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こどもと本ジョイントネット21・山口


〜すべての子どもに本との出会いを〜

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石仏と中尾の伝説「塩原」 @ 中尾の文化財さんぽA [2019年05月08日(Wed)]
【前回の続き】

赤田神社を後にして進みます。

地蔵
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 安永七戊戌
三界萬霊

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三界とは、無色界(むしきかい)・色界(しきかい)・欲界(よくかい)の三つを指します。
安永7年は1778年なので、約240年前の石仏です。
安政7年にお地蔵様を建てるようなできごとがあったか、という質問がありましたが、調べたけど確認できなかった、という回答でした。


すてきな木の橋が架かっていました。
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ログハウスに巣箱が架けてありました。
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阿弥陀仏
高さ54p。丸山下561の桑原家入口にあります。
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仏なので、ちゃんと頭髪は螺髪(らほつ)となっており、眉間には白毫(びゃくごう)が付いています。
定印(じょういん)を結んでいらっしゃいます。
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六地蔵
光背型浮彫立像
もともと丸山墓地の入口にあったが、道路拡張の時境内入り、この墓地が無住放任になったので、昭和9年にこの地に移設された。
(右より2番目)享保五庚(1720)
(右より2番目)享保五庚九月吉日
(一番左)   享保五庚

(『山口市の石仏・石塔(1)―平川・大歳・吉敷―』(山口の文化財を守る会 2002(平成14).3)より)
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六地蔵とは
六道において衆生の苦しみを救うという六種の地蔵菩薩。すなわち、地獄道を救う檀陀(だんだ)、餓鬼道を救う宝珠、畜生道を救う宝印、修羅道を救う持地(じじ)、人道を救う除蓋障、天道を救う日光の各地蔵の総称。また、延命・宝処・宝手・持地・宝印手・堅固意の六地蔵とする説もある。(大辞林 第三版より)
です。
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移設しているため、順番に並んでいないので、どれがどれと明言できないとのことです。
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予定を変えて、中尾公民館で昼食です。
地域の皆さんがお茶やお菓子でご接待してくださいましたわーい(嬉しい顔)

もと、山口市立良城小学校鳳南分校だったそうで、川を利用した天然のプールがありました。
立派な桜が満開でした。
藤棚もあり、地区で大切にされているのがよく分かります。
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吉敷地区地域づくり協議会の皆さんが、中尾の伝説「塩原」と、
実際に県庁裏の法泉寺跡から法泉寺峠を越え中尾に出て塩原の場所を確認された話をしてくださいました揺れるハート
こちらのサイトに報告書「法泉寺峠ルート探索(凌雲寺から法泉寺への旧道現状認識作業)」があります。
  
「塩原」
山口市中尾に塩原というところがあります。
1551(天文20)年8月27日、陶晴賢(隆房)はついに挙兵し、富田若山城を出発し山口を襲撃しました。
その時、大内義隆は大内屋形にいましたが、平地であるので防戦に不利であると、滝の法泉寺に退いて戦うことにしました。
明けて28日、義隆は法泉寺に入りました。従う兵は三千余。陶の軍は五千余。
義隆は、法泉寺においても防ぎ難いと、同夜、山口を去ることにしました。
普通は糸米からの道を行くところですが、すでにこのあたりは、陶の軍が待ち構えているだろうということで、法泉寺の裏山から法泉寺峠を越えれば、凌雲寺への最短距離でもあり、険しい難行の道なので、安全だろうということになり、裏道を行くことにしました。
こうして、やっとのことで義隆は中尾に着きました。
この時最後尾を護衛していた兵が、陶の軍に追い付かれ、一戦を交え、双方に多数の戦死者が出ました。
この戦った場所を、義隆の軍と陶の軍が勝負をしたことから、当時は「勝負原」と言っていたそうです。
里人はこの死骸を懇ろに弔い、塩をまいて浄めたということから、何時の間にか「塩原」と言うようになりました。
今でもこの付近には所々に丸い石がころがっていますが、これはその時の墓石ということです。そして、この付近の石を無造作に動かすと、なんらかの祟りがあると言われています。
(聞いたお話をまとめました。おかしいところがあるかもしれません)

塩原は、この先だと思うのですが……。
今度、鋤尖山の方まで足をのばした時は確認してみようと思います。
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(▲2018年11月19日撮影)


庚申塔
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さらに進みます。
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グミの花が咲いていました。
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大師堂の石組み。
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砂岩。
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この道を行くと、国道9号バイパスの木戸神社のところに出ます。
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【次回に続く】
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