また、論考著作に不正
[2019年05月14日(Tue)]
また、論考著作に不正また、捏造が発覚した事件がありました。自分の行為に善悪を評価する働きは、「良心」といい、自己を越えた内奥からのものです。 なぜならば、働き、作用は、それ自身の内容、対象を持っているから、自己自身を見ていません。 仕事などで、うそ、不正、捏造、セクハラ、パワハラ、虐待などをする時に、自分の行為を対象とする働きは、行為を越えた場からでないと見えません。ある人が、不正をした。その時には良心が働かないです。他者の善悪を評価できる人が見つけて注意します。評価、判断が求められるのが、現実の社会の現場です。 無評価ではいけません。自分の見方、考え方、行為が、法律的、道徳的、人道的に悪ではないかを評価しなければなりません。セクハラ、パワハラ、不正、捏造、そして悪に加担して多数派となり誠実なものを排除する、などほんの一部です。評価しなければなりません。大乗仏教には、己見我利我執をすてる実践(=人間完成)があったのですが、現代は見失われました。こういうことは学校でも教えられません。大学の先生さえもが犯すのですものね。他者、団体を苦しめる悪の心理を評価観察するマインドフルネスが、国内外に独裁、独断が充満している今こそ研究されるべきでしょう。ひょっとしたら、核戦争で人類が滅ぶのでしょうか。 西田幾多郎は、良心は、叡智的自己が自己自身を評価する働きだといっています。個人差があり、良心のない人がいます。家庭を崩壊させます。組織を崩壊させます。そして、自分が他者、社会から批判されて、不幸になります。多くの他者が批判評価できるのに、それができない人がいます。やるべき人がやっていないのも、「マインドフルネス」の分野にも起きています。社会が発展しません。 自己の悪質な心理をも観察、評価できるこころを成長させるマインドフルネスが必要だと思いませんか。 【専門家のエゴイズム2019】 https://blog.canpan.info/jitou/archive/4218 https://blog.canpan.info/jitou/archive/2787 ★叡智的自己
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