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国内の他の研究を称賛することをしない、海外文献ばかり参照する日本の学者 [2019年04月13日(Sat)]
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国内の他の研究を称賛することをしない、海外文献ばかり参照する日本の学者

 前の記事のように、青山氏が哲学的に考察するように、人は愛されたい、認められたいという要求をもっています。 このことは、学者もそうです。自分の業績を承認されたいのです。しかし、日本の学者は、日本人の 業績を称賛することをしないそうです。論文などに国内研究を無視ですね。外国の人は称賛するが。

 日本の学者は、あまり、日本の他の学者のすぐれたところを言わない。こういうところから、専門家でない一般市民が自分で評価するしかない難しい状況になります。 プライドや嫉妬でしょうか。国内の研究を称賛すると自分が下になるという感じを嫌うのでしょうか。とにかく、学者の内面も激しい「評価」「闘争」の世界です。

 学問の対象であるはずなのに、科学的に真っ当な評価批判がなされない、青山氏は哲学の学問にもあるというのでしょうか。「独自性のある国内研究を真っ当に(お世辞ではなく的確に)評価する専門家集団内の文化」が欠けているというのです。

 「本当に欠けているのはむしろ、独自性のある国内研究を真っ当に(お世辞ではなく的確に) 評価する専門家集団内の文化です。それは研究作法にも現れていて、たとえば論文を書くときにーー 良い邦語文献がある場合でもーー海外文献にしか言及しない例などはよく見られます。研究者は、私を含め、 自分の重要感にこだわりがちですが、周囲の研究者の重要感を真っ当に満たす文化がなければ、集団内での相互作用による議論の成熟も起こらないでしょう。」(青山、p159)

 すぐれた業績の他者を称賛しない、しかし、自分は称賛されたい、学者がこれだとすると愕然とします。「研究者は、 自分の重要感にこだわりがち」は、自分の評価に執着する。 無評価ではなく、自己保身の評価の心理が渦巻いているようです。真っ当な、学問的な議論しようとすると、理解できない者が、多数で結託する「認知的複雑性」が乏しいという状況を指摘する榎本氏。自己保身のために権力者の意向を忖度して市民に迷惑をかけることが横行している日本社会を浮き彫りにした片田氏。こうした専門家が多いと、国民の幸福がおびやかされます。学問の世界がこうであることは多くの市民が知りません。だから、ある一つの本を読むと、科学的に正しいと思いこんでしまいます。失望もします。

 仏教の学問も、西田幾多郎、秋月龍a、井筒俊彦、竹村牧男氏(東洋大学)などが遅れていると指摘しましたし。最近では、大竹晋氏が日本の仏教から、核心が失われていることを指摘しました。こういうことが本流の学者によって言われないことが悲しいことです。社会的貢献から後退した現状の有様を自己批判せず、逆に、肯定するような論文が多数書かれる。批判するのは、外部の少数者です。そのせいか、本当に悩む人は、日本仏教で実践する一般市民は大変少ないでしょう。心理学やマインドフルネスに頼るしかない状況でしょう。仏教は何なのでしょう。
 私は、各宗派の教えにも、実践にも、現代向けに支援できる「マインドフルネスの要素があると思います。檀家信者の生命を大切に考える僧侶のかたは、写経、読経、観想、そして戒定慧に当たる実践的な心得の中に、現代人に通用するものがあると思います。体系的な現代人向けの説明を加えて、お寺に呼んでもらいたいと思います。時代、環境が変化していきます。昔に執着すると、団体ぐるみが消滅します。社会内存在ですから、社会に何かの貢献をしないと。
 宗教学、哲学、心理学などがこれでは、一般国民やマインドフルネスを活用したい心理療法者などは、どの学者、僧侶の主張が真っ当な、本当に市民を救済していた大乗仏教の観察実践=マインドフルネスであるのかわかりません。だから、日本の市民も学者も、アメリカのマインドフルネス心理療法者から、仏教にあったごく一部の実践、「マインドフルネス」と称してその手法を教えてもらうことになります。

 日本社会に、独断が充満していると、西田幾多郎がいいました。今も変わっていないようです。人格的には成熟していない? 西田哲学がいう「至誠」に遠い? 学者がこういう状況では、一般人の間に、よりよい社会の建設を求めることはとても難しいでしょう。ビジネス世界にも不正が頻発、科学論文にも不正、学校ではいじめ、ハラスメント、自殺に追い込む、高齢者をだます詐欺事件、悲惨な状況です。
 やはり、こういうことではいけないじゃないですか、国民が幸福になるのを学者が自利、自己保身で、邪魔していることになりませんか。いいのか、よくないのか、評価していかなければいけないのではありませんか。評価の現場、すべての産業の現場で、自分や他者の、自利他害のエゴイズムの心理を評価して抑制していこうという「評価するマインドフルネス」が重要ではありませんか。

 こういうふうに従来の学問を批判する主張が平成の時代の末期の2017年から出てきました。現状のままではいけないと考えるひとが出てきました。令和の時代は、学問的にも真っ当なものをみせていただきたいと学者でない国民は期待しています。学者だって自分の住む日本社会の住人である一般国民が不幸であることを望んではいないと思いたいのです。国内のすぐれた学問的業績を称賛して、日本全体が住みよいところになっていくように願いたいものです。

 日本にも西洋にも、すばらしい古典がある、学問がありそうです。長い年月をかけて作られたものです。活かして、現代にふさわしく衣替えして活用したいものです。独断が渦巻く評価の現場で、自分のエゴイズムの心を観察することは、大乗仏教、東西の哲学にあったはずです。これを研究して活かすことは、これからです。みなさん、日本の精神状況は今のままでいいと思うはずがありあせん。

文献
青山拓央(2016)『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』太田出版
榎本博昭(2017)『正しさをゴリ押しする人』角川新書
  「認知的複雑性」が乏しい者を批判

片田珠美(2017)『忖度社会ニッポン』角川新書
http://blog.canpan.info/jitou/archive/4169
【仕事、家庭は「評価」の現場、評価観察のマインドフルネスが必要】
Posted by MF総研/大田 at 21:04 | 無評価・有評価 | この記事のURL