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宮沢賢治の『貝の火』 [2006年07月11日(Tue)]
宮沢賢治の『貝の火』

 よまわり先生、水谷修氏が、リストカットする子、ひきこもりの子を救済するのに期待できるという「仏教」。
 本上まなみ氏が、繰り返し読むという宮沢賢治の仏教を背景にした『貝の火』。
 アメリカの心理療法者が、仏教から、マインドフルネス、アクセプタンスの実践を抽出した、そのもとになる「仏教」。
 水谷修氏、本上まなみ氏の言葉を見る前に、「仏教」を文学で味わってみます。宮沢賢治の『貝の火』が、なぜ、仏教なのか。十年ほど前に私が書いた、『貝の火』の論評をここにご紹介します。この10年、カウンセリングを通して、多くの苦悩するかたと接してきました。今、よみなおせば、また、ちがう読み方をすると思います。余裕ができた時に、読み返します。10年前の文を、ここに掲載します。なお、私は、宗教者ではなく、マインドフルネス心理療法のカウンセラーです。これは、仏教の宣伝ではなく、文学の論評です。
『貝の火』

 宮沢賢治は、童話で仏教を教えようとしていたのだから、そのつもりで、この童話を読んでみよう。この童話は、人間の根底は本来清浄(大乗仏教では仏性と呼ばれるようになった)なのであるが、その発現を妨げる煩悩(エゴイズムのような自分や他者を苦しめる心理作用)があることを教えようとしているとみる。この童話では、おごりによって、苦しみに落ちるところまでを描く。
 仏教の実践を応用した心理療法がマインドフルネス、アクセプタンスであるが、人の根底が清浄なものであることは、マインドフルネス心理療法のACTでは「文脈としての自己」といい、西田哲学では「絶対無の場所」「人格的自己」という。賢治も、この立場に立っていたことは明白であると私は思う。  概要は、こうである。
     ホモイは、ひばりの子供を命懸けで救うという勇気ある行為によって、「貝の火」という宝珠と権力を得たが、慢心をおこし、権力を悪用した。ために、宝珠を失い、失明する。
     慢心をおこしているホモイは、そんなことをしていると「宝珠」が雲るぞ、という父の忠告を聞かなかった。(これは、他の人からの忠告でなくてよいのだ。自分のもう一つの心からの忠告があるはずだ。)
    やがて、ホモイの宝珠が砕けて、ホモイは失明する。

ひばりのくれた宝珠

     「それはとちの実位あるまんまるの玉で、中では赤い火がちらちら燃えているのです。・・・
     ひばりの母親が又申しました。
     「これは貝の火という宝珠でございます。王さまの言伝(ことづて)ではあなた様のお手入れ次第で、この珠はどんなにでも立派になると申します。どうかお納めをねがいます。」・・・・
     ホモイは玉を取り上げて見ました。玉は赤や黄のほのおをあげてせわしくせわしく燃えているように見えますが、実はやはり冷たく美しく澄んでいるのです。目にあてて空にすかして見ると、もうほのおは無く、天の川が奇麗にすきとおっています。目からはなすと又ちらりちらり美しい火が燃え出します。」
 この「宝珠」は、私たち人間の根底の自己、仏性の象徴でしょう。わたしたちのこころはみな、清浄で、美しいものを映す宝の玉であると仏教(もともとの大乗仏教)は主張する。

おごり、悪事を働く

    ホモイはおごり、悪事を働く、[父母の忠告を聞かない]

  • いばる、階級を作り与える
       母がいう[いばるんじゃありませんよ。]

  • 無茶な命令をして従わないもぐらをおどす。
      従うやつに命じて木の実を大量に集めさせる。
       父がいう[おどすな。こんなにたくさんの木の実を誰が食べるのだ。]
  • 狐がもぐらをいじめることを許す。
       [ホモイの父がみつけてしかる。]

  • 狐から毎日おいしい木の実を運んでもらうことになって、狐が鶏をとるのをとがめるな、というのを認める。(これはワイロだ)
     「こんなものはどの木にできるのだい。」とたずねますと狐が横を見てひとつ「へん」とわらってから申しました。
     「台所という木ですよ。ダイドコロという木ね。おいしかったら毎日もって来てあげましょう。」
     ホモイが申しました。
     「それではね毎日きっと三つずつもって来ておくれ。ね。」
 これは、伝統仏教、大乗仏教が批判しているエゴイズム(煩悩)である。教団(あるいは、他の組織)の幹部の中には、信者(部下、組織の構成員)が善良な人を恐怖させ、強引に、悪事まがいのことをして金を集めてくることを知って受け取る者がある。
 あるいは知らずとも、末端の信者(や部下)は悪事を働いて集めてくる者がある。幹部は金銭のノルマを課す。
 人を害してまで金を集める組織になる。
     「狐が角パンを二つくわえて来てホモイの前に置いて、急いで「さよなら」といいながらもう走っていってしまいました。」

    それをホモイは父親が喜ぶだろうと思って父に持っていく。

     「「お前はこんなものを狐にもらったな。これは盗んで来たもんだ。こんなものを食べない。」
     そしておとうさんはも一つホモイのお母さんにあげようと持っていた分も、いきなり取りかえして自分のと一緒に土に投げつけてむちゃくちゃにふみにじってしまいました。ホモイはわっと泣きだしました。兎のお母さんも一緒に泣きました。」
 宗教(あるいは他の組織)幹部は金集めを指令する。トップは幹部や構成員が多少のあくどいことをすることを認める。
 組織の上層部に、この父親のような「清廉無私」の心があってほしいという賢治の願いがある。しかし・・
     狐はまた角パンを持ってきた。ホモイはまた受け取る。狐が動物園をつくろうという。
     「ホモイは、急いで角パンを取ってお家に帰って、台所の棚の上に載せて、又急いで帰って来ました。」
 黒い金を受け取ることに不感症になっている組織の幹部。
 あくどい金でなくても金銭を受け取るのが当然となっている各種の組織の幹部、末端の者。経営者、宗教者、会社員、役人、あるいは政治家、大学教員、・・・・。賢治は、特に宗教者を見ていたのだろう。

狐にそむかれる

    狐が網のわなを仕掛けて小鳥をとっていたのをみつけて、ホモイがにがそうとすると狐がすごい顔をしてどなる。
    「ホモイ。気をつけろ。その箱に手でもかけて見ろ。食い殺すぞ。泥棒め。」
 もともと欲がからんでついていた幹部は自分の利益がおびやかされそうになると裏切る。いざとなったら裏切る人間が多い。そこも賢治は見ている。
 よくある内部抗争、権力闘争、である。教団(組織)は、利益を争っていくつにも分裂していく。
     夜、ホモイの家族はキツネからもらったものを食べる。

     お母さんはびっくりして
     「まあ、ご飯の支度を忘れていた。なににもこさえてない。おとといのすずらんの実と今朝の角パンだけをたべましょうか。」といいました。
     「うんそれでいいさ」とおとうさんがいいました。」
 盗んできたものなのにホモイの家族もそれを食べる。不感症になっている。
 ホモイの父親はまるで模範的な聖人のように正しく生きるようにホモイに何度も忠告していた。
 それなのに自分でも実際の生き方は、このように口でいうようには実践していない。
 口ばかりできれいなことをいい、実践が伴わない学者や宗教家の批判であろう。
 宗教者や学者(さらには政治家も)の家族でも、「お父さん、いつもあんなにきれいなことを言っているけれど、実際のお父さんも、そうしなければいけないのではないの?」と強く家族が戒めれば、違う行動をするのだろうが、家族も父の収入で楽な生活をする。賢治は正当な商売であった質屋の利益でさえも父が貧しい農民からとったものと後ろめたい気持ちを持っていた。
 家族ぐるみであくどい利益追求の恩恵を受ける、よくある話をこういう形で批判している賢治。「こんなことはどこにもあるのだ。」
 七十年後の現代日本のひどい状況を予想していたのかと慄然とする。

貝の火、こわれる、ホモイ失明

    「貝の火はまるで鉛の玉のようになっています。」・・・・
     「貝の火は鋭くカチッと鳴って二つに割れました。
     と思うと、パチパチパチッとはげしい音がして見る見るまるで煙のように砕けました。
     ホモイが入口でアッといって倒れました。目にその粉が入ったのです。・・・・」

     玉はまた元のとおりになって、ホモイのもとから飛び去った。
    父はホモイをなぐさめる。

     「泣くな。こんなことはどこにもあるのだ。それをよくわかったお前は、一番さいわいなのだ。目はきっと又よくなる。お父さんがよくしてやるから。な。泣くな。」

 以上が、10年前の文章の一部である。
 (賢治の、この童話をつまらないと批判する識者があるが、省略する。)
 水谷氏が仏教者に期待し、本上氏がこの童話を自戒の書とするわけがわかるのではないだろうか。賢治の時代から、10年前、そして、現代も変わっていないのではないだろうか。
Posted by MF総研/大田 at 20:44 | こころを描く文学 | この記事のURL