CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る
«(119)マインドフルネス瞑想療法士講座の第3回でした | Main | (121)マインドフルネスの体験会»
(120)叡智的自己は自分が偉い、しかし、禅はそれが実体がないといった [2016年08月22日(Mon)]

(120)叡智的自己は自分が偉い、しかし、禅はそれが実体がないといった

 日本には深いマインドフルネス、禅がありました。 ご存知だと思います。日本の禅は西洋的二元観を越えたものです。自他不二です。他は絶対者です。そこからすべての人が根底の絶対と一つであるので、他の人間と自己も不二です。自己は絶対者と一つ、他の人も絶対と一つであるのですがそのような他人も自己と一つですので、人格的自己・人格的他己として同じく尊重するのです。
 ブームのマインドフルネスは二元観の感覚的なもの、身体動作を観察する二元観のマインドフルネスです。自分というものを何も問題にしません。 自分をこのままにして対象的なものを観察します。だから、自己自身とは何かという問いには答えません。
 西田幾多郎博士は、自己というものに浅い自己から深い自己まであるといいます。宗教者のように誌的、情的にいわず、哲学として論理的に説明しています。難しいところがありますが、真剣に実践しながら読むと、わかってきます。

 どの道でも専門家は、叡智的自己です。それは自分が立派に社会貢献しているので自分を誇りに思っています。自分が最終の審判者、良心ですから、自分が偉いのです。自分に喜びをもっています。それで他者を否定し見下します。エゴイストになっています。禅ではもっと深い絶対的なるものにささえられているのに、それを知らない傲慢なものとしています。 偉そうに意識している自分が実は瞬間瞬間、消えているのです。そして、また、二元的に自分と世界を分けてみる分別が起きます。偉そうに思える自分が実は、実体がなく、そして絶対に対象とならない根底の絶対者に世界を与えられているのです。すべての人が根底に絶対を持つのですが、仏教では、空(くう)、仏性、東洋的無(久松真一)、無分節(井筒俊彦)、絶対無、平常底(西田幾多郎)ともいいました。キリスト教の聖書では「神」というものがそれであると西田博士は解釈しています。バチカンとは違う解釈です。日本には、日本的な聖書の解釈をする人がいるようです。道元、親鸞、臨済、盤珪などに同じ根底の絶対があると西田博士はみています。西洋では、エクハルト、ヴィクトール・E・フランクルが同じようです。無とか空といっても、虚無ではなくて、すべてを生み出す創造のみなもとのようで積極的、具体的な実在です。対象的意識では把握できません。
 そのように、叡智的自己でさえも、根底の絶対にささえられて生かされて世界を与えられているのに、それを知らず自分だけの力だけで業績をあげていると思う叡智的自己は自己自身の真相を知らないものだということです。それで、時々、深い禅を体現した禅僧が現れました。

 日本には、深い禅、深いマインドフルネスがありますが、うつ病などは、中くらいの意志的自己レベルのマインドフルネスの実践で改善します。それが、健全な人間の意志作用のモデルだからでしょう。感覚や身体動作を観察する自己は知的自己です。思考、行動までは観察実行していないからです。 現実社会で生きていくためには、観て、考えて、社会的行為をすることが必要です。そこまでできる自己が意志的自己です。もっと深い叡智的自己があります。
 意志的自己はいちいち、目的を思い、対象を見て行動しますが、自分の生きる価値、職務をみつけた人は、意志作用が習慣化されます。価値、長期的目的も選択する必要もなく、いつも決定しています。その方向で、短期目的の意識作用の連続で生活していけます。自分の価値観で世界を切り取って観て自分の満足いくように世界にむけて短期の意識作用で行動しています。自分の中に世界があります。一応、二元観を越えています。しかし、自分が残ったままです。だから、そういうことができる自分を誇ったり、自己中心的なふるまいをします。自分の価値観、仮説で切り取って、自分の定義で処理しているのに、絶対的な「真理」であると思いこみます。しかし、実は、そういう自分も価値観も仮説、定義もみな根底で絶対に対象とならないもの(前記の絶対無)に否定されています。偉そうな自己も否定されています。そして、その絶対的なるものから自分も価値も自分の世界も与えられています。
 しかし、自我をほこる傲慢な叡智的自己者だけではありません。自分は専門家であるのに、自分の不全さに悩む良心を持つ人がいます。
    (たとえば、うつ病の人に接していながら治せないことを悩む医師、看護師、カウンセラー、家族)
 そういう人は、自分をほこれません。根底の絶対者の呼び声 を聞いているのです。叡智的自己でありながら、自分のたりなさにきづき、解決を求めて探求していく中で、絶対に遭遇するのです。真相を体験するのです。意識的自分は真実の自己ではなかった、絶対に生かされていて自分のすべてのことが絶対のものであるという人格的自己の意識になります。意識的自分の絶対的な無、絶対の死の体験(「いきながら死人となって」)をへてそう思えるようになります。

 うつ病、不安症ならば、深い人格的自己のマインドフルネスでなくても改善できますが、自分の不全さに苦悩する誠実な専門家には、深いマインドフルネスでないと解決しないでしょう、直視しなで無視、傍観するか、知っていながらまぎらす(回避、逃避)ことになるでしょう。問題の深さによって違う薬を用いるように、深さの違う精神の問題には違う解決策が必要になります。仏教が要望に応じて流派が生まれたのはそのせいです。その程度で満足、その程度では私はすまない・・・。今でもさまざまな流派があります。マインドフルネスも必要に応じてさまざまな流派があります。各人が自分の価値観で、自分の好みで選択し用います。絶対の真理ではないのです。

 判断的自己、知的自己、意志的自己、叡智的自己まで宗教的ではありません。人格的自己は宗教的ですが、「科学的」ではないとはいってはいけないでしょう。西田哲学は「哲学」という学問です。実は、科学、学問も、絶対無のさまざまな現れです。最も深い宗教=哲学=絶対無の上に、さまざまな科学の立場があります。西田博士はそのように見ています。だから、科学、学問は、これからも変遷するのです。根底の真の自己のありさま(禅で体験するもの、西田哲学が論理的に記述したもの)は永遠の真相ですが。
「がん哲学外来」に寄せて ⇒目次

【目次】日本のマインドフルネスの再興を
連続記事目次
「哲学を知り実践するマインドフルネスSIMT」

Posted by MF総研/大田 at 20:15 | 新しい心理療法 | この記事のURL