「大岡昇平と中原中也」を観に行きましたH @ 中原中也記念館
[2018年09月15日(Sat)]
【前回の続き】
昨日の中也の写真の話の続きです。
この8月に出た『花美術館』 Vol.61(花美術館)でも、中也の死後1938年4月に出た第2詩集『在りし日の歌』(創元社)の巻頭写真と同じく、中也18歳の時東京銀座の有賀写真館で撮った写真が使われています。
大岡はいわゆる中也の写真として有名なお釜帽子のこの肖像写真は嫌いなようです。
中原中也の生前、私は彼の写真は一度しか見たことがなかった。それは、現在中也像として最もポピュラーなお釜帽子の肖像写真である。大正十四〜五年、十八〜九歳と推定、その頃有賀という、銀座の有名な写真館でとった。(略)
この写真を見せられたのは昭和3年だったが、現物の中原と違っているので、「何だ、こりゃあ」といったら、彼はくさった、それから自分の写真を見せなくなった。それが、今日、彼の代表的写真象になっているのだから、皮肉である。
先入観に捉われていたのかも知れない。なぜなら、没後一年の昭和十三年に出版された『在りし日の歌』の巻頭に載ったのはこの写真で(略)
もう一つ半身像がある。昭和十年、母の要請によってNHKに入社しようとした時の手札写真で、背広を着て、ネクタイをしめている。(略)
いやいやカメラを凝視している。私はこの方が、私の付合った頃の印象に近くて好きだ。その表情に「自分自身以外の何者にもなるまい」との主張を読んだ。
(初出『新潮日本文学アルバム30 中原中也』(新潮社 1985.5)巻末「〈エッセイ〉一枚の写真 詩人と写真」P.97〜101)(『大岡昇平全集18 評論X』(筑摩書房 1995.1)「詩人と写真」P.670〜672)
展示には、『わが師わが友』(創元社 1953)より下記文章が展示してありました。
門の前で涙をよく拭ってから入った。(略)棺の上の中原の写真を見ちゃいられなかった。
線香を二、三本取って、二つに折ろうとしたが、手がふるえて、五つにも六つにも折れてしまった。あげることもできな粉々の奴を、自分の手の中に見て、僕は慟哭でこらえれなかった。(略)
中也のお棺の前で一番泣いたのは大岡のようで、中也の弟・思郎の『兄中原中也と祖先たち』(審美社 1970.5)P.77にも、
(略)大岡さんがのしかかるようにして棺をのぞき破裂するように泣かれた情景が今でも鮮明に目に残っている(略)
とあります。
【続きはまた…】
昨日の中也の写真の話の続きです。
この8月に出た『花美術館』 Vol.61(花美術館)でも、中也の死後1938年4月に出た第2詩集『在りし日の歌』(創元社)の巻頭写真と同じく、中也18歳の時東京銀座の有賀写真館で撮った写真が使われています。
大岡はいわゆる中也の写真として有名なお釜帽子のこの肖像写真は嫌いなようです。
中原中也の生前、私は彼の写真は一度しか見たことがなかった。それは、現在中也像として最もポピュラーなお釜帽子の肖像写真である。大正十四〜五年、十八〜九歳と推定、その頃有賀という、銀座の有名な写真館でとった。(略)
この写真を見せられたのは昭和3年だったが、現物の中原と違っているので、「何だ、こりゃあ」といったら、彼はくさった、それから自分の写真を見せなくなった。それが、今日、彼の代表的写真象になっているのだから、皮肉である。
先入観に捉われていたのかも知れない。なぜなら、没後一年の昭和十三年に出版された『在りし日の歌』の巻頭に載ったのはこの写真で(略)
もう一つ半身像がある。昭和十年、母の要請によってNHKに入社しようとした時の手札写真で、背広を着て、ネクタイをしめている。(略)
いやいやカメラを凝視している。私はこの方が、私の付合った頃の印象に近くて好きだ。その表情に「自分自身以外の何者にもなるまい」との主張を読んだ。
(初出『新潮日本文学アルバム30 中原中也』(新潮社 1985.5)巻末「〈エッセイ〉一枚の写真 詩人と写真」P.97〜101)(『大岡昇平全集18 評論X』(筑摩書房 1995.1)「詩人と写真」P.670〜672)
展示には、『わが師わが友』(創元社 1953)より下記文章が展示してありました。
門の前で涙をよく拭ってから入った。(略)棺の上の中原の写真を見ちゃいられなかった。
線香を二、三本取って、二つに折ろうとしたが、手がふるえて、五つにも六つにも折れてしまった。あげることもできな粉々の奴を、自分の手の中に見て、僕は慟哭でこらえれなかった。(略)
中也のお棺の前で一番泣いたのは大岡のようで、中也の弟・思郎の『兄中原中也と祖先たち』(審美社 1970.5)P.77にも、
(略)大岡さんがのしかかるようにして棺をのぞき破裂するように泣かれた情景が今でも鮮明に目に残っている(略)
とあります。
【続きはまた…】