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マインドフルネスの垂直展開と水平展開 [2017年06月15日(Thu)]
西田A06aSIMTの展開3.jpg
人格的自己は宗教レベルです。対象的自己が消えうせて、絶対者の表現、絶対者の射影点となる。ブログに参照した記事に詳細は書いてあります。

マインドフルネスの垂直展開と水平展開

 機関誌『マインドフルネス精神療法』第3号に、日本的マインドフルネス、自己洞察瞑想療法(SIMT)を8か月、実践してもらった感想、体験記を書いていただきました。

http://mindful-therapy.sakura.ne.jp/kikansi/hp-03/jjmp03-hp-index-2.htm
(52ページから81ページ)

 心の病気であった人(p77-81)も、そうでない人(p52-76)も、生き方に変化をもたらしています。
 実は、これは、日本の深い禅の初歩なのです。日本の禅の心の病気でない人のものです。私は40年前、うつ病になり、曹洞宗の禅僧の指導を仰ぎ、克服しました。 日本には、すぐれた禅がありましたし、メン・タン氏がいうように、深い禅を教える禅僧がおられます。  こういう、心の病気のひとも、そうでない人も成長できる禅が日本にあります。、今も禅は、マインドフルネスよりも長く根強い関心がもたれています。 しかし、こういう人たちの葛藤を乗り越えることを支援できるような禅になっていないところも多いです。日本人として残念なことです。
 MBSRというマインドフルネスを世界的に有名にしたジョン・カバット・ジンは道元禅師を尊敬して日本には深いもの「全体性」があるといいます。
グーグルでSIY(MBSRではない)というメソッドを開発したメン・タン氏も、こういっています。

「よりピュアなダルマ(仏教の教義)が日本にはあるのに、それに気づかず 使われていない。日本の皆さんには、SIYやマインドフルネスが注目されたことをきっかけにピュな禅やマインドフルネスの本質を再びどんどん汲み上げて、実践し役立ててもらいたい、と思っています。」 (『文藝春秋SPECIAL』2017夏、p141)

 本来の日本のピュなマインドフルネスは、西田哲学でいう「独断を捨てて見、独断を捨てて考え、独断を捨てて働く(行為する)」という実践であろうと思います。実践は道元禅に見られます。
 今は、根強い禅の静かな潮流と派手な「マインドフルネス」がブームですが、「マインドフルネス」は一生続けるのは浅いと感じる人が多く出て来ると思います。部分的、ある目的的、技術的だからです。 実際、「マインドフルネス」を標榜する専門家でさえも、いつもやっていません。指導する時だけやっておられます。家庭や職場で、我見我執己見(貪瞋痴)の観察気づきは実践していないでしょう。
 マインドフルネスを、真剣に長く続ける人は、部分的よりももっと深いことをいう日本の禅や東南アジアの仏教に向かうだろうと思います。人生、一生、生涯を通して実践するように体系化されているからです(両者は、最終目標が違います。初期仏教系と大乗仏教系です)。ブームになっているマインドフルネスとは目標が違います。一生かけます。
 日本の禅は、私が指導していただいたように、

宗教以前の部分(悟ることはわからないが家庭職場での生き方、うつ病などの世俗的な悩みも克服できるような心を坐禅で身につけたい)というのと、

宗教的な部分(自己の根源を悟り他者の深い深刻な苦の解決を支援する)

をともに含んでいます。参加する人が自由に選ぶことができます。

 深い禅も「正念」を言います。「正念相続」といいます。「平常心是道」というように、平常時(一人の時も家族職場種々の団体行動時にも病床においても)のすべてにおいて正念が実践されます。正念の対象は、感覚や身体動作にはとどまりません。エゴイズムを含む深い意識現象、自己とは何か(実存)まであります。
 日本的なマインドフルネスである禅は、道元禅師の哲学実践、西田哲学の論理と実践提案(独断を捨てて〜)、宗教以前は脳科学でも説明できます。ブームのマインドフルネスは、カバット・ジン氏やメン・タン氏がいういうに、物足りないと思う人がでてきて、日本の禅に向かう人が出てくると思います。 宗教以前のマインドフルネスと、宗教的マインドフルネスとを峻別すればいいのです。
 図はそういうものです。垂直に展開されるマインドフルネスSIMTは、それぞれの深さの世俗的悩みの解決支援(水平展開)に活用できます。宗教レベルでないと救われない人がいるでしょう。 自己否定された人(虐待、性犯罪の被害者など)、ボーダーライン(自己否定と暴力)、罪を犯したと苦悩する良心の呵責に苦しむ人、がん患者さんの死の不安、若い人が悩みがちな「人生の意味」「虚無の苦しみ」など。 マインドフルネスは、宗教ではないというのはおかしいのです。宗教的マインドフルネスでないと救済されない人が多いはずです。
<目次と問題提議>日本のマインドフルネスの再興を



★<目次>日本的霊性はだめか
Posted by MF総研/大田 at 07:02 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL