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(26)マインドフルネス瞑想療法士育成講座の第10回 [2016年03月14日(Mon)]
★10人の方に認定証を発送いたしました。

(26)マインドフルネス瞑想療法士育成講座の第10回

第10回 深いマインドフルネスへの扉

 昨日、修了しました。

テキスト「行為的直観」
テキスト「創造的直観への実践」
「人格的自己のマインドフルネス 創造的世界の創造的要素として生きる」
「日本文化に流れる東洋哲学」
「日本マインドフルネス精神療法協会の研究会」
セッション10 「これからの課題」の関連資料

 西洋は自己と世界、自己と絶対者を分ける二元観。マインドフルネスも対象的二元観のマインドフルネス。

 日本には、さらに深いマインドフルネスがある。 さまざまな意識作用は、意志作用で意識できるが、意志作用を越えると作用は意識できないで、ノエマ(対象、見られるもの)だけが見られる。ノエシス(作用)としての行為的直観は意識できない。もちろん、創造的直観は意識できない。叡智的自己の見るノエマは、自己の思うがままの理想である。だから喜こびばかりである。自己の世界である。人格的自己の創造的直観になると、意識的自己がなく、ノエマは絶対者の表現となる。すべてが自己のものでなく絶対者の表現となる。

 日本人は、鎌倉時代からこれを探求してきた。対象的マインドフルネスではなく、絶対に対象とならないマインドフルネスであった。道元禅師、親鸞聖人、世阿弥、千利休、松尾芭蕉、良寛、宮沢賢治、西田幾多郎、鈴木大拙、西谷啓治、河井寛次郎、東山魁夷、・・・。
 まず、行為的直観。行為時の無自己意識。相対的一元観。身心一如といわれる。だが、底に世界や絶対者があることを知らないので、行為しない時には、自我をほこる、おごる。専門家のエゴイズムとなる。世界の立場に立たず自分の立場に立つので 社会が世界の立場で発展することを阻害する。法的な悪ではないが、絶対無、世界の立場からは、深いものではない。絶対無の至誠ではない。

 自己の無を自覚する創造的直観。自己の無を自覚する。ほこるべき、奢るべき、基体的な自己はなく、自己は絶対者の射影点となる。創造的直観に至る実践は「至誠」。我見我執己見を捨てることが中心となる。昭和には多くの指導者がいた。西田幾多郎は、公案という出家向きの方法はすすめない。家族との対面時に、職場での仕事の時(ポイエシスという)に、我見我執己見を捨てる実践(プラクシス)が、今後の新しい実践であるといった。キリスト教の聖書にも見出すことができるという。現代的非対象的マインドフルネス実践は、もはや「仏教」といわないほうがいいのかもしれない。「絶対的マインドフルネス」だろうか。
 これからは、人格的自己のマインドフルネスとして実践される。

 うつ病、不安症/不安障害、過食症、家族n人間関係などの問題の解決支援のためには、意志的自己レベルのマインドフルネスSIMTで十分であるが、これよりも根が深い問題で苦悩する人には、叡智的自己、人格的自己のマインドフルネス(これは、禅の見性、浄土真宗の回心のレベル)でないと届かない。
 マインドフルネスの支援者は、一生続けるつもりであれば、叡智的自己、人格的自己の方向を探求するのがいいことになる。ポイエシス(社会的生産行動)と同時に出来るプラクシス(自己自身を形成)なんだから。
【目次】日本のマインドフルネスの再興を
Posted by MF総研/大田 at 19:31 | 新しい心理療法 | この記事のURL