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西田哲学は読まれるだけでは価値がない [2017年02月22日(Wed)]

西田哲学は読まれるだけでは価値がない

 西田哲学は読まれるだけでは価値がない、というのは、西田幾多郎博士のお孫さん、上田薫氏の嘆きです。
http://blog.canpan.info/jitou/archive/2367

 禅の哲学、禅の本も読むだけで実践しないと、発言、行動に影響しません。ふつう、坐禅は実践されますね。しかし、禅は一般市民がわかるような説明をしてくれません。 わかりたかったら、坐禅しろという、高い位置です。
 一般市民の目線ではない。それでいいと受け入れる出家者向きです。対象論理でないから、説明できない。説明しても身につかず、むだになるから言葉での説明はしないという態度。 しかし、そのために、禅の解釈と実践、効果はばらばらです。悟りをいったり、悟りなどないと主張する人がいたりです。対象論理的立場で坐禅するわけです。 割合簡単な活用である、 マインドフルネスさえも、日本の宗教者も研究者も開発できませんでした。

 西田哲学は禅を説明した哲学ではありません。禅に関係なく、自己について探求したものです。それで、禅の主張、意識的自己を超えた真の自己がある(身心脱落の自己、絶対に対象にならないもの)という主張を妥当であることを証明してくれます。キリスト教の聖書にも親鸞聖人の教えにも深いものがあると説明しています。宗教の研究者とは違うようです。
 西田哲学も真の自己を説明したのですから、禅のように実践すべきなのです。 禅では説明しないところを、西田哲学は説明してくれているから、実践すべきなのです。
 実践されないならば、無駄です。なぜならば、西田哲学は、人間は「創造的世界の創造的要素」である、人間は世界を創造する存在であることを説明しています。 読むだけならば「世界を創造」していません。ただ、思考作用を回転させただけです。社会創造活動をしていません。読んだあと、何か働きにいかされるのならば、読むことも創造活動になりますが。だから、上田氏の嘆きになります。研究書を出版すると、著者は創造的ですが、読むひとが、読むだけでは、創造されません。読んだ後、活かされることを願うのが、西田博士の願いでしょう。
 西田哲学は、禅の実践を批判しています。生産場面でない場所での瞑想。そこにとどまる(何かに活かされるならば、それを説明して活かしてもらわないと現代人には受け入れられない。時代、足場が違う。)
 西田哲学は、当時の禅を批判しました。禅を超える創造的実践をしなけれならないのです。 創造活動の現場は大変なのです。家族、上司、クライエント、顧客などから難しい課題を持ち掛けれます。重いどおりでない現実です。そして、一面では、専門家が専門的エゴイズムで動いている複雑な世界ですから。専門家が自ら見て、考えて、変える行動をすべきことがある、西田哲学が教えているのですから。


★<連続記事・目次>西田哲学とマインドフルネス、実践論

★西田哲学は読まれるだけでは価値がない
 =西田幾多郎の孫、上田薫氏

★西田哲学は読まれるだけでは価値がない
 =上田薫氏の言葉
Posted by MF総研/大田 at 20:25 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL