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こどもと本ジョイントネット21・山口


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原稿用紙 @ 富永太郎と中原中也展C [2019年09月29日(Sun)]
【前回より続く】

太郎の詩と中也の詩は、それを観察するに、業念などに相似的な世界のものがあります。そもそも、何か「同じ匂いがする」と思ったら、原稿用紙が同じものが多かったのでしたぴかぴか(新しい)

展示されている太郎の原稿の多くが、「東京 文房堂製」と銘の入った原稿用紙揺れるハート
文房堂原稿用紙@.gif

B4くらいで赤茶色の枠線です。それも、20行×25文字の500字詰めかわいい

文房堂は「ぶんぽうどう」と読み、約130年の歴史の中で、原稿用紙や大学ノート、五線紙などの商品は一番最初の文房具店の時からあったそうです。

文房堂は明治20年に創業し、輸入文具や画材を販売していましたが、程なく、オリジナルの文具を製造販売するようになりました。品質にこだわりぬいた文房堂の原稿用紙は、明治、大正、昭和にかけて多くの人々に愛されました。
文房堂では、明治から昭和初期にかけて、さまざまなタイプの原稿用紙を製造、販売しておりました。特に、500字詰め原稿用紙を製造していた会社は日本で2社しかなく、大変めずらしいものです。
文房堂HPより)

池田治朗吉が明治20(1887)年に創業。合名会社として四代目まで代々治朗吉を襲名していく。輸入文具の取扱をメインに行っていたが、文房堂オリジナル商品の開発・販売も開始。また福沢諭吉に西洋美術の輸入販売を勧められ、文房具だけでなく美術用品の品揃えも豊富となった。明治39年に現在の千代田区神田神保町に店舗を新築。大正11年 現在の社屋(外壁)完成。当時では珍しい鉄筋造りであったおかげで震災や戦火をくぐりぬけた社屋は、レンガ造りの外観をそのまま残し、背面の建物を建て替える特殊工法で現在まで保存されている。中也が訪れていた大正から昭和にかけて文房堂には、たくさんの文士や画家を目指す学生が足を運んで文具や画材を買い求めた。(『第15回中野区ゆかりの著作者紹介展示 中也と中野と中央線』(中野区立中央図書館 2019.3))

 中原が使った原稿用紙には右の罫線のゆがみ、こわれなどを計算に入れて分類すると、六十種類ある。一番多いのは25×10×2の五百字詰の文房堂製である。
これは神田駿河台下にいまでもある画材店で、明治四十二、三年頃から、原稿用紙を作り出した。日本橋の丸善、本郷の松屋、新宿の甲州屋と並んで、昭和初期、最も人気のあった原稿用紙である。
 中原が使ったので一番古いのは、大正十三年十一月頃の24×10×2の四百八十字詰という特殊な型である。同じ頃富永太郎も使っており、当時二人は京都にいたから多分文房堂の京都代理店「画箋堂」で買ったのであろうと思う。

(『群衆』四月号(第24巻第4号 1969.4 講談社)「再説・原稿用紙」(大岡昇平))(『大岡昇平全集18』(筑摩書房 1995.1)「再説・原稿用紙」P460引用)

(略)ここの原稿用紙も丸善製のように百枚ひと組みであったが、印刷はアズキ色で明るい上に、色が薄い。最初は「子持ち」罫で囲んでいたが、次第に点線が一本入っているだけになる。区切り線も点線で、全体として枡目の束縛をより感じさせないようにできていた。
 これを小林秀雄、中原中也に紹介したのは、富永太郎であった、と私は指定している。現在私の手許には小林秀雄の初期手稿と富永太郎の遺稿がある。富永は最初は丸善製を使っているが、大正十二年十一月末の「熱情的なフーガ」から文房堂製を使いはじめ、それは二年後の死まで変わらない。(略)
 中原中也は大正十三年十一月の散文「耕二のこと:、戯曲「夢」から文房堂に入っている。(略)
 当時は四百字詰は一般的ではなく、むしろ25×24の六百字詰或いは25×20の五百字詰が優勢であった。四百字詰は小説家のもので、論文は六百字詰を使ったと思われる。(略)
 富永、中原のような詩人は五百字を多く使っている。詩は上を二、三字空けて書くから、下に余裕がある方が坐りがいいからであろう。たまに四百字詰の使用例があるのは、気分転換のためだったろう。
 中原は大正十四年には四百字詰小型を使っているが、大正十五年から五百字詰が安定して来る。

(『文芸』新年特大号(第8巻第1号 河出書房新社 1969.1)「原稿用紙」(大岡昇平) )(『大岡昇平全集18』(筑摩書房 1995.1)「原稿用紙」P454〜456引用)

原稿用紙は、字数、寸法、余白の幅、枠線の色など商品によって様々な違いがあります。

そこで、今回展示してある文房堂製の原稿用紙に限ってですが、分類してみました。
※「東京 文房堂製」と入った活字のポイントの違いや位置な微妙な違いもあるのですが、それは、今回は区別していません。

(1)500字詰
@「人工天国」(大正12年5月29日推定)
 「COLLOQUE MOQUEUR」(大正12年4月)
マス目の周りの線が上と右縦のみ。
ノンブル用のかっこが左上にある。
下に「10×25」と入っている。
「東京 文房堂製」の銘。
0413814E-1310-49E8-9EC6-97FCD0775856.jpeg「人工天国」 E2732AA0-FA6E-42AD-BBF4-E580FB658475.jpeg「COLLOQUE MOQUEUR」

A「俯瞰景」
マス目の周りの線が上と右縦と下の3か所。
下に「10ー25」と入っている。
「(東京 文房堂製)」と銘にかっこがついている。

B「河上に呈する詩論」(中原中也)(昭和4年6月27日)
 「小詩論――小林秀雄に」(中原中也)(昭和2年初頭)
 「詩的履歴書」(中原中也)(昭和11年8月推定)
 「朝の歌」(中原中也)
マス目の周りの線が上と右縦と下の3か所。
下に「10ー25」と入っている。
「東京 文房堂製」と銘。
33DEE505-D5A1-451F-BB1C-2B5D7C04BA2B.jpeg「小詩論」 B4F2115B-02D6-47C1-98ED-33A8FB9E30A2.jpeg「詩的履歴書」 5D906337-8754-417E-BBBB-48D3E0E3DB59.jpeg「朝の歌」

こちらは、復刻して販売されています。
以前、中原中也記念館でも販売されていたので、すぐにGETし、文房具オタクで原稿用紙マニアの友人にプレゼントしましたわーい(嬉しい顔)
(お返しは、司馬遼太郎の原稿用紙でしたかわいい
文房堂原稿用紙B.gif

(2)480字詰(24字×20行)
「遺産分配書」(大正14年2月)
「鳥獣剥製所」(大正14年(推定))
「正岡忠三郎宛書簡」(大正14年1月15日付)(宮沢賢治の詩を同封)
「詩三篇 無題(富倉次郎に)」
周りに太罫の四角の囲み(子持ち罫)。
真ん中に魚尾あり。
「(東京 文房堂製)」と銘にかっこがついている。
AF751B08-DABC-412A-94D3-1329FC36139B.jpeg「遺産分配書」 71EF72AA-5F6D-424E-8945-528EE9D96F46.jpeg「鳥獣剥製所」 73346035-0ABA-4C40-9F44-1009D895424B.jpeg「正岡忠三郎宛書簡」

(3)400字詰(20字×20行)
「ランボオへ」(富永太郎/作 中原中也/筆)(大正14年11月下旬筆)
マス目の周りの線が上と右縦と下の3か所。
下に「10ー20」と入っている。
「東京 文房堂製」と銘。
962BE5BD-2AE8-4D90-8B68-C651F4B07C0A.jpeg「ランボオへ」

(4)一回り小さいA4サイズくらいの400字詰(20字×20行)
@「秋の愁嘆」(中原中也)(大正14年10月7日)
周りに太罫の四角の囲み(子持ち罫)。
真ん中に魚尾あり。
「(東京 文房堂製)」と銘にかっこがついている。
2213B5FD-E4A8-4DA5-9DAE-5FC16F1B949D.jpeg

A「或る心の一季節」(中原中也)(大正14年春推定)
周りに太罫の四角の囲み(子持ち罫)。
真ん中に魚尾あり。
「(東京 文房堂製)G」とある。
DA19E9E6-229F-409A-A0D7-8842CC73E030.jpeg


太郎の自筆原稿を観る機会は今後余りないかもしれませんが、中也の原稿については、原稿用紙という観点でも今後も観察を続けたい、と思っています。
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