彼より仏語の初歩及仏国詩人等の存在を学ぶ。 @ 富永太郎と中原中也@
[2019年09月21日(Sat)]
9月23日(火・祝)まで、中原中也記念館で特別展「富永太郎と中原中也展」が開催されています
まず、チラシにも使われている、富永太郎の自画像が展示されています。
1921(大正10)年10月、20歳の時に描いた油彩画です。
旧制第二高等学校に在学していた1921(大正10)年5月12日、仙台洋画研究所(1917(大正6)年2月、菱沼美仙(本名 猛)が開設)に入所し、油彩画を初めて学びました。
1921(大正10)年10月10日付正岡忠三郎()宛書簡に
デッサンが案外手間どって今夜やっと色にかかるところだ
と記されており、この作品だと推測されています。
詩人として、画家として身を立てようか、悩んだだけあってなかなかの技量です。
最初のケースには、
1924(大正13)年7月7日付村井康男()宛書簡が展示してあります。その中に、
ダダイスト()を訪ねてやり込められたり
とあります。
太郎は、冨倉徳次郎()の紹介で立命館中学4年生の中原中也を識りました。中也は太郎より六歳年少で、この頃 洛西椿寺付近の下宿で女優 長谷川泰子と同棲していました。
その隣に中也の「詩的履歴書」が展示してあります。
「我が詩観」(1936(昭和11)年8月)に続いて記されたものです。
大正十三年夏富永太郎京都に来て、彼より仏国詩人等の存在を学ぶ。大正十四年の十一月に死んだ。懐かしく思ふ。
原稿をよく見ると、「彼より」と「仏国詩人等」の間に、「仏語の初歩及」の記述が二重線で消されています。
「詩的履歴書」の中に出ている名前(家族、「教生」など実名が記していないものや著者名などを除く)は、富永の他、
「大正十四年四月、小林に紹介さる。」「昭和二年春、河上に紹介さる。」「仝年十一月、諸井三郎を訪ぬ。」の3名だけで、いかに、太郎が大きな存在だったかがわかります。
正岡忠三郎は、子規の従兄弟で、子規の妹 律の養子に入り、正岡家を継ぎました。東京府立第一中学校(一級下)、第二高等学校(現東北大学教養部)理科(学制改革の関係で同級生)で一緒でした。
村井康男は、東京府立第一中学校からの太郎の友人です。
太郎の死後の1927年8月、村井康男の編で家蔵版『富永太郎詩集』が刊行されます。
東京帝国大学卒業後、成城高校の教師となり、同人誌『白痴群』(昭和4年4月)の創刊に、河上徹太郎、中原中也とともに参加します。
ダダイストとは、中也のことです。中也の「詩的履歴書」にもあるように、
大正十二年春、文学に耽りて落第す。京都立命館中学に転校す。生れて始めて両親を離れ、飛び立つ思ひなり、その秋の暮、寒い夜に丸太町橋際の古本屋で「ダダイスト新吉の詩」を読む。中の数篇に感激。
ことから、ダダイズムに傾倒、詩作を始めていたので、周りから、「ダダさん」「ダダイスト」などと呼ばれていました。
冨倉徳次郎は、太郎と東京府立第一中学校(一級下)、第二高等学校(現東北大学教養部)理科(学制改革の関係で同級生)で一緒でした。
東京帝国大学理学部を経て、京都帝国大学文学部国文科時代、講師として立命館中学に赴任し、生徒の一人に中原中也がいました。中也が答案の代わりに詩を書いて提出したことがきっかけで交友が始まりました。友人 富永太郎を中也に引き合わせたことでも知られています。
【次回に続く】
まず、チラシにも使われている、富永太郎の自画像が展示されています。
1921(大正10)年10月、20歳の時に描いた油彩画です。
旧制第二高等学校に在学していた1921(大正10)年5月12日、仙台洋画研究所(1917(大正6)年2月、菱沼美仙(本名 猛)が開設)に入所し、油彩画を初めて学びました。
1921(大正10)年10月10日付正岡忠三郎()宛書簡に
デッサンが案外手間どって今夜やっと色にかかるところだ
と記されており、この作品だと推測されています。
詩人として、画家として身を立てようか、悩んだだけあってなかなかの技量です。
最初のケースには、
1924(大正13)年7月7日付村井康男()宛書簡が展示してあります。その中に、
ダダイスト()を訪ねてやり込められたり
とあります。
太郎は、冨倉徳次郎()の紹介で立命館中学4年生の中原中也を識りました。中也は太郎より六歳年少で、この頃 洛西椿寺付近の下宿で女優 長谷川泰子と同棲していました。
その隣に中也の「詩的履歴書」が展示してあります。
「我が詩観」(1936(昭和11)年8月)に続いて記されたものです。
大正十三年夏富永太郎京都に来て、彼より仏国詩人等の存在を学ぶ。大正十四年の十一月に死んだ。懐かしく思ふ。
原稿をよく見ると、「彼より」と「仏国詩人等」の間に、「仏語の初歩及」の記述が二重線で消されています。
「詩的履歴書」の中に出ている名前(家族、「教生」など実名が記していないものや著者名などを除く)は、富永の他、
「大正十四年四月、小林に紹介さる。」「昭和二年春、河上に紹介さる。」「仝年十一月、諸井三郎を訪ぬ。」の3名だけで、いかに、太郎が大きな存在だったかがわかります。
正岡忠三郎は、子規の従兄弟で、子規の妹 律の養子に入り、正岡家を継ぎました。東京府立第一中学校(一級下)、第二高等学校(現東北大学教養部)理科(学制改革の関係で同級生)で一緒でした。
村井康男は、東京府立第一中学校からの太郎の友人です。
太郎の死後の1927年8月、村井康男の編で家蔵版『富永太郎詩集』が刊行されます。
東京帝国大学卒業後、成城高校の教師となり、同人誌『白痴群』(昭和4年4月)の創刊に、河上徹太郎、中原中也とともに参加します。
ダダイストとは、中也のことです。中也の「詩的履歴書」にもあるように、
大正十二年春、文学に耽りて落第す。京都立命館中学に転校す。生れて始めて両親を離れ、飛び立つ思ひなり、その秋の暮、寒い夜に丸太町橋際の古本屋で「ダダイスト新吉の詩」を読む。中の数篇に感激。
ことから、ダダイズムに傾倒、詩作を始めていたので、周りから、「ダダさん」「ダダイスト」などと呼ばれていました。
冨倉徳次郎は、太郎と東京府立第一中学校(一級下)、第二高等学校(現東北大学教養部)理科(学制改革の関係で同級生)で一緒でした。
東京帝国大学理学部を経て、京都帝国大学文学部国文科時代、講師として立命館中学に赴任し、生徒の一人に中原中也がいました。中也が答案の代わりに詩を書いて提出したことがきっかけで交友が始まりました。友人 富永太郎を中也に引き合わせたことでも知られています。
【次回に続く】