マインドフルネス瞑想療法士」の認定講座の第9回でした [2017年02月19日(Sun)]
昨日は「マインドフルネス瞑想療法士」の認定講座の第9回でした。 第9回 西田哲学の場所の論理と行為的直観主なテーマは4つでした。マインドフルネス(仏教)の哲学は歴史的に大きく変化した。 従来の仏教(インド、中国、日本の仏教)は、インド古代、日本の中世、近世の出家者(家族、職場を捨てた人)中心のもので, 現代の環境が大きく変化したので、家族の場、職場ではそのままでは適用できないという西田哲学。現代の環境を足場にした「マインドフルネス」(観察、考え、行為)でなければならない(西田哲学)。 (1)マインドフルネスの哲学の再確認 =西田博士から託された課題―西田哲学の実践化 このような内容です。(⇒テキスト目次) http://mindful-therapy.sakura.ne.jp/shuppan/simt09-mokuji.pdf (2)場所的論理と自己の階層(叡智的自己、人格的自己) このような内容です(⇒テキスト目次) http://mindful-therapy.sakura.ne.jp/shuppan/phy03-mokuji.pdf (3)行為的直観 すべての専門家は叡智的自己であり、行為的直観を用いるが、その哲学的な説明を知らない。 西田哲学によれば、人は団体の立場で行為的直観で社会のために行動しているが、行為的直観は対象的に「観察」できる作用ではないからである。通常のマインドフルネス(観察)ではわからないからである。意志作用を内奥に超えた作用である。 集団(種の論理)の立場で、集団(結局は構成員個人の利益)の利益のために「我こそは最善」と主張し争う(「種の生成発展の問題」)。 このことは人間の構造と我利我執が人間の本質であるから、それが起きるのが避けられない(西田哲学が「種」の論理を説明)。(我利我執が本質的=自分を基体化する ⇒ http://blog.canpan.info/jitou/archive/2218) そのためもあって、必ずしもどれがよいものが市民には知られない。 行為的直観のありさまは、従来の仏教、禅でも説明されていないようである。やはり、現代人は知っておくべき、自己の有様であろう。自己中心性、自己を基体化する心の闇である。これが、社会の発展を遅らせる。 このような内容です。 (⇒テキスト目次) http://mindful-therapy.sakura.ne.jp/shuppan/phy04-mokuji.pdf (4)本『うつ・不安障害を治すマインドフルネス』佼成出版社)の セッション9にあるマインドフルネスSIMTの自己と世界の見方は 行為的直観を浅い意志的自己の見方で説明したもの。このような見方で、うつ病や不安症/不安障害などの問題の改善への動機づけとなると思う。 もちろんマインドフルネスSIMTは、心の病気の人ばかりではなく、すべての人に実践してもらいたい。叡智的自己への入門となる。古来より行われてきた坐禅による自己の真相の入門となる。 次回の最終回(10回)は、叡智的自己が現実の生活の中で、どのようなマインドフルネス実践をするように西田哲学ではいうか。後期西田哲学の実践論です。一言でいえば、「至誠」。 独断を捨てて見、独断を捨てて考え、独断を捨てて働く(行為する)である。 これを実践していると、昔から日本の禅でいっていた悟り(見性、身心脱落)ということが起こり、人格的自己の自覚となる。(「場所的論理と宗教的世界観」) http://blog.canpan.info/jitou/archive/3307 ★昨年の記事です。これもご覧ください http://mindful-therapy.sakura.ne.jp/kouza/ix-soudanin.htm ★10回全部の目次 |
Posted by
MF総研/大田
at 07:12
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