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(6)禅には「観」があるが科学にはない=西谷啓治 [2018年09月19日(Wed)]
【連続記事】【日本では、なぜうつ病などの心理療法が普及しないのか】

禅には「観」があるが科学にはない=西谷啓治

 ブームの「マインドフルネス」の前に、日本には禅がありました。ここに、 西谷啓治の言葉を紹介しますが、禅こそ「マインドフルネス」「自己の観察」なのです。 禅のいいかたはわかりにくかったので大衆化されませんでしたが、 自己の真相の哲学は確かです。
 自己の真相の哲学としては、日本の鈴木禅哲学や西田 哲学を羅針盤、全体の「海図」として展望して、観察の方法は「公案」「只管打坐」の方法ではなくて (これらは大衆化できなかったから)、ブームの「マインドフルネス」のように、わかりやすく説明して観察していく、 新しい実践を開発研究していけば、第一に、方向を日本人のものと乖離せず、第二に、西洋がおちいった二元観の 限界に突き当たらず、どこまでも深い「己事究明」「自己洞察」「観察」「マインドフルネス」 になると思います。
 では、西谷啓治の言葉を見ます。

 西谷は、西田幾多郎の弟子です。1967年(昭和42)の講演 「禅文化の諸問題」より引用します。

 西谷啓治は、この講演で禅文化が寄与しえると思われることがらを、3つの方面から述べています。

 哲学的には、深い禅にはこれら3つがふくまれているはずであるのに、現実の宗教組織の実践や禅の学問からは失われているというのです。

★「観」の欠如
 「三つの面で禅文化の研究が現代に寄与し得ると思われる事柄を、思いつくままに申したいと思います。 第一に、思想の面についてでありますが、現代の思想の世界、もっと根本的には現代の人のものの考え方に関して、一つ問題になることは、昔の人々が、「観法」とか「観想」或いは「止観」といった時のその「観」ということが、一般に消え去っている。忘却されているということであります。」(A,p53)

★センス・自戒・反省の欠如
 「次に、芸術に関係した面のことでありますが、これは現在では比較的に最もよく研究されている禅文化の面ではないかと思います。」(A,p57)。
 次の言葉があります。

 寺に来た人たちに「観光のためではない、自分たちが法を求めて生活しているその姿を見ていただいて、それがあなた方に何か資するところがあることを願う」(p58)と説教する僧侶に「何かコツンと来るものがあった」。 「生活がマンネリズムになっている」(p59)。何が欠けているのか」(p59) 「伝統に固着」(p59)「センスの欠如」(p60)、「徹底した反省、批判や自己批判」(p62)、「型にはまる」(p62) 「自戒の気持ちがにぶる」(p62)

★不寛容―イデオロギー・宗教・社会科学
 「第三に、思想や感覚と一応区別された実践の領域から、やはり現代の我々の身辺にある事柄を一つ取り上げてみます。」(A,p63)

「観」の欠如

 「観」の欠如について、詳しく見ます。

 「三つの面で禅文化の研究が現代に寄与し得ると思われる事柄を、思いつくままに申したいと思います。
第一に、思想の面についてでありますが、現代の思想の世界、もっと根本的には現代の人のものの考え方に関して、一つ問題になることは、昔の人々が、「観法」とか「観想」或いは「止観」といった時のその「観」ということが、一般に消え去っている。忘却されているということであります。」(A,p53)

 「観」がないということについて、こう言う。ブームのマインドフルネスは感覚や身体動作の観察が中心になっているが、禅などにあった「観」は、もっと深いところまである。

 「「観る」といっても、もちろん肉眼で見ることではなくていわば心眼で見る、眼に見える形あるものを見るのではなくて、形なきものを見る。或いは、形あるものにおいて形なきものを見る。いわば形而下的ではない形而上的な「見る」であります。そういう見るはたらきないしは態度、またそこに開かれる視野、それが現代では全く見失われている。」(A,p53)

 「科学的にものを考えるという立場は、人間が自分の全体をこめたというような考え方ではない。全人的に自分自身の身を入れたというような考え方は、そこには含まれていないと言えます。」(A,p56)

 「現在例えば、人間の頽廃、人間の自己疎外、人間の機械化、その他いろいろな問題が言われていますが、それはすべて科学的なものの見方の支配と結びついている。裏からいうと、観るという立場がなくなったことと結びついている。そこで、そういう意味から言うと、現在、人間を本当に人間として作り上げる道を示すために、また宗教という領域にまで人間というものを導いてゆくために、やはり本当にものを観るという立場の回復が非常に大事だと考えるわけであります。」(A,p57)

 日本の禅は、元来、第2も、第3も観察します。しかし、西谷が見た現実の禅からは失われていたのです。現代の私たちは、西田、西谷の批評するところを検討して、現代的日本的マインドフルネスではこれらも再興していかねばなりません。

文献
A) 『宗教と非宗教の間』西谷啓治、岩波現代文庫 これは、1967年(昭和42)の講演


【目次】日本のマインドフルネスの再興を

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【目次・連続記事】【日本では、なぜうつ病などの心理療法が普及しないのか】
Posted by MF総研/大田 at 20:09 | 深いマインドフルネス | この記事のURL