井上公園 @ 中原中也ゆかりの地
[2018年08月29日(Wed)]
中原中也(1907(明治40)〜1937(昭和12))の「帰郷」の詩碑がある
井上公園をご紹介します
中原中也誕生の地に建つ
中原中也記念館のすぐ近くにあり、
公園通りに面しています。
マンホールの蓋は白狐が見つけた湯田温泉らしく白狐がデザインされています。
井上公園は、「高田御殿」とも呼ばれた井上馨(1836(天保6)年〜1915(大正4)年)の生まれ育った屋敷跡に、大正時代初め頃に整備され、通称ですが、井上公園として市民に定着していました。
昭和初期の再整備時に地名から高田公園と名称がつけられました。
歴史公園として整備するにあたり、2012(平成24)年3月に元の井上公園という名称へ戻されました。
公園案内図に沿って、園内を歩きましょう。
@七卿の碑
幕末の1863年の政変で三条実美ら7人の公家が京都から追放された七卿落ちで7人が滞在したことから1926(大正15)年11月に顕彰碑が建立されました。
この七卿碑の建立には、中原中也の父 中原謙助が発起人の一人として深く関わっています。
謙助は郷土史の好きな友人に触発されて友人とともに「湯田七卿遺跡保存会」を発足し、毛利男爵を会長に据えて寄附を募り建設しました。
大正15年11月11日に盛大に除幕式が行われました。
(中原中也記念館公式ガイドブック『中原中也の世界』(中原中也記念館 2014.2)より引用)
1926(大正15)年は、中也19歳の時でした。
中也はその当時、東京に暮らし、日本大学予科に入学し、アテネ・フランセに通っていました。
書は長州三筆の一人、野村素介です。
B所郁太郎顕彰碑
D井上馨の銅像
1912(大正元)年12月25日に、井上馨像の除幕がありました。このときの銅像は、もとは東京麻布の井上馨邸にあったものを移したもので、のち、戦争中に供出されました。
現在の銅像は1956(昭和31)年に建立されたもので、山口県平生町出身の彫刻家河内山賢祐によるものです。
E井上馨の碑
F中原中也 詩碑
詩集『山羊の歌』に収録されている「帰郷」の一節が刻まれています。詩句は中也と最も関係の深かった小林秀雄の手で書かれ、碑文は大岡昇平によるものです。
除幕式には、かつての友人である、小林秀雄、河上徹太郎、大岡昇平、今日出海らも出席し、母フク、弟思郎の手で除幕されました。
(中原中也記念館公式ガイドブック『中原中也の世界』(中原中也記念館 2014.2)より引用)
小林秀雄書による詩句
大岡昇平による碑文
G龍尾の手水鉢
龍尾の手水鉢碑
H複合遊具
白狐
SL
I三条実美 歌碑
J種田山頭火 句碑
K瓢箪池と夜泣き石
L何遠亭
1864(元治元)年5月1日〜11月15日、八・一八政変で京都から下向してきた七卿のリーダーの三条実美が滞在しました。井上家は手狭であったため急遽敷地内に二間の離れを建て、そちらに滞在しました。その離れを加藤有隣が何遠亭(かえんてい)と名付けました。それをを再現して建てられた建物です。
N何遠亭跡の碑
O井上馨生誕跡地の碑
P三条実美お手植松
Q足湯
無料です。とっても、気持ちいいです
昔、ちょっと小高いところに湯田温泉神社の社(祠)があったはずなので、探してみましたが、見当たりませんでした。
そこで、何遠亭の管理人の方にお聞きしたところ、昔は確かにあった由、ずっと以前に朝倉の湯田温泉神社にお返したそうです。
今回この井上公園の記事を書くにあたって、疑問に思ったことが2つあります。
1つは、公園の名称の変遷です。私の子どもの頃、確かに井上公園と呼んでいました。いつ頃か高田公園という名前に変わって、なかなか馴染めず、ついつい井上公園と言っていました。なので、銘板の井上公園についての記述が???な感じです。
2つめは、温泉神社の社(祠)のことです。最近アップされたブログの記述にも「井上(高田)公園に社がある」とあります。いつまであったのか調べてみたい、と思います。
(2018年8月24日・28日撮影)
井上公園をご紹介します
中原中也誕生の地に建つ
中原中也記念館のすぐ近くにあり、
公園通りに面しています。
マンホールの蓋は白狐が見つけた湯田温泉らしく白狐がデザインされています。
井上公園は、「高田御殿」とも呼ばれた井上馨(1836(天保6)年〜1915(大正4)年)の生まれ育った屋敷跡に、大正時代初め頃に整備され、通称ですが、井上公園として市民に定着していました。
昭和初期の再整備時に地名から高田公園と名称がつけられました。
歴史公園として整備するにあたり、2012(平成24)年3月に元の井上公園という名称へ戻されました。
公園案内図に沿って、園内を歩きましょう。
@七卿の碑
幕末の1863年の政変で三条実美ら7人の公家が京都から追放された七卿落ちで7人が滞在したことから1926(大正15)年11月に顕彰碑が建立されました。
この七卿碑の建立には、中原中也の父 中原謙助が発起人の一人として深く関わっています。
謙助は郷土史の好きな友人に触発されて友人とともに「湯田七卿遺跡保存会」を発足し、毛利男爵を会長に据えて寄附を募り建設しました。
大正15年11月11日に盛大に除幕式が行われました。
(中原中也記念館公式ガイドブック『中原中也の世界』(中原中也記念館 2014.2)より引用)
1926(大正15)年は、中也19歳の時でした。
中也はその当時、東京に暮らし、日本大学予科に入学し、アテネ・フランセに通っていました。
書は長州三筆の一人、野村素介です。
B所郁太郎顕彰碑
D井上馨の銅像
1912(大正元)年12月25日に、井上馨像の除幕がありました。このときの銅像は、もとは東京麻布の井上馨邸にあったものを移したもので、のち、戦争中に供出されました。
現在の銅像は1956(昭和31)年に建立されたもので、山口県平生町出身の彫刻家河内山賢祐によるものです。
E井上馨の碑
F中原中也 詩碑
詩集『山羊の歌』に収録されている「帰郷」の一節が刻まれています。詩句は中也と最も関係の深かった小林秀雄の手で書かれ、碑文は大岡昇平によるものです。
除幕式には、かつての友人である、小林秀雄、河上徹太郎、大岡昇平、今日出海らも出席し、母フク、弟思郎の手で除幕されました。
(中原中也記念館公式ガイドブック『中原中也の世界』(中原中也記念館 2014.2)より引用)
小林秀雄書による詩句
大岡昇平による碑文
G龍尾の手水鉢
龍尾の手水鉢碑
H複合遊具
白狐
SL
I三条実美 歌碑
J種田山頭火 句碑
K瓢箪池と夜泣き石
L何遠亭
1864(元治元)年5月1日〜11月15日、八・一八政変で京都から下向してきた七卿のリーダーの三条実美が滞在しました。井上家は手狭であったため急遽敷地内に二間の離れを建て、そちらに滞在しました。その離れを加藤有隣が何遠亭(かえんてい)と名付けました。それをを再現して建てられた建物です。
N何遠亭跡の碑
O井上馨生誕跡地の碑
P三条実美お手植松
Q足湯
無料です。とっても、気持ちいいです
昔、ちょっと小高いところに湯田温泉神社の社(祠)があったはずなので、探してみましたが、見当たりませんでした。
そこで、何遠亭の管理人の方にお聞きしたところ、昔は確かにあった由、ずっと以前に朝倉の湯田温泉神社にお返したそうです。
今回この井上公園の記事を書くにあたって、疑問に思ったことが2つあります。
1つは、公園の名称の変遷です。私の子どもの頃、確かに井上公園と呼んでいました。いつ頃か高田公園という名前に変わって、なかなか馴染めず、ついつい井上公園と言っていました。なので、銘板の井上公園についての記述が???な感じです。
2つめは、温泉神社の社(祠)のことです。最近アップされたブログの記述にも「井上(高田)公園に社がある」とあります。いつまであったのか調べてみたい、と思います。
(2018年8月24日・28日撮影)