日本のマインドフルネスは禅に源がある「至誠」で見ること
[2018年12月02日(Sun)]
日本のマインドフルネスは禅に源がある「至誠」で見ることマインドフルネスには、様々な流派があります。自己の心理現象を観察する理論、哲学が違っています。 日本人の深い自己洞察探求があります。禅の巨匠も「正念相続」といいます。西田哲学、鈴木禅哲学で教えてくれます。それらを基礎にして、現代的な実践法にしたのが、自己洞察瞑想療法(SIMT)です。いつでもどこでも、今常にですから、マインドフルネス瞑想療法士🄬が、様々な領域に活用してくださることを念じています。人間のエゴイズム、自利我利は永遠の課題です。西田哲学では、独断偏見が充満しているといいます。道元禅師も「己見我利我執」が多い、捨てよといいました。この具体的な観察方法がわかりにくいので、これをいう仏教者、学者も少なくなっているのではないかと思います。禅の本でも、形式の方法のみをいい、己見我利我執のことを言わないものがあります。己見我利我執が自分や他者、組織を傷つけます。 そういう自利我利の心理を観察し気づいて抑制して、他者を苦しめないように、組織、社会を害することのないように行動せよというのです。人生価値(当為価値)「やりがい」をもって社会参画していく実践的哲学もあり、西田哲学と神谷美恵子に「生きがい」という存在価値の実在論の哲学が日本にありました。自分も他者も同時に救われるのです。 マインドフルネスの流派にも、自分のエゴイズムに気づいていない、観察しないものもあります。金儲けの心理の強い人間の行うマインドフルネスの講義では、期待して参加したひとが、失望して、 苦しみを生みだします。人間関係の場では「無評価」の観察ではなくて、「至誠の観察」(西田哲学の実践指針)の視点から、自分を観察するマインドフルネス(自己洞察) が必要です。(ただし、「至誠」の観察は、「無評価」観察を包含しますから、棲み分けて共生できます。いつか、考察したいと思います。痛みや一人でいる時の観察は無評価ですみます。そして、マインドフルネスの流派は、ほかのスキルを併用していてその分野では大変貢献していけますから。) 小中学生のいじめも至誠でないことにより起きるのです。このころからつらい目にあうことはどういう場合かクラスで討論し観察してみるマインドフルネスを実践して、家庭や学校がみんな仲良く(武者小路実篤、不染鉄)成長していく場でありたいのです。 職場も、経営者、管理者に至誠が必要です。社員を 疲弊して過労死、自殺までさせる職場の経営者、管理者はおかしいです。自分の家族ならば、そこまで追い込まないはずです。従業員は、家族にとって、生きがいなのです。経営者、管理者のすべてが、至誠の視点から自分の言葉行為を観察すべきなのです。自分さえよければいいというのではなく、社員、家族、会社、顧客、関連会社の「共生」です。それぞれ、各人が違う役割を遂行して全体社会を居心地よい場所にしていく、それで幸せになる。(金子みすゞ、宮沢賢治) そうすると会社にそれなりの利益がついてくるはず。紹介が中断している本のねらいもそこにありそうです。新しい日本的な経営学です。 https://blog.canpan.info/jitou/archive/3984 ★「幸福学X経営学」(前野隆司、小森谷浩志、天外伺朗、内外出版社) https://blog.canpan.info/jitou/archive/2342 ★マインドフルネスの専門家は哲学を持たねばならない ほんのわずかな時間ですが、アメリカの大学院生と教授に日本的マインドフルネスの講義をする機会が持てます。何とか日本の至誠のマインドフルネスを伝えたいと、資料づくりに時間をとっています。世界中が独断、独裁で分断、不幸な事態が起きています。来年は、西田哲学の至誠の実践論(「後期西田哲学の実践論」)、日本型経営、日本型マインドフルネスが外国にも知られていきますように。 https://blog.canpan.info/jitou/archive/4013 【誤解だらけの瞑想、坐禅、マインドフルネス】 |
Posted by
MF総研/大田
at 07:07
| さまざまなマインドフルネス
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