってくれたもので、留守番が寂しくなったらいつでも遊びに来なさいと言ってくれたそうだ。それを聞いて、突然涙がぽろぽろと出て来て止まらなかった。姉も私の泣いている顔を見て、泣き出してしっまた。私は初めて姉の泣き顔を見た。日本に来て初めてこんなに優しくされたのだから、嬉しくて、泣かないで済むはずがなかった。
 その数年後、また両親の仕事の関係で中国に帰ることになった。
 子供は記憶はとても良いとよく言われるが、忘れるのも早かった。
 帰国した時、長い間中国語から遠ざかっていた私は、中国語を忘れてしまっていた。でも、中国の学校でも、また色々と友達が出来て、みんな、日本の友達と同じように励ましてくれた。その時も本当に嬉しかった。

 現在、私は大学生活を楽しんでいるが、「あの時かけてもらった一言」があって、今の私が居るのだと痛感している。そして、あの時の一言に応えるためにも、しっかりと日本語をマスターして、日中友好の為に力を尽くしたいと思う。
私は今までの経験から、人と人というものはお互いに助け合い励まし合うもので、この共存という環を離れて一人では生きていけないということを知った。そして確信した。人間は、一番辛い時、悲しい時の一声の声掛けで、心から喜び、感謝して、その人を一生忘れないという生き物だと。

<講評>
 日本で暮らしていたころの思い出が感動的に描かれている。文章は平易で、筆の運びは滑らかだ。何気ない優しさの大切さが、筆者の体験を通じて伝わってくる。

<創作の着想>(抜粋)
 この作文は人と人のつながりを描いた物で、ものすごく小さな出来事でも人と人により深い印象を与えてくれ、そして人情と言う物を感じ取れるように書きました。人に一番欠けないのが何か、そして前へ進むには何が必要となるのか、人が必ず忘れては行けない物とは何か、それを皆様に読む時に感じ取って欲しいのです。…(中略)人は一人では生きて行けない、それは国もおなじだとおもいます、国も一人では発展するのは難しい、でも国と国が兄弟、友人の様に助け合い、理解し、励まし合えば今の世界が今よりもずっと良くなると私は信じています。


「日本のイメージ」

江南大学日本語学部4年 程天然

 
 タクシーがひとりでにドアが開いたり閉まったりする。そして、降りるとき、車外に降り立って、ドアはそのままにして放っておけばいいのは日本しかないと言われている。
 コインを入れれば商品が出てくる自動販売機は、アメリカで発明されたものだそうだ。しかし、それを、冷たいジュースから、熱いコーヒーまで、日本酒からてんぷらまで出てくるようにしたのは、ただ、日本だけである。
 乗車券の自動販売機は、先進国にもある。だが、さまざまな種類のコインを自由に飲み込んで、おつりまで出してくれる機械は、日本独特であると言われている。
 とにかく、日本はこんな高度な科学技術を持つ国である。これは、私が一衣帯水の隣国、日本に関して,一番最初に感じ、そして最も強烈に残っている印象である。

 私は、大学で教科書を学ぶ以外の知識を、文学から学ぶことが多い。たとえば、東山魁夷という画家の「一枚の葉」という話がある。「人はもっと謙虚に自然を風景を見つめるべきである。それには、旅に出て大自然に接することも必要であるが、異なった風土での人々の生活を興味深く眺めるのもよいが、私たちの住んでいる近くに、たとえば、庭の一本の木、一枚の葉でも心をこめて眺めれば、根源的な生の意義を感じ取る場合があると思われる」。
 日本人は特にこのような自然の変化に敏感であり、一瞬の変化に中にもまとまりを感じとる感受性の豊かさを持っている。

 私は、この地球が人間だけの所有物ではないと考えている。そして、日本人は、自然の生物を大切にする。一枚の葉に限らず、自然が人間だけが住む世界ではないことを教えてくれると考えているからだ。山や川、海や空、雲、雨、雪などだけではなく、草だとか、花だとか、鳥や、獣とかいった生物たちから、強く生の意義を感じ取るのは、日本人である。自然を人間と対立するものとは考えず、自然の恩恵に感謝しながら生活し、自然と調和、共存していこうとする考え方は、日本人が古来から持ち続けている自然観である。
 夕日に古い町沿いの紅葉の木が照り映え、先端的な自動販売機が並んでいる。青い空にそびえたっているモダンビルと、日本家屋の住まいが調和して、大変美しい。このように日本は、まさに科学技術と自然が共存している国である。これは、今、私が最も強く抱いているイメージである。歴史的な問題もあり、中国の発展は日本より三,四十年ほど遅れてしまった。けれども、もし、中国が経済を追い求めるだけでなく自然を大切にする心を忘れなければ、美しい国になることは、単なる理想ではないだろう。

<講評>
 最先端の技術と自然を大切にする心が共存している日本。そのイメージが、ほぼ完璧な日本語で描かれている。「この地球が人間だけの所有物でない」という筆者の言葉に同感。

<創作の着想>(抜粋)
 大学生活4年間の中で素晴らしい日本語の先生に出会い、また多くの日本人の友達が出来て、交流出来たことは私のたくさんの収穫になりました。
 もともと私の日本に対するイメージは、科学の先進技術の素晴らしさです。それから日本という国を知り、更に美に対する感覚が生まれました。それは、日本の景色のことです。私の夢は大学卒業後に、私の大好きなカメラを持って日本の美しい景色をカメラで撮ることです。日本語の先生が私にこのコンテストを教えくれた時、私は是非、心の中のことを書きたいと思いました。


教育・研究図書有効活用プロジェクト室
中国の若者が綴る“感知日本 ”―「中国語の作文コンクール」第6回入賞作品他―@ [2009年12月09日(水)]
中国の若者が綴る“感知日本 ”

―「中国語の作文コンクール」第6回入賞作品他―


 今回は、「笹川杯作文コンクール2009」(中国語版)優秀賞紹介の最終回です。
11月分の3点と追加選定された1点をまとめて紹介します。ここに掲載の4点を含めた合計18点の優秀作品については、さらに最終審査を行い、一等賞6点を決定します。また、一等賞受賞者については、来年1月下旬、副賞として日本に招聘します。

 中国語の原文は、それぞれ11月8日(「日本的基礎教育譲我感到震撼」)、15日(「遅到的感謝」)、22日(「我的空手道社団 我的大学時代」)、29日(「我参加了日本的小発明比賽」)の「中国青年報」紙とwebサイトでご覧いただけます。



(「中国青年報」紙 2009年11月8日、15日、22日)




日本の基礎教育に震撼


北京市 劉玲

 私が日本の基礎教育に初めて触れたのは、有名な絵本作家である佐々木洋子の作品だった。
 2007年の暮れ、息子が一歳半だった時、友人の薦めで佐々木洋子の叢書一式を手当たり次第買い与えた。本は全7冊のセットで、それぞれの本には赤ちゃんの身近な出来事ばかりが書かれていた。『うんちがしたいの』など、子供に便のしかたを教えるものもあり、『歯磨きするの』など、良い生活習慣を教えるものもあった。
 面白いのは、この本が説教めいたところはなく、ふとっちょのカバ、ちっちゃなネズミ、ちっちゃなブタの3匹の仲間がとる行動を通して、子供に何をすべきか何をすべきでないのかを教えていることだ。息子はこのセットをことのほか気に入り、いつも読み聞かせをせがんできた。

 この本を見て呼び起された子供の頃の記憶もある。小さい頃に見た『鉄腕アトム』、『一休さん』、『花の子ルンルン』などいずれも“日本製”の作品が思い出され、ネットからこれらの主題歌をダウンロードして息子に聞かせた。不思議なことに息子はすぐ覚えてしまい、時には口ずさむようにもなった。歌を聴く時には「ママ、この歌って中国語なの?日本語なの?」と尋ねるほどのお気に入りようであった。
 私は、ネットワークセキュリティ・エンジニアである。帰宅すれば子守りが仕事となっており、数々の国際問題にも特に関心はない。しかし、子供と一緒に日本の絵本や歌に触れるようになってから、こうした“製品”たちを生み出した国には、間違いなく子供の教育にも独自の優れた点があると感じていた。それから、意識的に日本の基礎教育に目を向けるようになったのである。

 専門が数学だったため、習慣的にデータから手をつけてみた。見なければ分からなかったこと、見ただけで飛び上がるほど驚いたこと。日本の基礎教育に関するデータを集めると、私は深く震撼した。私は馮昭奎と林昶の共著の『中日関係問題報告』から、日本の基礎教育水準についておおよその理解を得ることができた。
 日本は1868年の明治維新の時に国民全員の義務教育を実行したが、義務教育の責務を完遂できなかったために割腹自殺する地方の官僚も出た。1911年には早くも6年間の義務教育の入学率が98%に達している。1947年、日本は義務教育を9年に延長した。
 日本の初等教育の入学率は100%である。この水準に達している国としては、他に韓国、スウェーデン、イギリス、フランス、カナダ、アルゼンチン、イタリアなどがある。日本の中等教育の入学率は99.5%で、世界でも第1位である。基礎教育の堅固な発展が、平均的に教養のある日本国民を育て、日本の経済と社会の発展の最も貴重な資源になっている。

 日本の教育投資はずっと高い水準を保っている。1990年代以降、教育経費にはGDPの5%前後が投じられ、国の文教予算は国家予算の7.5%〜7.9%を占めており、国及び地方自治体の教育投資はその総支出の16%〜17%を占めている。地方自治体による教育への投資もかなり大きい。例えば、和歌山市の2002年における教育経費は1294億円にものぼり、当年の財政支出の23.5%に相当する。ここから、日本人がどれほど教育を重視しているのかが窺える。
 1947年、日本は『児童福祉法』を発布した。孤児であれば国籍を問わず、全て政府が引き取って育て、高校教育を終えるまで保証するというものである。敬服に値するのは、その頃は第二次大戦終結からわずか2年で、日本は極度の貧困にあったこということである。多くの家庭は生計の維持すら困難であり、多くの子供が裸足で通学するほかなかった。日本人は、最も苦難に満ちた時期にしっかりと緒を締めて教育を行ったのである。その戦略眼と遠大な見識には確かに敬服させられる。

 政府が重視するのは“ハード”への投資だが、教育の内容は“ソフト”に属するものである。私は息子が幼稚園にあがる前に『三字教』を暗唱させ、日本人の友人から大いに賞賛された。彼によると、道徳や礼儀の教育は日本の小中学校の重点科目なのだそうだ。
 日本では、小学校一年生から“道徳”が必修で、教え方には二種類あるのだとその友人は教えてくれた。1つは、教師が道徳、礼儀、処世について語り、道徳が人格形成にどれほど重要かという意識を学生に注ぎ込むというものである。教科書の素材はほとんどすべて諸子百家の思想で、孔子、孟子、老子、韓非子、そして忠、孝、仁、礼がいずれもある。一時間目の授業にはよく「己の欲せざるところ人に施すなかれ」が使われる。教師が「もし、お友達にカバンを盗まれたら、みんなにいじめられたら、うれしいかな?」と問いかけると、児童が一斉に「いやです!」と叫ぶ。教諭が「じゃあ、お友達にもそうしちゃいけませんよ。分かりましたか?」と続け、児童は「はい!」と答える。

 もう1つは、実践である。学校側が子供達を老人ホーム、障害者の入所先などへ連れて行って弱者の世話を経験させ、できるだけ交流させて付き合い方を学ばせるというものである。老人ホームと幼稚園を同一箇所に設立するという現象さえあるのだ。
 こうした話を聞いて、内心ではとても複雑なものを感じた。仁、義、礼、智、信は全て中国の古い文化の精華であり、高齢者を大事にして敬うというのも中国に伝わる美徳である。こうしたものが異国で花開き実を結ぶのは喜ばしいことである。惜しむらくは、中国の伝統文化がむしろ本土ではしっかりと伝えられていないことである。中国の子供が学ぶ重点はアルファベット、ピアノ、数学であって、こうした古典文化ではないのだ。

 基礎教育は個人の成長にとって重要な段階であり、全ての子供が公平な教育機会を得られるべきであると思う。この段階では、古典の漢詩を暗唱することも、何種類もの外国語をマスターすることも重要ではない。最も重要なのは、基本的な礼儀や規範を守り、文化・教養を身につけ、身の処し方を知ることであるべきである。こうした面において、中国が日本から学ぶべきところは多い。
 私は教育に従事している者ではないが、母親たる者、誰でも自分の子供が公平で清潔な環境で健やかに育って欲しいと願うものである。日本の基礎教育についてさらに理解を深める機会が得られることを心から望んでいる。基礎教育の分野で中国と日本がもっと交流を持つこと、互いに長所を取り入れ短所を補い、自らの教育を立派に成し遂げられるようになることを願ってやまない。
中国の若者が綴る“感知日本 ”―「中国語の作文コンクール」第6回入賞作品他―A [2009年12月09日(水)]
遅れてきた感謝


四川省 王暁

 2008年5月12日14時28分、四川省汶川地区で世界を驚愕させる大地震が発生した。私の住む綿陽市の北川羌族自治県は最も被害が深刻な地区だった。私は被災地の警官の一人として、大震災の翌日に北川県へ救援に行くことを自ら申し出た。見渡す限り被害の跡と化した北川県の被災地区には、すぐさま全国の部隊、公安、医療チーム、ボランティアが駆け付けただけでなく、ロシア、米国などからの救援隊員やボランティア達も瓦礫の中で活躍した。

 その時とても意外に感じたのは、日本からの専門救援チームも被災地の救援現場に現れたことである。しかも、このチームが、5.12大地震発生後に国外からやって来た最初の専門チームだったのである。彼らは苦労を厭わず、危険を恐れることもなかった。動きには熟練の程が窺われ、専門的なきめ細かさを備えていた。報道で知ったのだが、日本の救援隊員は廃墟の中から一人の被災者を掘り出した後、遺体を丁寧に整えて包み込み、隊員全体がその傍らで頭を下げて黙祷していたという。この情景は、私の心を感慨と感動で満たした。日本の救援隊員達の心からの哀悼により、隣国からの暖かさを感じ取った被災地住民も少なくない。私にとっても、身近に日本人の友情を感じたのはこれが初めてだった。

 その後、私は何度か北川県の被災地へ赴いた。被災地の仮設テント村では、国内の民間による大量の救援テントが張られていただけでなく、被災者が“万国テント村”と呼ぶところには、多くの国や国連などの国際組織が援助のため各種テントを張っていた。“万国テント村”に“JAPAN”と記されたテントを見つけた時、私はひと味違う感慨を覚えた。隣国である日本の願いをより深く理解することができた気がしたのだ。

 前世紀、あの戦争が中日の間に暗い影を落としたこと、それが今なお国民の胸のうちに浮かぶことは隠すまでもない。祖父はあの戦争で侵略軍に抵抗し、その血を流した。日本軍による砲弾の破片は、死ぬまでその体に残っていた。長いこと軍隊に勤めていた父は、祖父の影響を強く受けていた。特に、一部の日本人があの侵略戦争に対して全く反省の意を示さないことをいつも気に掛けており、わだかまりを抱いていた。

 私自身は、1980年代に生まれた若者である。私の記憶には、孫悟空、猪八戒だけでなく、ドナルドダック、ミッキーマウス、日本のアトム、竜の子太郎もいる。年を経るにつれ、より多くのルートから日本に関する情報を理解できるようになった。実際、中国と日本には何千年もの付き合いがある。果てしない歴史の流れの中の大半の時代において、中日関係は友好的なものであった。戦争というモンスターは中日の間に氷山を築き上げ、両国民に傷を与えた。だが、あれは歴史の挿入歌に過ぎない。私達は勇気をもって歴史と向かい合い、歴史を尊重するだけでいい。中日両国民の魂の間にある氷山は、時間が完全に融かしてくれる。日本の震災救援隊員が相手の危機に際して差し伸べた暖かな救いの手は、ゆっくりと傷口を撫でてくれる。
 新しい世代の中国の青年として、私達は中国と日本の過ぎ去った歴史を正しく認識するだけでなく、中国と日本とが友好的に付き合える素晴らしい未来を創造することに着目する必要がある。私が被災地で見かけた日本の救援隊員は、誰もが若いようであった。きっと彼らも、私と同様、歴史が沈降させた重い心理的な負担などないのだろう。彼らが人を危機から救った時の挙動は、人類共通の良心と本性から出たものに違いない。

 去年、「笹川杯作文コンクール−感知日本」が初めて開催された時、震災復旧の責任の重さから、私は応募することができなかった。ブン川の大地震から一年余りが経った今、今年のコンクールという機会を借りて、日本の地震救援隊員へ感謝の意を表したいと強く思ったのである。中華民族は恩義の分かる民族だと思う。被災地住民は、中国全土の皆さんが危機に際して助けてくれたことだけでなく、世界各国からの協力やサポートも、もちろん日本からの誠実な救援も、忘れることはできないだろう。一年余りが経ち、ここ四川省の被災地は最も困難な時期を乗り切った。日本の地震救援隊員を含め、四川地震の救助や復興に参加してくれた各国の皆さんが、再び四川省を訪れ、被災地の新たな表情を自らの目で確認していただきたいと望んでいる。
中国の若者が綴る“感知日本 ”―「中国語の作文コンクール」第6回入賞作品他―B [2009年12月09日(水)]
空手サークルと大学時代


甘粛省 陳賀廉

 空手道に触れた2年近い時間は、一生忘れることはないだろう。
 2年余り前、私は蘭州大学に進学し、内蒙古自治区のフフホト市から甘粛省に来た。地域文化などの違いから大学生活にすぐには馴染めなかった私は、学内でとても寂しく過ごしていた。私は、ずっと「憧れていた大学生活とは、どこに“隠れる”かということだったのか?」と自問してばかりいた。

 ひょんなことから、私は学内の空手サークルと出会った。私は小さい頃から痩せていて弱々しく、大学に入ってからもずっと体調は余り芳しくなかった。同じ寮の杜君が、空手サークルに参加するように提案してくれたので、ちょっと試してみるかと思い、私は空手サークルに入った。空手サークルに参加して最初の指導で、空手は元々“唐手”―つまり、“中国に源を発する武術”の意味−と呼ばれていたことを監督から教わった。。500年前、古来の格闘術と中国から日本へ伝わった拳法とが混ざり合って成立したのだという。空手が中華の武術とこれほど深い縁があることを知り、私は空手を学ぶ決意をした。こうして空手とともに過ごす大学時代が始まったのである。空手の初歩的な技術を練習するところから始まり、今では自分が学内空手サークルの会長を務めている。私は多くの空手の技を習得したが、得るところがより大きいと感じるのは、空手の精神をある程度味わえたことである。

 思うに、空手は個人の身体や技能の鍛錬ではなく、一種の精神の試練である。空手には真、善、美に関する極めて深い論理が含まれており、実質上、動態の禅なのである。
 サークルの皆も、私の空手に対する解説と悟りは、私自身の空手の技巧より遥かに強く表れていると感じている。実際、私が空手を学んだ時間はとても短い。会長選挙には勝ったが、それは、技が他の人より強かったからではない。空手サークルへの興味が強く、空手文化に対する理解が深いというところを先生が見ていたからである。そのため、サークルでは、空手文化に対する理解と伝承に力を入れ、動作の訓練に終始しないように努めてきた。

 この過程で私は多くの人と知り合った。私と同じように空手と空手文化に強い情熱を抱いている人たちである。彼らは私から空手文化についての解説を聞くと、進んで私の友達になろうと言ってくれた。その理由を聞くと、答えは大同小異で「空手そのものより空手の文化を好む人は、仁徳のある人だから。そういう人と友達になれば、気持ちが落ち着く。」というものだった。そのため、空手サークルを通じて私には専攻の異なる友人がたくさんできた。彼らは、このサークルの一人一人のメンバーを“空手の人”と呼んで楽しんでいた。毎週、“空手サロン”の時間になると、空手の人としては、どう身を処すべきかについて皆で語り合った。サークル内で、道士の世界よりも静寂な内心の世界を得てしまう者さえいた。前会長である陳先輩は、私に会う度、「廉君、君は実践重視のサークルを頭でっかちにしたうえ、こんなにたくさんの学生を引き付けておくとは理解し難いな!」と声を掛けてきた。私の答えは「先輩、そういう含みのある褒め方こそ、まさにある意味で空手文化の表現ですよ。」である。言い終わるなり、二人で納得して笑ったものでる。

 二年が過ぎたが、空手サークルへの愛は全くすり減ってはいない。空手サークルは、サークル史上初めて“蘭州大学サークルベスト10”に入った。優秀サークルコンテストで、私は「陳先輩の言うように、サークルは、実践重視から理論重視に移行する時になって初めて、人の心へ入っていくことができる。一個人が一サークルを文化的に認めたら、その人はそのサークルに対して十二分の情熱を持ち続けることができる。」と発言した。
 この頃を振り返ると、空手サークルに関わっていた隙間にこそ、私の最もすばらしい大学時代が潜んでいたことに気付いた。私の大学時代は、空手サークルによって永遠に忘れ去ることができないものになったのだ。


日本の発明工夫コンテストに参加して


北京市 張鳳香

 笹沼女史は、今や私のアイドルだ。
 洗濯機の使用が終わる度、糸くずを集めるそのポケットを取り出しては掃除している。戻すのを忘れて、洗い上がった衣服が糸くずだらけになったことがある。こうして日本では“横綱級の市民発明”であるポケットとその発明者である笹沼女史を知った。
 日本に発明や工夫の土壌があることは知っている。多くの主婦が発明や創造に熱中しており、笹沼女史はそうした中でも優れた人物なのである。私は彼女を尊敬している。彼女のようになりたいと夢見ていた。

 程なく、期せずして私の発明の夢が実現した。先日、姪の面倒を見ることになり、こうしたことは経験したことがなかったのだが、子供はすぐ布団を蹴り出してしまうので、私は、一晩中布団をかけなおしてやらなければならなかった。そうして何日か過ごすうち疲れてしまった私は、何人かの身内に聞いてみた。すると、「子供が布団を蹴り出したら、かけてやればいい」と皆が言うのだ。参ってしまった。将来、子供ができたら、またこういうことになるのか。どうすればいいのか、方法を考えないと。ある日、夫とその話をしていた時にふとインスピレーションが湧いた。その時の思いつきが結果的に初めてのミニ発明、子供の布団蹴り出し防止装置となったのだ。

 笹沼女史が自分のミニ発明に興味を示した人に譲渡し、実現化を任せていたことに倣おうかと思っていたが、実際こんな簡単な工夫は譲渡などし難いし、今のところミニ発明の商品化に適したルートもない、と夫に言われてしまった。
 私の失望した様子を見て、日本語のできる夫が機転を利かせてくれた。日本の発明工夫コンテストに参加したくないかと聞いてくれたのだ。夫によると、日本では政府から民間までがミニ発明を支持しており、毎年「くらしの発明展」などの発明工夫コンテストが定期的に開催されている。多くの女性が自分のミニ発明を商品化して社会に貢献するということを奨励しているのだそうである。夫は、日本発明学会(笹沼女史が発明の譲渡に成功した機関)主催の「身近なヒント発明展」を勧めてくれた。
 実際、コンテストに参加するということは、案外大胆な発想であると私達も思っていた。事前に検索して調べてみたところ、幼児が布団を蹴り出し防止に関する特許は、中国と台湾を合わせて100件以上もあるが、日本などの国のデータベース上には見つからなかった。このため、幼児が布団を蹴り出すのを防ぐというのは中国人特有の育児文化と関連しているのではないかと思ったのだ。こうしたテーマで日本のコンテストに参加するのは恐れ知らずという感じがする。だが、私達は参加してみることに決めた。

 「身近なヒント発明展」は、本来、日本人しか対象にしておらず、外国人である私達が参加するのは多少困難なところがあった。何度も努力してみたものの無駄に終わるかと思っていたころ、思いがけず学会から参加資料が届いた。しかも、資料費用500円が免除されていた。
 私は要項に従い、参加締め切りの2009年7月31日までに参加書類を送付した。コンテストの結果は期限どおり9月初めに公表され、私にも9月11日に選外通知が届いた。その通知から、参加書類の受理日が平成21年8月4日で、受理番号が6−145であったことが分かった。
 その間、大いに考えさせられる出来事があった。8月のある日、またしても思いがけず発明学会からの手紙を受け取った。そこには50円切手が2枚入っていた。実は日本にいる友人に頼んで3,000円余りの参加費を払ってもらっていたのだが、コミュニケーションの問題から返信用切手代を100円分多く払っていたのだ。発明学会のまじめな事務局員が、余分な返信用切手代を返してよこしたのだった。私はその手紙の送料が100円を超えていることに気づいた。私達は、学会事務局の全く抜かりのない仕事ぶりに深く感動し、強い信頼を覚えた。私達の発明がもっと“ミニ”であっても、きっと彼らは真摯に向かい合ってくれるだろう。

 私も夫も日本へは行ったことがない。コンテストに参加するという“近距離”の接触により、私達の日本に対する理解が深まった。日本人のまじめさ、熱心さ、研究心、規範意識が、深く印象に残った。より感心したのは、主婦がミニ発明に参加することを積極的に促進すれば、本人達の聡明な知恵を発掘できるばかりか、子女の教育にも計り知れないプラスの影響を与えることができるということである。考えてみよう、“発明家”の母を持つ子供がスタートラインでどれだけリードできているかということを。
 夫は、今後も機会があれば日本の“発明コンテスト”を中国の発明家に紹介したいと望んでいる。私はと言えば、またミニ発明を考え出し、もう一度日本のコンテストに参加したいと思っている。



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