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(8)大乗仏教、西田哲学は「共生」の根拠 [2017年09月27日(Wed)]

大乗仏教からの初期仏教批判
(8)大乗仏教、西田哲学は「共生」の根拠

 前の記事で「共生」ということを言いました。「みんな違ってみんないい」です。竹村牧男氏は、「対立するものの共存」すなわち、「共生」の根拠を勝義諦に見ておられるでしょう。
 (今週、福島県男女共生センターで講演しますが、その共生の根拠にもなります。)

 「ある種の仏教(華厳宗・真言宗)にはヒックの立場とはまた別のかたちで、限りなく多元主義に近い包括主義が語られているのであり、その宗教哲学的立場が、あらゆる局面で共生をめざしている今日の時代にどのように有効でありえるのか、さらに吟味していぅことが望まれます。」 (竹村牧男『宗教の核心』2012年、P209)

 「この寸心(西田幾多郎)の立場においてこそ、自己の成立の真実にふれつつ他をどこまでも尊重する立場が開かれ、対立の共存としての共生すらをも射程に入れたものとなっており、それは仏教以上に多元化社会にふさわしい宗教哲学であると言えると思うのです。」 (竹村牧男『宗教の核心』2012年、p225)

 思想や意見、民族、宗教、国、性別が違うからといっても、人格を否定したり、組織から排除したり、殺しあいをしてはならない根拠なのです。

 もし、すべての人間の根底の絶対的平等なるもの(絶対的一者)を認めないならば、頭のいいものがすぐれており、金や地位や知識のあるものが優れていることになり、差別があります。差別を認めるものは、低いと思うものを軽蔑し、排除するでしょう、殺しもするでしょう。しかし、 そういうものは、対象的に考えられた価値であり、時代や環境によって、違います。日本ですぐれた社会的学問のある人も、北朝鮮に行けば、抹殺されるかもしれません。人の存在価値は、社会的な遂行価値とは違います。

  哲学者の永井哲は、西田哲学でこそ、人格を説明できるといっています。

 勝義諦を言わない、否定する宗教者に問いたい。 宗教者は、勝義諦を否定して、人格の平等性をどう説明するのですか。「ほとけの子」という人がいますが、どう説明するのですか。

 竹村牧男氏は「真言宗」にも深い勝義諦を発掘しておられます。意外ではありませんか。真言宗はご祈祷をされるようですが、空海に深い人間哲学があるとみておられます。
 深い人間哲学を持つ日本人なのに、これを捨てるとは誠に遺憾です。 勝義諦は、すべての人間の営み(科学学問さえも)の生まれる対象的なものの前のことで、すべてを生むものであるからです。ジョン・カバット・ジン氏が「全体性」というのもそこでしょう。西田哲学や鈴木禅学を理解しておられるのです。 弁証法的行動療法のリネハンの「賢明な自己」もかなり深い。 欧米の人がそうなのに、日本人が否定したり、知らないのです。

 マインドフルネスは「宗教性を排除した」とほこらしげにいいますが、リネハンの弁証法的行動療法を否定するのでしょうか。
 マインドフルネスの推進者のうちには、「宗教性を排除した」といいますが、・・・。
 宗教は悪いものという響きがありますが、教団のかたはそれでいいのですか。抗議をされないのですか。
 宗教は、自分のこころを観察しないのですか。マインドフルネスは、あなたの宗教にはないのですか。
 「マインドフルネス」のブームが、宗教についての偏見をもたらしているかもしれません。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3591
<目次>大乗仏教からの初期仏教批判
 =大乗仏教の哲学は在家にとってすぐれたマインドフルネス
本当の自分とは? 人生はなぜ苦しい?
竹村牧男「般若心経を読みとく」角川ソフィア文庫、2017による。
https://blog.canpan.info/jitou/archive/3549 
★第3世代の認知行動療法=多くの流派のマインドフルネス心理療法

https://blog.canpan.info/jitou/archive/3288 
★日本のマインドフルネスの再興を
Posted by MF総研/大田 at 20:24 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL