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見て見ぬふり(4) [2016年11月14日(Mon)]
 ⇒近づいているマインドフルネスSIMTの行事はこちらです。
「見て見ぬふりをする社会」(4)
 学問においてもなぜ、視野狭窄がおこり、気づかないのか


 「異質なものよりなじみのあるもの、未知のものよりもよく知っているもの、調和しないものより居心地のよいものを好むという傾向に人は陥りやすいが、それは重大な結果を招く。自己認識から脱することがないまま、自分の価値を肯定するような人間関係や組織や街やシステムや文化を築き、異なるものに触れることがなくなる。ここから見て見ぬふりがはじまるのだ。親しみがあるものや、自分に似ているものを選びたいというのは人間に内在する欲求で、基本的な心の働きだ。」(「見て見ぬふりをする社会」マーガレット・ヘファーナン、仁木めぐみ訳、河出書房新社、p16)

 MBSR,MBCTがブームとなって、多くのひとが親しんでいる。もはや、日本的マインドフルネスは見て見ぬふりが起こるだろう。「親しみがあるものや、自分に似ているものを選びたいというのは人間に内在する欲求で、基本的な心の働きだ」ということが、 西田幾多郎博士が、世界に独断と偏見が充満していることが本質的であるといったことはこういうことをさすであろう。西田博士は仏教の学問が、宗教の本質を明らかにしていないと指摘し逝いて70年になるのに、変わっていない。わずかに少数の仏教研究者が、仏教から3つの核心が失われたと指摘してきた。自己の根源、利他の実践、至誠の実践である。 違うものに接することが難しいからだ。

 科学、学問は仮設に基づく(和田秀樹,p7,13。西田幾多郎博士も)。それを超えようとしない。同じようなことを尊重する人がおおく集まる。こういうのを叡智的自己という。自分の価値観が絶対的である。仮設、思想の萌さない自己を超えた根底の世界の立場、自分を超える絶対的なものを知らない。知ろうとしない。知ろうとすると居心地が悪くなる。
 禅も似た傾向がある。いったん、自分が好きになってしまった禅(対象的であり、3つがない)をずっと続け、同じものをいう人としかつきあうことがない。違うものは避けてきた。違うものは居心地が悪い。

 日本的マインドフルネスは、まだ、欧米のものをよく知らない人が、初めて接する人によってほそぼぞと研究されていくだろう。いったん別の船に乗ると別の船に乗り換えることは難しい。 ヘファーナンや西田博士がいう本音が起きる。今の船への執着、大きい船へ乗り換えることの回避逃避、いじめられる予期不安の回避、など、叡智的自己の本音が働く。本音は、浅い知的自己、意志的自己の本音があり、マインドフルネスSIMTでは、これを観察探求する。意志的自己の本音は自分や家族を苦しめる程度の影響である。しかし、ヘファーナンが指摘するような専門家=叡智的自己の深い本音は社会の発展を妨げる。影響が甚大である。だから、大乗仏教、道元禅師は、我見我執を捨てるように実践を求めた。深い執着、深い嫌悪回避逃避がある。3つを嫌悪回避逃避して、居心地のよいところにとどまる自己だけの喜びへの執着。これを大乗仏教の大智度論などが指摘した。
 日本の仏教の人たちも昭和までは多くいたようだ。形だけをいい、こういう崇高な至誠の精神を教えてくれる長老、先輩が少なくなった。
 禅も似たようなものが昭和、平成を通してずっと行われてきた。3つを教えるひとが目立たなかった。少数いたが、多くは見ることができなかった。人は変わることが難しい。変われるが難しい。執着と嫌悪(大乗仏教は「煩悩」といい、SIMTでは「本音」という)のために、同じ傾向の人とだけつきあう。広い世界、深い世界に接することはなくなる。大勢が同じものを推進していこうという組織がそれに拍車をかける。たった一度きりの人生なのに、大勢に従う。


★「見て見ぬふりをする社会」
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https://blog.canpan.info/jitou/archive/2374
 プチ全能者が、あわれな子羊を自分の周囲にとじこめる。それで自分は喜ぶ。多くの団体。自立させない。

https://blog.canpan.info/jitou/archive/1812
★無視・傍観・軽視・放置・見放される病=うつ病


【目次】日本のマインドフルネスの再興を
Posted by MF総研/大田 at 21:28 | エゴイズム | この記事のURL