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(8)企業大学人によるハラスメントを当事者側が調査認定する不公 [2019年11月21日(Thu)]
この連続記事にある「後期西田哲学の実践論」(抜き刷り、24ページ)を抽選で、30名様に贈呈します。
葉書で、「後期西田哲学の実践論がほしい」と書いて、住所、お名前をおしらせください。 抽選で、30名様にお送りします。締め切り、11月25日(当日消印有効)。
葉書の送り先は、こちらのトップに表示しています。
http://mindful-therapy.sakura.ne.jp/jimu/jigyou.htm
〒349-0144 埼玉県・・・・・17番5号
大田健次郎、あてに、
(注)今期、マインドフルネス瞑想療法士🄬の認定講座を受講中のひとは、申し込み不要です。

(8)企業大学人によるハラスメントを当事者側が調査認定する不公平

もう一度学問にある専門家多数派のエゴイズムを考える
(8)企業大学人によるハラスメントを当事者側が調査認定する不公平

 
   差別、ハラスメントは、加害の本人は気づきにくいのです。 無意図的であったり、差別を差別、ハラスメントをハラスメントと自覚できないことが多いのです。企業人や大学人によるセクハラ、アカハラ、パワハラを被害者が被害を訴える先が、企業や大学であり、仲間によって調査されます。不公平です。「もみ消される」ことがありえます。綿野恵太氏がこういうことを指摘しています。

 「オフィスやキャンパスで性差別や人種差別は「ハラスメント」として禁止されている(あるいは禁止すべきとされるようになってきている)。 しかし、ハラスメントの調査や認定、処分は企業や大学当局によって行われる。 上司と部下のあいだ、教授と学生のあいだという権力関係にある場で発生した「ハラスメント」であるにもかかわらず、いっぽうの当事者である権力者側(上司や教授)が調査等にあたるとなれば、たほうの当事者(部下や学生)による訴えがもみ消されてしまうことは十分に予想される。」(綿野恵太『「差別はいけないとみんないうけれど』平凡社、p237)

 差別、ハラスメントは、意識されにくいのです。大乗仏教では「煩悩」とされて、道元禅では、己見我利我執などと呼ばれて、自分を観察して意識上にあげて抑制するように厳しく主張されます。 それが自分や他者を傷つけるためです。簡単ではありません。見方考え、行為にあるエゴイズムの心理の有無を評価することが大乗仏教や道元による「マインドフルネス」では重視されています。仲間を甘くするのも、煩悩です。「内集団バイアス」「内集団びいき」があります。気づきのくいのです。

 企業や大学人は、ハラスメントや差別が訴えられた時、仲間をかばい、被害者に不利にすまさないでしょうか。団体側の規則のハラスメントの定義に該当しないとして退けることがないでしょうか。「内集団バイアス」「内集団びいき」で身内に有利にする傾向があります。
 学校におけるいじめ不登校、いじめ自殺の調査にも、これが起きているでしょう。調査結果があとで、くつがえされることが起きています。

 西田哲学でも、実践としては「至誠」が実践方針であるために、臨床の西田哲学の実践では、内集団バイアス、ハラスメントの心理、種々の己見我利我執を観察しなければなりません。日本の観察は厳しいです。
連続記事目次
http://blog.canpan.info/jitou/archive/4413
もう一度学問にある専門家多数派のエゴイズムを考える
(参照)「答えのない世界を生きる」小酒井敏晶、祥伝社


http://blog.canpan.info/jitou/archive/3288
★日本には深い自己観察の哲学と実践がある。

http://blog.canpan.info/jitou/archive/3789
★仏教者の「思想的な怠惰」
Posted by MF総研/大田 at 20:48 | エゴイズム | この記事のURL
(7)世阿弥「離見の見」その2 [2019年11月19日(Tue)]
この連続記事にある「後期西田哲学の実践論」(抜き刷り、24ページ)を抽選で、30名様に贈呈します。
葉書で、「後期西田哲学の実践論がほしい」と書いて、住所、お名前をおしらせください。 抽選で、30名様にお送りします。締め切り、11月25日(当日消印有効)。
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大田健次郎、あてに、
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(7)世阿弥「離見の見」その2

もう一度学問にある専門家多数派のエゴイズムを考える
(7)世阿弥「離見の見」その2

 題名にひかれて1か月前に購入していた本「濃霧の中の方向感覚」(鷲田清一、晶文社)を講座の翌朝、何気なく、手にとって見たところが偶然に世阿弥のことだった。
     「科学(者)への信頼は、何が確実に言えて、何が言えないか、それを科学者自身が明確に述べるところに成り立つ。科学とは、何よりもまずは《限界》の知である。 それを別の言葉でいいかえれば、世界は一つの視点からは見通せないと知ることである。では、どうしたらもっと見晴らしのよい場所に立てるか。世界をより正確に立体視できるよう複眼をもつことであり、一つの事態を多角的に見られるよう一見遠回りともみえるいくつかの補助線を引けることである。

     いったん身を後ろに退くことで得られるこのような広い視野のなかで、じぶんがいま取り組んでいる作業の位置を見定めるというのは、どこか、世阿弥の「離見の見」、つまり舞うじぶんを後ろから見つめるまなざしをもつことに通じるものがある。 民族学者のレヴィ=ストロースは、世阿弥のこの「離見の見」を[・・外国語の文、省略](離れた視点、遥かなる視線)と訳し、これを科学的営為がそなえるべき特性--- むしろ、徳性というべきか---としたのだった。」p256)
 このように世阿弥は深い人間の洞察をいうのです。そして、鷲田氏も科学的営為にもこれがあるべきだというのでしょう。仏教学、禅学、マインドフルネス学はどうでしょうか。

 日曜日の講座で、「マインドフルネスSIMTを悪用しないように」、大乗仏教の龍樹の真摯な態度を学習しました。
 いまも、「マインドフルネス」を濫用したものが教えられています。学者や大学で講義するものは、自分の行いを離れた視点から「マインドフルネス」「観察」すべきなのでしょう。大学は大学人の行いを監視監督し自浄作用をはたして、自ら悪質なものが学内で行われていないか自己反省すべきなのです。自らそれができない大学は、外部から「アカデミックハラスメント」「パワーハラスメント」として訴えられます。自浄作用もないのかと見苦しいことを世間に公けにさらされます。綿野恵太氏がこういうことを指摘したのを見ます。今は、各種の手段があります。
 マインドフルネスにも、低級なものがあります。本で読めるものが多いせいか、大学の講座は受ける価値がないという批評がインターネット上にあります。講師自らが自己を観察して、評価しなければならないのです。自分の講義の言葉、行為を観察して、我利独断でないか評価、受講者の時間と費用をむだにし不快にさせていないか評価すべきです。無評価ではいけないのです。鷲田氏、小坂井氏、オルテガ、フランクルなどがいうこともそういうことなのでしょう。


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★仏教者の「思想的な怠惰」
Posted by MF総研/大田 at 09:09 | エゴイズム | この記事のURL
(6)世阿弥「離見の見」 [2019年11月18日(Mon)]
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(6)世阿弥「離見の見」その1

もう一度学問にある専門家多数派のエゴイズムを考える
(6)世阿弥「離見の見」その1

 不思議なことがあった。昨日、こういうことを講座で語った。世阿弥についてであった。 昨日の記事の末尾近くにこう書いたように。
     こういうのが、本来の大乗仏教であった。西田幾多郎、鈴木大拙、秋月龍a、井筒俊彦(以上は故人)、竹村牧男氏などによれば日本には、鎌倉時代にこれに目覚めた道元や親鸞がいた。世阿弥、千利休、松尾芭蕉などの独特の日本文化の底に流れている。竹村牧男氏によれば、空海にも深いものがある。しかし、深い哲学が大学で教えられていない。誰でも理解できるようなもの、本で読めばわかるもののみが教えられている。
 人間とか、人生とか、幸福とかいうことについて考えている。絶対無、自内證、人格的自己、にかかわる新本を書いている。人生論や幸福論について、欧米のものと日本のものをなるべく見ておいて、それらと、深い西田哲学の実践論としての新本との類似、相違をみておいたほうがいいと思って、ひととおり、日欧の文献をみている。
   人生、幸福、真の自己、仏教、禅などは大変複雑だ。 それなのに、還元主義、全体主義、画一主義の「学問」の本が多い。しかし、少数派のもの、異邦人のものに、いいものがある。
 「答えのない世界を生きる」を見ているのも、簡単な画一的なものに還元することに批判的であるから、本の題にひかれて購入して、今紹介しているところだった。
 もうひとつ、題名にひかれて1か月前に購入していた本が「濃霧の中の方向感覚」(鷲田清一、晶文社)だった。今朝、何気なく、手にとって、目次をみたら、4章が「教育」である。 大学における全体主義、画一主義、還元主義の教育の批判(オルテガやフランクル)について考えていたので、その4章の目次をみて、「おや?」と注目したのが「大学に求められていること」だった。そこから読んでいると、不思議なことがあった。小酒井氏と同様のことをいう。 少しして、世阿弥のことが書いてあったのに遭遇した。
     「科学(者)への信頼は、何が確実に言えて、何が言えないか、それを科学者自身が明確に述べるところに成り立つ。科学とは、何よりもまずは《限界》の知である。 それを別の言葉でいいかえれば、世界は一つの視点からは見通せないと知ることである。では、どうしたらもっと見晴らしのよい場所に立てるか。世界をより正確に立体視できるよう複眼をもつことであり、一つの事態を多角的に見られるよう一見遠回りともみえるいくつかの補助線を引けることである。」
 この後に、世阿弥が出ていたのだ。昨日、講義で世阿弥に深い日本的霊性があると、しゃべった翌日、何げなく取り上げた本に世阿弥が出ていた。
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★仏教者の「思想的な怠惰」
Posted by MF総研/大田 at 20:48 | エゴイズム | この記事のURL
(4)専門家多数派のエゴイズムを考える [2019年11月12日(Tue)]
★2020年度のマインドフルネス瞑想療法士🄬の認定講座

ポージェスのポリヴェーガル理論によりマインドフルネスは限界が指摘されましたが!!
⇒無評価のマインドフルネスの限界
日本のマインドフルネスSIMT(自己洞察瞑想療法)は織り込み済みです。
SIMTには「評価する・される現場」での行動時自己洞察があります。
自己の観察は全体展望を示す哲学が重要です。
それだけに、指導者になるためには、10か月もかけて理論(主に西田哲学、脳神経生理学)と実践を重ねます。
 ⇒2020年度の受付開始(早期申込み割引)

☆相談会= マインドフルネスSIMTによる問題のありかと解決法のアドバイス
主催:マインドフルネス総合研究所
後援:日本マインドフルネス精神療法協会

専門家多数派のエゴイズムを考える
(4)研究者はどうあるべきか

 大学の文科系学問の研究者はどうあるべきか。学生に影響を与え、人生を左右するのであるから、謙虚、誠実であれ。小坂井氏の著書から引用する。(原文には改行がないところにもここでは見やすいように改行した)

 「現在の道徳・法・習慣を常に疑問視し、異議申し立てする社会メカニズムの確保が大切だ。良識と呼ばれる最も執拗な偏見をどうしたら打破できるか。

なるほどと関心する考えや、学ぶ点だと納得される長所は簡単に受け入れられる。 だが、自分に大切な価値観、例えば正義や平等の観念あるいは性タブーに関して、 明らかにまちがいだと思われる信念・習慣にどこまで虚心に、そして真摯にぶつかれるか。 自己のアイデンティティが崩壊する恐怖に抗して、信ずる世界観をどこまで相対化できるか。

 異質性への包容力を高め、世界の多様性を受けとめる訓練を来る世代に施す。 これが人文学の使命である。」(p141)

マインドフルネスに期待、そして失望

 マインドフルネスが日本に紹介された時に、期待した。日本に紹介した早稲田大学の春木豊先生は、包容力のある人だった。マインドフルネスの普及をはかる団体に私を招いてくださった。 京都ではじめておあいした。アメリカのものとは違うマインドフルネスでうつ病などを改善する支援をしていたころだった。
 私が東京に戻ってから、先生の主催するマインドフルネスの団体の理事に招いてくださった。 そこは、様々なマインドフルネスの推進者、研究者が発表していた。私も発表させていただいた。こうした開かれた研究発表の場所があってこそ学問が発展してゆく。ボスと多数派 で支配されることのない発表の場所。

 しかし、先生が亡くなってから、その団体は活動停止した、失望した。やはり、創業者がなくなると内部分解してしまう。大学人の「力」は強い。

 オルテガが大学人のエゴイズムを批判した。
http://blog.canpan.info/jitou/archive/4100
 大学人が権力を使って多数派となり、少数派を排除する。その既得権にしがみつく小市民の貧困な精神と結託して多数派工作。

 小坂井氏もいう。

 「大学人も人間だ。弱い人間だ。群をなせば、そこに権力構造が生れ、学問の理想とかけ離れた世俗の思惑が渦巻く。立派な点前の陰に、既得権にしがみつく小市民の貧困な精神も透けて見える。
 「大学など、なくしてもよい」
正直、そう思う日も少なくない。大学は本当に必要なのか。これは大学人や学生だけの問題ではない。市民社会全体の未来にかかわる選択だ。我々は大学を、そして人間をどうしたいのか。」 (p145)


少数派でも発表できる場を作る

 仏教、禅、マインドフルネスの周辺をかじっているが、この領域では大学には多数派説以外の説を聞く機会がない。春木先生が作って広く学ぼうとした場所を再建したい。小坂井氏の話も聞ける機会を持ちたい。
 今、大学ではない社会人が学ぶ場所(〇〇大学と称している社会人向けの教育機関)にいっている。これに倣い、多様な講師を呼び、毎月1回くらいの講義を提供していくこと、インターネットで募集していく、こういうところを作り、多数派(それは本を読めばいい) とは違う意見(本にない)を知ることができる場を提供する団体を作りたい。
 小坂井氏がいう。少数派が社会を変革すると。それが妥当であれば、それを支持する市民も出てくるだろう。需要が多ければNPO法人にする。
 「一隅を照らす」一隅から変革していく。
 メンバーとなって事務を進めていくことに興味ある人はご連絡ください。

 多数派説はわかりやすいが、すぐあきられる、深い人生問題には解決貢献しない。
 仏教、禅の衰退も、そういうところにもあるのではないか。マインドフルネスがブームになったのを見るとそういう感じがする。開祖には、もっと広く深い観察を言っているはずだ。わかりやすく説明すればいい。悩む市民は反社会的カルトの被害にあうおおそれがある。貴重なものを含む伝統寺院が消滅するのは惜しい。開祖のものはそんなに魅力がないものなのか。私は少数説の禅で救われたのだが。
 仏教、禅には、専門家大学人のようなエゴイズムを「煩悩」(大乗仏教)とか「己見・我利・我執」(道元)といって観察するように強調している。自分の見方(見る時)、考え方、行動にそういうエゴイズムが含まれているという。無評価のマインドフルネスよりも深く、人間を分析している。ポージェスのポリヴェーガル理論が「マインドフルネス」の限界をいうのも、これに関連していると思われる。従来の多数派説だけが仏教学の真相ではないはず、無評価のマインドフルネスだけが「科学学問」ではないはずである。
 各団体の若手は、自己観察の哲学・実践の言葉の多様性を自分の頭で再検討していただき、従来のものでは解決できないで悩む国民を支援していただきたいものと思う。


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Posted by MF総研/大田 at 07:32 | エゴイズム | この記事のURL
(3)内部だけでしか通用しない理論枠に縛られ [2019年11月11日(Mon)]
☆相談会= マインドフルネスSIMTによる問題のありかと解決法のアドバイス
主催:マインドフルネス総合研究所
後援:日本マインドフルネス精神療法協会

(3)内部だけでしか通用しない理論枠に縛られ

 なぜ、変われないのか。小坂井氏の著書から引用する。

 「科学である以上、実証研究は重要だ。だが、重箱の隅をつつくことばからに夢中になって、哲学の議論や認識論の考察に耳を塞いではいかない。米国心理学会の重鎮ジェローム・ブルーナーの嘆きを聞こう。・・・(中略)
     心理学が今ほど細分化された時代はない。・・・ 心理学を構成する各分野の間に交流があってこそ分業が意味を持つというのに、心理学は重心を失い、一貫性もなくなろうとしている。それぞれの分野ごとに固有の組織が生れ、その内部だけでしか通用しない理論枠に縛られている。研究発表も内輪でしか行われない。・・・」(121)
 「自分の頭で考えること(49)がない、先入観(37)を捨てない、「名誉白人症候群」(=舶来重視)(8)、等々数々の問題が指摘されている。
 多数派の閉じた体系になっている。内部だけでは処理、正否判断ができない。「マインドフルネス」は感覚など意識作用を「客観的に観察するというように、定義、理論、思想も、その枠内からはその妥当性は見えない。それを離れて外部から客観的にみた時に、「科学的に」妥当性があるか見えるのであろう。

 多数派は、画一的、全体主義的になりやすい。しかし、批判者が現れる。 多数派のものがすべてのメンバーに同意されるわけではない。批判的なものが現れる。 多数派は現状維持となるので、複雑な社会に合致しない問題、変動していく社会にそぐわないものを変革していくものは、まず少数派である。多数派からは異端、異邦人に見える。

 「文科系学問が扱う問いには原理的に解が存在しない。そこに人文学の果たす役割がある。社会をよりよくするためではない。何が良いかは誰にもわからないからだ。いつになっても絶対にわからないからだ。社会が全体主義に陥らないように多様性を確保する。社会の暴走を防ぐ。そのために異端者がいる。」 (p143)

 仏教の学問にも、禅の学問的多数派に批判的な意見が出てきた。心理学、精神療法も新しいものが出てきた。マインドフルネスもそうで、ポリヴェーガル理論により変化があるだろう。

 仏教や禅の学問で多数派の論が教えられてきて今や魅力を失っている。「寺院崩壊」が言われる。「地方消滅」で「寺院崩壊」は現実味を帯びる。 だが、多数派からは見落としされているものは含まれていることを指摘する人がいる。異端に見えるが、それが、現代世界を変革させていく異邦人かもしれない。寺院崩壊を防ぐかもしれない。

 禅の学問の多数派は「坐禅が尊い、悟りなど妄想だ」というが、少数説は、禅には深い人間哲学もあるというものだ(鈴木大拙、井筒俊彦など)。少数説がこれからの社会問題を変革するものを含んでいるかもしれない。大乗仏教の核心が指摘された(大竹晋氏)が、多数派が排除したものが日本仏教にもあったかもしれない。多数派が深いものは国民に理解されないとして排除したものが、現在の日本の社会問題の解決に貢献できるかもしれない。仏教や禅の学者が、哲学やマインドフルネス学と議論すれは、隠れていたものが見えてきて、仏教や禅が国民から期待される変革を起こすかもしれない。「寺院崩壊」はいかにも惜しい。


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Posted by MF総研/大田 at 11:51 | エゴイズム | この記事のURL
(2)自分の権威・権力の基盤を変えない [2019年11月09日(Sat)]

(2)自分の権威・権力の基盤を変えない

釈尊の平等な教えの真意から離れた思想になった初期仏教

100分de名著の「法華経」が始まりました。 初期仏教は権威主義的になったと解明しています。 それが体系化されて強く主張されました。 部派仏教教団の最も多数派、説一切有部の教団です。 立派な体系を作り、多数で信奉しました。 もう、変われません。それで、おかしいという少数派が別の教えを 主張して、大乗仏教と自称しました。 ここに、初期仏教の専門家が釈尊の後継者といいますが 利己主義的で一般のひとは救済されないような思想となり、 内部の出家に階層を作り、ひとを差別しています。

放送でこのようなことを植木氏が解説しています。テレビをご覧ください。 この教えが主流派、多数派でした。

ここにも、専門家(出家)のエゴイズムがあります。 それに批判的な人が大乗仏教を主張しました。

自分の権威・権力の基盤を変えない

「答えのない世界を生きる」を見ます。

 「科学的真理は定義からして仮説の域を出ない」(p123)。真理と思われても時代によって 変遷していく。「時代を超越する価値は存在しない」(p136)。 「社会は開かれたシステムである異端者が必ず生れ、社会を変える。」(p136)
 各人が各人の夢と希望で行動していくから、社会は変化していく。 そこで、小坂井氏の次の言葉が出てくる。

  「現在正しいとされる理論やデータ解釈、そして方法論が将来も正しい保証はない。 支配的潮流を優遇する近視眼的政策は発見の芽を摘むだけだ。 真に革新的な思想・価値観は常に社会規範に逆らって生れる。 主流派は自分の権威・権力の依って立つ基盤を脅かしてまでパラダイムを変更しない。」 (p131)

 主流派とそれに追随する多数派は、変わろうとしない。しかし、その定義の枠にはずれるもの、時代と環境の変化によって定義に当てはまらないものが顕著であることがわかり、 時代遅れになっていく。
人間は均質ではない。各人に思想、選好、問題意識、生きがいとする意味の世界が違う。 内部のメンバーの中に、同調できないものが批判的な主張をせざるを得ない。 しかし、主流派は「自分の権威・権力の依って立つ基盤を脅かしてまでパラダイムを変更しない。」 自分の地位、名誉、収入、職業の基盤であるから、従来の立場を変えようとはしない。 多数派がしばらく持続する。 しかし、少数意見が徐々に拡大していくと、多数派だった集団は縮小し、消滅する。

 初期仏教は、東南アジアに残るだけである。大乗仏教が広まった。その主張も専門家の学問的だという 主張が広く同意できるものではなくなって市民の意識が離れている。 うつ病の治療は、今は薬物療法が主流であるが、少数派が 精神療法を重視している。心理学も、明治時代以降、様々な心理学の変遷があったはずである。

科学的真理は定義からして仮説の域を出ない、時代を超越する価値は存在しない。 「無評価での観察」のマインドフルネス学は科学学問であっても、範囲も方法も変化していくであろう。 また、マインドフルネスは、それだけでは科学学問ではなく、技術、実践、手法である。 マインドフルネスがそれだけで科学学問ならば、坐禅もヨーガも学問となるであろう。

市民を間違わせないように。 初期仏教教団のマインドフルネスは宗教的実践である。禅の教団の坐禅にも自己洞察があるが、科学学問ではなく 宗教的実践である。

 マインドフルネスも、精密に体系化していくべきだろう。評価とは何か、観察とは何か、どこまでか、どの時か、思考発言行為に含まれるエゴイズム差別の意識は観察しないのか、・・・課題は多い。


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Posted by MF総研/大田 at 08:01 | エゴイズム | この記事のURL
(1)専門家多数派のエゴイズムを考える [2019年11月08日(Fri)]

(1)専門家多数派のエゴイズムを考える

表現の自由をおびやかす事件

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO48223110V00C19A8CR8000/
★愛知の芸術祭展示中止(2019/8)
愛知県で8月1日から開幕した国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で、元従軍慰安婦を象徴した「平和の少女像」などの展示が3日を最後に中止された。

https://www.asahi.com/articles/ASMC73J05MC7UTFK008.html
★オーストリアのウィーンで開かれている展覧会、両国の友好150周年事業としての認定を取り消した。外務省の「総合的な判断」で。(2019/10/30)

https://www.asahi.com/articles/ASMBS3RSXMBSUTIL010.html
★川崎市の「KAWASAKIしんゆり映画祭」で、「主戦場」が上映中止(2019/9/9)

 学問の世界にも、多数の団体の中でも少数派は排除される危険を感じる。なので、少数派はいきにくい。意見を表現しにくい。

 「日本は弱者に優しくとも、逸脱者や反抗者には生きにくい社会だ。 美意識にせよ倫理観にせよ、良いものの基準が社会的に強く規定される。だから均質化しやすい。本来好ましいはずの向上心が仇になる。より良い生き方を目指す時点ですでに我々は誤った道を踏み出しているのではないか。」(p144)

 トップ、上層部、多数派の方法、意見に反対しにくい。すれば、いじめられる、多数派から排除される。だから、忖度して迎合する。社会全体の中の、問題が解決されにくい。

 学問的に見える団体に、大学にも、忖度、排除がある。

 仏教の学問にもある。多数説に批判的な解釈が出ないところに、それが明らかである。

 マインドフルネス学にも起きているかもしれない。アメリカの定義に疑問が出ない。マインドフルネスの団体もあったのに少数派が多数派によって排除された。

 世界は常に変動していくのに、改革意見をいう少数派を排除したら社会は停滞し、ほろびゆく。

 日本の大学、日本に住まないで外部から見るから、客観視して「評価」観察するから見えている人によって、日本人の多数派の異様さを見ていく。
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(1)日本は逸脱者や反抗者には生きにくい社会

http://blog.canpan.info/jitou/archive/4415
(2)自分の権威・権力の基盤を変えない

http://blog.canpan.info/jitou/archive/4417
(3) その内部だけでしか通用しない理論枠に縛られ

http://blog.canpan.info/jitou/archive/4419
(4)研究者はどうあるべきか

http://blog.canpan.info/jitou/archive/4422
(5)母親の愛、絶対の愛

http://blog.canpan.info/jitou/archive/4424
講座の6回目
 大乗仏教者の崇高な倫理
 最も深い日本のマインドフルネス

http://blog.canpan.info/jitou/archive/4426
(6)世阿弥「離見の見」その1

http://blog.canpan.info/jitou/archive/4427
(7)世阿弥「離見の見」その2

http://blog.canpan.info/jitou/archive/4430
(8)企業大学人によるハラスメントを当事者側が調査認定する不公平

(続く)
参考
 次に、専門家、集団トップのエゴイズムの記事のリンクがある
http://blog.canpan.info/jitou/archive/3764
http://blog.canpan.info/jitou/archive/4218
★種々の形で、専門家、多数派のエゴイズム
複雑なことを理解できないものは嫌いだというごく普通の市民も多数派になると、変動してゆく時代環境によって、じわじわと生活基盤が時代遅れとなり、それが自分の首を絞めるのに。
Posted by MF総研/大田 at 07:35 | エゴイズム | この記事のURL
若者を苦しめ自殺させひきこもらせる熟年の支配する組織、これでいいのか [2019年07月24日(Wed)]

若者を苦しめ自殺させひきこもらせる熟年の支配する組織、これでいいのか

権力、地位、金に強欲、パワハラ、セクハラ、アカハラ、ドクハラ、マタハラ、・・・。
中高年(熟年と呼ぼう)の専門家が10代〜30代の若者を自殺させひきこもらせる国日本。
これでいいのか。
これら若者は、熟年の者が引退したあと、熟年の者の子や孫の同胞となるべき人たち。
日本の組織、技術、科学、政治をになっていくはずだった人たち。
それを支援しない熟年のエゴイズム。
ビジネス、すべての産業技術、すべての科学学問、政治の集団。
熟年の専門家はすべて、叡智的自己という西田哲学。

自分だけは喜び、利己主義に動く傾向がある。
道徳がなければ、若者の夢と希望を砕くこともする。
幸福論の哲学によれば、利己主義を抑制するのは道徳だ。
熟年の道徳は何か。

 歌の一節にこうある。

若き希望と 夢の苗
空に伸びろ 青年の樹よ

嵐すさぶ 日もあらむ
憂に暗い 夜もなお
腕くみ合わせ 立ちゆかん 立ちゆかん
熱き心と 意気地持て

明日の夜明けを 告げるもの 告げるもの
我らをおきて 誰かある
国を興せ 青年の樹よ

https://www.uta-net.com/movie/35116/
☆上記はこちらからの抜粋。

明日の夜明けを告げるもの
青年をおきて誰かある
組織、技術集団、学問の集団、政治の集団を興せ、青年の樹よ


本日、NHK Eテレビ 深夜0時、TTV特集。親なきあと我が子は。 歩当事者の保護者が動く。高齢の親が死んだ後もわが子が生きていける場所を作る。

私も10年後には、この世から去る。若者が幸福である日本をみてからにしたいが。

★「青年の樹」という若い人当事者とその保護者のための対策を考えていくグループを立ち上げたら? ひきこもりがち、心の病気が治らないなど青年のための対策を考え実現していく。市会議員も、会社も興す、カウンセリング場所も、

(編集中です)
http://blog.canpan.info/jitou/archive/2991
★叡智的自己、無限の喜び、ゆえに自己保身。
 他のことは無知。世界には無限の意味の世界があるのに、狭い一つの意味の世界で成功しただけなのに、ひどいものは、他者を排除、否定する、トップになりたがる。数々のハラスメント。自我を肥大化させる叡智的自己。
西田幾多郎は、それを抑制するのは「至誠」だという。差別のない絶対的一者の対象的立場のない立場。
Posted by MF総研/大田 at 19:30 | エゴイズム | この記事のURL
モラハラ(モラル・ハラスメント)で追い詰められる配偶者 [2019年05月23日(Thu)]

モラハラ(モラル・ハラスメント)で追い詰められる配偶者

 DVの一種、身体的暴力ではなくて、言葉で傷つけて、支配する。
https://www.asahi.com/articles/ASM5G544BM5GUTIL01Y.html

 良心が働かない加害者。仕事では優秀かもしれないが、家庭では独断偏見が 強い。自分の言葉や行為を客観的に観察して、いけないことと評価できる「良心」が働かない。 被害者は、おいつめられてうつ病にもなる。

 言葉や行為は、ポイエシス(社会的活動)であり、その中に、エゴイズムがないかどうかを評価するのが、プラクシス(自己洞察、自己形成)。社会的に名声を得ている人は、叡智的自己ですが、自分の価値は実現できて喜ぶ。他者を苦しめているかもしれないのです。「専門家のエゴイズム」。

 自分の意識(感覚、思考、言葉、行為など)を観察して評価する。大乗仏教では、煩悩の観察を強調していました。わかりにくいので、実践が強調されましたが、失われたうちの一つです。自己完成です。西田哲学では「至誠」であるかどうか評価することだという。

http://blog.canpan.info/jitou/archive/3764
★専門家のエゴイズム

 「被害者が加害者を変えるのは難しい」という。「配偶者暴力相談支援センター」が支援してくれるという。

Posted by MF総研/大田 at 19:54 | エゴイズム | この記事のURL
批評は無私であるべき [2019年03月23日(Sat)]

批評は無私であるべき

https://www.asahi.com/articles/DA3S13940952.html
★朝日新聞3月20日、の記事に「 辛口批評、しにくい空気 SNS台頭、プロの書き手に逆風」というのがあります。

 ファッションや車についての批評です。ブランド側は肯定的な評価がほしい。 評価の世界です。批評が公平な眼でできるのかという問題です。肯定的な批評をしてくれる人を優待し、辛口な人を「出入り禁止」にする。
 一般人は、この批評は公平か、ブランド寄りか、判断しなければなりません。批評家はファッションや車を評価するが、我々は、その評価が偏っていないか評価しなければなりません。評価の評価です。社会はとにかく「評価」の世界です。自己中心的な見方、判断が入ります。

 記事が指摘するように、最近では、プロではない批評もインターネットに現れています。

 最後に、批評家の若松英輔さんの意見があります。「優れた批評には「無私性」が必要」で、さらに、弱点ができるかもしれません。 若松さんは「経験が好みを生み、無私の態度をゆがめることがある」ともいっています。

 自分の利益(様々ある)を考えて、批評に手ごころを加える、甘い批評をすることが起こるというのです。また、経験によって自分の好みが強まり(執着)、それを基礎に批評がされることも。

 「本」も批評の世界に現れます。「本」が出版されると、インターネット上に、5段階の点数がつけられ、批評文も記載されています。本の場合、プロの批評と素人の批評があります。判断基準が若松氏のような公平な評価とは限りません。自分にとって面白いかどうかとか、自分に理解できないと低い点にするようです。自分がそのテーマのことを経験していると、公平ではなくて、自分の好きなことに高い点をつける傾向があるでしょう。若松氏がいうような「無私性」はとても難しいです。

 いい本なのに、よく読み取れないひとが低い点数をつけたな、という暗澹たる気持ちを持つことがあります。著者がかわいそうです。しかし、自分の本を出版してもらえたことは、社会貢献です。めげずに、自分を貫いていっていただきたいと思います。いい本は古典として世界に保存されて後世の人も評価してくれます。

 オルテガのいう「大衆化」がインターネット上の評価にも起こっているでしょう。「天才を殺す凡人」というのもそういうことでしょうね。

http://blog.canpan.info/jitou/archive/3855
★認知的柔軟性の欠如

 このことは、専門家も、一般市民にもおこるわけです。後の時代に賞賛される人が、生きていた当時には、低い評価しかえられなかった偉人も多いですね。宮沢賢治、金子みすゞなど、あとの時代のほうが高い評価を得ています。「無私性」は、日本人の崇高な精神性でした。西田幾多郎は「至誠」といいました。こういう精神は、もう日本にも失われています。家庭、学校、企業でも教えられません。我利、闘争、排除が目立つ厳しい社会です。うわべは柔和で寄ってくるがいざとなったら何をするかわからない人間。つらくて、うつ病になり自殺もあります。 しかし、少数、教えてくれる人がいます。「こころの世界遺産」として保存されていきます。いつか、誰かの目にとまります。単独で生きていける状況ではなく「共生」すべき世界です。若松氏のいう「無私性」を教えていこうという動きは教育界、産業界、学会にはないのでしょうか。

http://blog.canpan.info/jitou/archive/4100
★オルテガ「大衆の反逆」

http://blog.canpan.info/jitou/archive/4218
★専門家のエゴイズム 2019
Posted by MF総研/大田 at 21:19 | エゴイズム | この記事のURL
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