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こどもと本ジョイントネット21・山口


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凌雲寺跡 @ 中尾の文化財さんぽB [2019年05月09日(Thu)]
【前回の続き】

大師堂跡から今来た道を少し引き返し、山道(?)に入ました。
この道を下ると、先程の中尾公民館へ出るそうです。
凌雲寺跡を目指して歩きます。

棚田が見えてきました。
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凌雲寺跡が見えてきました。
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中尾段丘の傾斜地を切土と盛土で造成し、段々状の平坦面を作り出しています
(配布資料「凌雲寺跡ってとんなとこ?」参照)
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案内板。
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国指定 史跡
  大内氏遺跡・凌雲寺跡
   昭和三十四年十一月二十七日指定
 凌雲寺は、大内氏三十代義興を開基、了庵桂悟が開山として永正四年頃(一五〇七)この地に創建されたと伝えれています。廃寺の年月は不明ですが、おそら大内氏滅亡後、いつの時代かに廃されたものと思われます。
 寺は舌状をなして南に延びる台地状に営まれたもので、注目すべきは台地の南端を東西に横切る長い石垣です。これはこの寺の惣門の遺構と伝えられ、長さは約六十メートル、高さ三メートル、幅二メートル余りあります。
 巨岩をもって築かれた豪壮な石垣であり、寺の位置、地形等から考え、有事に備えての城郭の役を兼ねたものと思われます。
 指定区域内には凌雲寺開山塔、大内義興及びその婦人の墓と称する石塔三基が残っています。

(現地案内板より)

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大きな自然石です。加工などしていないそうです。
花崗閃緑岩(かこうせんりょくがん)がほとんどですが、石質斑岩もあります。
花崗閃緑岩は、地蔵峠など西鳳翩山〜東鳳翩山で産出し、西浴川流域で転石が多くみられる。石質斑岩などの周防変成岩も、凌雲寺周辺で採取できる。こうした恵まれた石材環境のなかで凌雲寺の石垣は築かれた。
(配布資料「凌雲寺跡ってとんなとこ?」より引用)
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日本の石垣はたいてい片面が石を積んだもので、もう片面は土手になっているのに対して、凌雲寺の石垣は、両面に大きな石を積み上げられ、その隙間を小石で埋める構造になっています。
朝鮮半島の城や、沖縄のグスク(沖縄地方の城・とりで)の石垣に類似しているとのことです。このことから、大内氏が朝鮮半島等など海外と盛んに交流していた影響がうかがえます。

(『吉敷さんぽ』「U章04凌雲寺と発掘調査」「凌雲寺」P89参照)
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内側は少し小さい石が使われています。
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門の中の石組。
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1,000点以上の遺物が出土しました。
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一帯が水田とされた際に柱穴や礎石の類が破壊され、伽藍や本堂等の配置の確認は難しいとされています。
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白い棒が立っていますが、地下調査のポイントだそうです。
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水路。
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こうして惣門を後にします。
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思っていた以上にとても壮大で、どんな寺院が建っていたか、ロマンが掻き立てられます。

2007(平成19)年9月、奈良文化財研究所と共同で地中レーダー探査を実施し、2010年(平成22)年から発掘調査が行っています。
現在のところ、凌雲寺の建物跡はまだ発見されていませんが、多量の瓦が出土することから、瓦ぶきの建物が建っていたことがうかがえます。
大半を占めるのは戦国時代の瓦です。大内氏の家紋「大内菱」とみられる文様を飾った軒丸瓦も確認されており、大内氏ゆかりの遺跡であったことがうかがいしれます。
土器の年代は16世紀始めから中頃を中心とし、義興や義隆が活躍した戦国時代と見られています。京都系土師器皿とよばれる土器が多いのが特徴的で、中国や朝鮮から輸入された陶磁器類、備前産の擂鉢などが見付かっています。
惣門跡の石壁のほかにも、石垣が数多く残っていることもわかりました。段上の石組を設けた石垣もあり、寺の中心部へと向かう階段遺構と考えられています。階段の幅が4mであったことも判明しました。
(『吉敷さんぽ』「U章04凌雲寺と発掘調査」「発掘調査」P90〜91参照)

ところで、地質学的な説明をしてくださった元山口大学理学部の西村先生は、凌雲寺跡の石垣の石 4667個全てを調査され、それそれが何の石か分類されたそうです。
他の調査に関係されている方もそうですが、地道な調査に本当に頭が下がります。
さらに、調査が進み、謎が少しでも解けていくことを願っています。


【次回へ続く】
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