自己完成への実践はすべての人のもので、ほかに各人の価値遂行には対象的社会的働きを行使 [2019年01月18日(Fri)]
ポイエシスとプラクシス
=自己完成への実践はすべての人のもので、ほかに各人の価値遂行には対象的社会的働きを行使
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4074
★マインドフルネスSIMTは暴風も渦巻く海を航海して自己船を目的港に進める操船技術
これは、プラクシスです。すべての人の根底の絶対無が働いているので、その本質のように成長させていこうという実践を日本人はいさぎよしとしてきました。世阿弥の能、千利休の茶道、松尾芭蕉の俳諧にも、それを基礎としたものがみられます。
最近の日本のホワイト企業として表彰される経営者が感じているものもこれなのだろうと思われます。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4032
★ホワイト企業の経営者(3)小欲
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4035
★★ホワイト企業の経営者(4)畏敬
日本の経営者にこれがあるのは「日本人」だからでしょう。日本人の精神の底に絶対無が深く潜行しているのです。経営がうまくいったとしても自分だけの手柄ではない、社員全体の手柄でもあり、社会全体からの支援のおかげでもあり、さらに目に見えないが大きな力が働いているおかげであることを感じているのです。こうしたことは、経営者も西田哲学を学べば、自分のものが日本的な哲学であることを納得するでしょう。
絶対無、鈴木大拙が日本的霊性といったもの、井筒俊彦が無分節といった働きがすべての人の根底で働いている。なにとなく、日本人が、経営者も、強欲ではなく、社員を大切にする気持ちが強いこと(簡単には解雇しない、パワハラセクハラが少ないのも)、謙虚なところがあるのは、この精神のためでしょう。
この精神のもとになる働きは、すべての人間の根底に働いています。それを理解して自己を完成していこうというのが、大乗仏教にもあり、日本的生き方なのでしょうが、哲学的な説明が少なかったために、多くの人には理解されませんでした。しかし、昭和の戦後まもないころのしばらくの期間「禅的生き方」が標榜されていましたが、そこに一部あらわれていたでしょう。このころ、芸術にも広く現れていました。川端康成、志賀直哉、武者小路実篤、東山魁夷、河井寛次郎、高橋新吉、永田耕衣、等々。
ポイエシスは、対象的世界の創造行動、社会的活動です。プラクシスは、同時に実践する内面の人間完成です。至誠とか、私欲的でないとか、無私とか、言われます。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3312
★ポイエシス即プラクシス
ポイエシスは、経営、政治、医学、看護、介護、法律、教育、心理、農業、漁業、観光、IT,家事、育児、すべての科学学問、あらゆる産業です。それぞれ、特別のスキルが必要です。そのほかに、すべての人に必要な至誠の人間完成、人格形成、他の人格尊重への実践がプラクシスです。プラクシスはポイエシスとは全く違います。
生きていくポイエシスの人生において、見る、考える、行為するのすべての局面で、人間完成の実践をこころがけていく。だから、欧米のマインドフルネス、すなわち、「無評価でみる」観察はごくごく一部分であることになるでしょう。西田哲学の実践論は、欧米の単独時の無評価観察を包含して、さらに、そのほかのすべてのポイエシス、対人行動、産業的行動の時のすべての意識現象、見る、考える、行動する局面で、どのように実践するかを日本人が長く探求してきたものだというのです。新しい年号の時代は、マインドフルネスの研究が飛躍する時代になるでしょうか。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/4013
【誤解だらけの瞑想、坐禅、マインドフルネス】
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3889
★関連記事【日本では、なぜうつ病などの心理療法が普及しないのか】
|
|
Posted by
MF総研/大田
at 06:45
|
さまざまなマインドフルネス
|
この記事のURL