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こどもと本ジョイントネット21・山口


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司馬遼太郎『ひとびとの跫音』 @ 富永太郎と中原中也A [2019年09月22日(Sun)]
【前回より続く】

今回の展覧会では、「(無題 京都)」「詩3篇 無題 冨倉徳次郎に)」「秋の愁歎」「AU RINBAUD」「深夜の道士」「鳥獣剥製所」「PANTOMIME」「COLLOQUE MOQUEUR」「俯瞰景」「橋の上の自画像」など太郎の自筆原稿が展示してあります。
これらは全て、県立神奈川近代文学館が所蔵しています。
太郎の弟 次郎の長男 富永一矢さんからの寄贈です。

2Fに展示してある鉛筆書きの「遺産分配書」は、中原中也記念館の所蔵です。
正岡忠三郎が旧蔵していましたぴかぴか(新しい)
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 わが女王へ。決して穢れなかつた私の魂よりも、
更に清淨な私の兩眼の眞珠を。おんみの不思議な
夜宴の觴〈さかづき・しょう〉に投げ入れられようために。 

 善意ある港の朝の微風へ。昨夜の酒に濡れた柔
かい私の髮を。――蝋燭を消せば、海の旗、陸の
旗。人間は惱まないやうに造られてある。

 わが友M*** へ。君がしばしば快く客となつ
てくれた私のSabbatの洞穴の記念に、一本の蜥蜴
の脚を、すなはち蠢めく私の小指を。――君の安
らかならんことを。今日もまた、陽《ひ》は倦怠の頂點
を燃やす。

 シエヘラザートへ。鳥肌よりもみじめな一夜分
の私の歴史を。

 S港の足蹇《あしなへ》へ。私の兩脚を。君の兩腕を斷つて、
肩からこれを生やしたまへ。私の血は想像し得ら
れる限り不純だから、もしそれが新月の夜ならば、
君は壁を攀ぢて天に昇ることが出來る。

 ***孃へ。私の悲しみを。

 賣笑婦T***へ。おまへがどれほど笑ひを愛
する被造物であるかを確かめるために、兩乳房《ちち》の
間に蠍のやうな接吻を。

 巖頭に立つて黄銅のホルンを吹く者へ。私の夢
を。――紫の雨、螢光する泥の大陸。――ヸオロ
ンは夜鳥の夢に花を咲かす。

 母上へ。私の骸は、やつぱりあなたの豚小屋へ
返す。幼年時を被ふかずかずの抱擁の、沁み入る
やうな記憶と共に。

 泡立つ春へ。pang ! pang !



「遺産分配書」は1925(大正14)年4月ごろの制作と推定されています。
ここで、「わが友M***」というのは、正岡忠三郎ではないかと思うのです。

1Fに展示されている「正岡忠三郎日記7」は涙を誘います。
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 十一月十二日(木)
(略)
 午後一時頃、「きたない」といって、鼻にはめた(酸素吸入器の)ゴム管を自分の手で取る。
 其の儘にしておく

 「ちうさん、ちうさん」と二言

 死、午後一時二分


と太郎の最期の言葉は「忠さん、忠さん」でした。

以前から、中也の京都時代の動向を知るため、忠三郎の日記はよく展示してありました。細かい丁寧な字で細々と日記をつける人だなあ、というくらいの認識でした。(スミマセンちっ(怒った顔)
しかし、今回の特別展で、俄然、忠三郎に興味がわき、司馬遼太郎『ひとびとの跫音』(中央公論新社 1981.7)に忠三郎のことを書いているというので、読んでみました(引用のページ数は中央公論新社の新装改版(2009.8)によります)ぴかぴか(新しい)
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 富永太郎についておどろくことは、この若い最晩年の四年あまりのあいだに(太郎が二高を止めて以後)、仙台もしくは京都、松山にいる忠三郎さんあてに集中的に手紙をかいていることである。忠三郎が保存しているだけで一五六通という容易ならぬ数で、ならせば太郎は十日に一通は書いていたのではないか。(P156引用)

 生きる時間のみじかすぎた富永太郎はその文学的評価のわりには、生前、発表された詩があまりにすくなかった。(略)
 しかしそれにつけても、ごく素朴な次元のことながら、富永太郎の手紙を保《も》ちよく蔵《し》まっていた忠三郎というひとの性格が、太郎研究にとっての縁の下に横たわっている。
(P157引用)

 ともかくも最晩年の富永太郎は、忠三郎さんに対し、青春の煩悶や芸術思想の上での彷徨、模索、ときに主張を書きつづけ、しかもつづけ了《お》えた。(略)その書簡のなかで忠三郎さんあてのものが太郎の文学と思想を知る上での脊梁《せきりょう》をなしている。(P157引用)

じかに忠三郎さんに会ったところで、忠三郎さんからどれほどのものを得られるかとなると疑問で、本来、京都にいるこの友人がそういう存在ではないことを太郎は知っていたはずであった。太郎の場合、忠三郎さんというのは一個の巨大なふんいきで、それにくるまれてさえいれば自己を解放でき、手紙を書きつづけることによって自己が剥き身になり、意外なものを自分の中に見出すことができるという存在であったろう。このため書簡の形式によってでもよく、また絵を描いてそれを送りつけてもよかった。ついでながら太郎はこの前年から川端画塾などに通っていて、自分の中にある詩情のもとの赤脹れしたようなきわどいものをあらわに造形化するという表現の場ももっていた。(P185引用)

 あや子(註:忠三郎の妻)さんが嫁いできてほどないころ、古箪笥の中を整理していたとき、手に絡んだものがあり、ひきあげてみると、一房の黒髪だった。(略)
 ―おれのたからものだ。
 とは、忠三郎さんはいわなかったが、そういう表情のまましばらく細い呼吸をくりかえしてから、
「富永の髪だ」
 と、いった。(略)同年十月二十五日、大喀血。十一月五日、危篤。(略)忠三郎さんは京都から駆けつけ、死までの六日間、つきっきりで看病した。そのとき、髪をそっと切ってポケットに入れたのではないか。
(P441〜442引用)

 忠三郎さんは生涯で何をしたひとでもなかったが、ただ存在しているだけでまわりのひとびとになにごとかを感じさせるような人柄を持っていた。(P427引用)


中原中也記念館は152通正岡忠三郎宛富永太郎書簡を所蔵していますかわいい
今回の特別展では、そのうち13通が展示してあります。

いつか、中原中也記念館が所蔵している太郎の忠三郎宛書簡の全てが展示される特別展を期待しています揺れるハート

【次回へ続く】
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