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こどもと本ジョイントネット21・山口


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大内義興墓 @ 中尾の文化財さんぽC [2019年05月10日(Fri)]
【前回の続き】

「大内氏遺跡・凌雲寺跡」の説明板。
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「史跡 大内氏遺跡 凌雲寺跡」碑。
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大内義興の墓。
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宝篋印塔(ほうきょういんとう)です。
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婦人の墓。
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宝篋印塔ですが、明らかに年代が違う石の寄せ集めです。
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凌雲寺開山塔。つまり了庵桂悟の墓。
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了庵桂悟といえば、山口県立美術館「雪舟への旅」(2006.11.1〜30)で観た雪舟等楊の筆、以参(牧松)周省・了庵桂悟賛の国宝「山水図」を思い出します。
他にも、了庵が賛を記した作品がいくつか展示してありました。
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「大内義興卿墓」の碑。
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1888(明治21)年12月に
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長州藩最後の第14代藩主である毛利元徳(もとのり)が建立しました。
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法泉寺跡の政弘の墓、洞春寺(元の国清寺)の盛見の墓、大寧寺の義隆主従の墓のそばにも同様に建っています。
(▼大内盛見の墓に建つ毛利元徳が建てた「大内盛見卿墓」の碑。)
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お堂。
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明治時代の建物だそうで、中にあった阿弥陀如来像は山口市歴史民俗資料館にあります。

吉敷佐畑の玄済寺には、凌雲寺が炎上するとき持ち出されたという大内義興公の霊牌と義興が念持仏として信仰した毘沙門天像が安置されています。

近くにはこんもりとした築山のような箇所があり、墓石の一部もしくは祠のようなものを集めて置いてあるところがあります。
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もっといろいろなものが建っていたのでしょうね。
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中野の伝説に「凌雲寺炎上」というのがあります。
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「凌雲寺炎上」
 天文二十年(一五五一)八月二十九日の夜、陶隆房の謀反で法泉寺を追われた義隆は、深川へ逃れることにしました。途中、吉敷の中尾に父義興の墓提寺ある凌雲寺に足ち寄りましたが、寺の僧たちは後難を恐れて堅く門を閉ざし、義隆の一行が寺内に入ることを拒みました。
 義隆一行も、昨日に変わる敗残の身として、強いて押し入ることもならず、僧たちの所業を妬みつつ、門の隙間から父義興の墓所を拝し、別れを告げて深川めざして落ちて行きました。
 義隆が、長門深川の大寧寺で自害したという噂が、中尾に達したのはまもなくでした。
 その頃から、凌雲寺の内では、珍しい白鼠が現れるようになり、僧達を驚かせました。
 ある夜、その白鼠が、火のついた藁屑をくわえて本堂の天井を走り廻り、火の粉を散らしました。
 数日間続いた天気で渇いた本堂は、たちまち猛火に包まれてしました。しかも。寺は高台にあ
り水利が無く、三百余人も居たという僧も、近所の百姓もどうすることも出来ず、あれよあ
れよという間に天をも焦がす大火となってしまいました。
 火は七日七夜燃え続き、義興が西の京の偉観として誇った凌雲寺も崩れ落ち、巨大な石で組まれた石垣だけが残りました。
 土地の人たちは、義隆の霊魂が白鼠となって妬みの火を放ったものであろうと声をひそめて噂をしたといいます。
 現在、凌雲寺跡は大内氏遺跡として国の史跡に指定されており、発掘調査が行われています。

(『ふるさとだより』746号「よしき四方山ばなし」Vol.4 より引用)

この伝説を読んだ時、とても違和感を覚えました。

山口市の吉敷川上流の山間部にある凌雲寺は、大内義興が創立した寺である。その総門跡と言われる遺構は寺院としては異例なほど豪壮雄大な石垣などであることから、有事に備えた一種の城塞を兼ねたものであったと考えられている。
(山口県の文化財HP「大内氏遺跡附凌雲寺跡」)

寺の位置地形などから有事に備えての城塞の役割を兼ねたものではないかと推定されています。
(「大内氏遺跡・凌雲寺跡」の説明板)

と「有事の城塞」とあります。なら、どうして、開基した義興の嫡子 義隆の有事に城塞の役割を果たさなかったのでしょうか?
もしかして、1551(天文20)年には焼失していたとか?
調査が待たれるところです。


【次回に続く】
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