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(40)行為的直観にはポイエシスとプラクシスの位相 [2015年11月09日(Mon)]

西田哲学からみる科学学問、そして哲学
 〜マインドフルネスSIMTと表裏

(40)行為的直観にはポイエシスとプラクシスの位相

意志作用よりも深い行為的直観

 意志作用のマインドフルネスで解決しない深刻な問題は、さらに深い自己洞察探求になる。 意志作用までは、意識で知ることができるが、それより深い作用そのもの(自己限定作用) は意識できない。しかし、その作用が表現するもの(ノエマ)で推測できる。 行為的直観は、叡智的自己の自己限定作用である。多くのひとは、これを自覚していない。(行為的直観よりも深いのが創造的直観)
     「プラクシスということが、我々の自己が自己自身を目的として働くことであり、人間自身の自己形成にあるとすれば、それが・・・ 我々の真の自己は絶対者へ絶対的関係に立つのである。何処までも自己自身の中に超越的なるものを宿し、自己を超越的なるものの自己射影点として、絶対的なる歴史的世界像を形成し行く所に、我々の真のプラクシスがあるのである。そこに世界は作られたものから作るものへである。而してかかる形成作用として、我々の自己が歴史的世界に於て物を形成して行くことが、ポイエシスということでなければならない。」(『ポイエシスとプラクシス』旧全集10巻149-150頁)
 叡智的自己は、行為的直観によって、世界、社会を創造していく。行為的直観は、自己なくして物となって見て、物となって行為することである。この時、2つの位相がある。ポイエシスとプラクシスである。
 ポイエシスは、社会の人が必要とする物、サービスなどを作ることである。 他者からも明確に意識できる。プラクシスは、いわば、内面の自己を作ることである。その人がポイエシスする時に、エゴイズムの心なのか、誠心誠意の心(西田哲学でいう「至誠心」) なのかはわかりにくい。しかし、本人は己を尽くしながら(プラクシス)、 社会貢献行為(ポイエシス)をする。ポイエシス即プラクシスである。即は西田哲学では、矛盾するものがそのままで矛盾的自己同一のこと。真のプラクシスは、絶対者の一射影点となることである。絶対現在,絶対者を意識した実践である。
 同じ物を作る行為であっても、プラクシスのない人は不満、嫌悪、我利我執の心で作る。プラクシスのある人は、同じ物を、自己を尽くして至誠の心で作る。自己なく、絶対者の行動になっている。ポイエシスを通して、自己の人格が作られる。行為的直観は浅いものから深いものまである。次の文では深い行為的直観である。
    「我々の行為は、個物的多として絶対者の自己射影点であることから起るのである。物となって考え物となって行うとは、ポイエシス即プラクシス的に、歴史的自然的に働くことでなければならない。」(同158)

行為的直観にはポイエシスとプラクシスの位相

 技術はポイエシスであり、行為的直観で働くが、「物となって見、物となって考え、物となって働く」ならば、至誠のプラクシスである。これが昔から、日本人が行ってきた「東洋道徳」である。自己を残しての通常の道徳ではなく、己を尽くしたプラクシスである。「宗教的」である。
    「技術ということは我々の自己が物となって働くことである、自己が物となり物が自己となることである。見ることによって働き、働くことによって見る、行為的直観的ということである。東洋道徳に於て天人合一(即天理)ということは、右の如き意味に於て歴史的世界的に技術的ということでなければならない。それが身心一如の立場からであるのである。」(『ポイエシスとプラクシス』旧全集10巻157頁)
 これで見るとおり、西田幾多郎は、道元禅師が力説(『正法眼藏随聞記』)した東洋道徳を「物となって見、物となって考え、物となって働く」こと、プラクシスの実践であるとしている。
 真のプラクシスは、人が人自身を作るポイエシス(142頁)、自己を超越的なるものの自己射影点として世界を形成していくこと(150頁)、それは自己が絶対者への絶対的関係nおいて立ち、表現作用的に唯一なる世界像を形成していくこと(152、155頁)、自己の根底の絶対者の命令に従うこと(156頁)である。それが自己なくして「「物となって見、物となって考え、物となって働く」ことである(158頁)。具体的には、意識的自己の完全否定の実践、意識的自己の立場によるエゴイズムの抑制、種(共同体)がある立場に執着して世界、絶対者の立場でない立場をとる行為の抑制などが含まれるのであろう。西田哲学ではどういう実践であるといっているのか、明らかにしなければならない。現実の宗教は絶対者の立場からの厳密にプラクシスを提案しているとは見えない。意識的自己、道徳レベルの実践に過ぎない。
 ポイエシスとプラクシスは、すべての人の産業的行為において行う行為的直観にある。決して坐禅の場ではない。家族の間や社会のために働く現場である。

日本的マインドフルネスはポイエシスの中で

 初期仏教の瞑想や後世の坐禅は、出家向きであったため、プラクシスだけをめざしているものであるといえる。目ざすのは悟り、解脱である(*注)。家族関係、産業技術の行為中のことではない。 家族も社会のための仕事も持たないで布施だけで生きる出家はそれができるが、もう時代が違う。西田は「足場」という。 今の環境を足場にして、社会を作っていく。産業的行為をしなければならない。必ずポイエシスでなければならない。
 食料生産にはじまる各種の物、サービスを作っていく創造的世界の創造的要素としての人間は、ポイエシス、プラクシス でなければならない。世界に住んでいるのだから世界を創造しなければならない。  ポイエシスとプラクシスは、禅で「動中の工夫」というが、それに似た実践である。動中の工夫とは、動きまわっている時にも、悟りをめざすくふうをわすれないことである。プラクシスはそれに似ている。他者との会話の裏で、プラクシスがなければならない。仕事の進行中に、現在進行形でプラクシスがなければならない。マインドフルネスの自己洞察瞑想療法(SIMT)で「行動時自己洞察」という形で、採用した。すべての行動の時に、マインドフルネスの自己洞察をするのである。SIMTの「マインドフルネス」は広義である。情報の受動局面(そこは「マインドフルネス」では無評価観察がモットーだが、行為的直観はこの時に価値も働く)だけではない。そこにとどまらない、行動局面が重要である。自己も他者も傷つけないように「評価」しながら、自分が価値あると「評価」した行為をする、この局面は情報受け止めの観察ではない。外への物、情報の提供である。しかし、現実の場面では、無評価観察と評価行為とがすばやい交替で続く。無評価観察即評価行動、評価行動即無評価観察である。
 プラクシスは難しい。ポイエシスの進行中に起きるエゴイズムの心理を観察し、抑制するのである。SIMTでは「本音」の洞察という。欧米のマインドフルネスには見られない。本音が、自己、他者、社会を害する。東芝、フォルクスワーゲン、旭化成建材などは、大きな事例であるが、家族やクライエント、同僚、知人など近い人を傷つけるエゴイズムは頻繁に起きている。そのあるがままを「無評価で観察」し対策を講じなければ、自己や他者、組織を傷つける。こういうことは、心理学の指標になりにくいので、まだ、マインドフルネス関連の科学ではあつかっていないだろう。だが、 これが大きな苦悩をひきおこしている。人格否定、虐待、暴力、ブラック企業、いじめ、データ改ざん、・・・。心理学のデータをとれないから、学問の対象にしないというのはおかしいと思う。宗教問題ではない。
 叡智的自己レベルのSIMTは、行為的直観のトレーニングを行う。ポイエシスは、さまざまな社会産業の技術、スキルであるから、その専門家におまかせして、叡智的自己レベルのSIMTは、行為的直観と自己形成のプラクシスをトレーニングする。家族との対話行動の中で、職場で、各種の団体の行動の中で現在進行形で、自己内面の私欲、我利我執の観察、己を尽くす(主観的自我の絶対否定) トレーニングが重点となる。西田幾多郎が「至誠」「東洋道徳」というものであると思う。
(*注)悟り、解脱は時代、宗派によって違う。 初期仏教の解脱、大乗仏教の「無生法忍」、臨済宗系の「見性」、曹洞宗系の坐禅そのもの、など。
(語句)
★SIMT:Self Insight Meditation Technology/Therapy。日本的マインドフルネス。大田健次郎 (2013)『うつ・不安障害を治すマインドフルネス』佼成出版社、大田健次郎(2014)『マインドフル ネス 入門』清流出版。
★学問的マインドフルネス⇒この記事
★社会的マインドフルネス⇒この記事
★世俗的マインドフルネス⇒この記事
★宗教的マインドフルネス⇒この記事
 =それぞれの教団によって、哲学とマインドフルネスの方法が違う

★「人格的自己への原体験」「人格的自己的体験」
「人格的自己の基礎となる直覚的体験」「自覚的直観、創造的直観の基礎となる体験」、仏教 では無生法忍、見性、回心などと呼ばれた。
【目次】西田哲学からみる科学学問、そして哲学
 〜マインドフルネスSIMTと表裏


参考

★(目次)NHK E テレビ、こころの時代「日本仏 教のあゆみ」
 ある特定の集団の立場に立たないで、根源的な人間のありのままの立場から学問をしようと する例のようです。

★(目次)道元禅師のマインドフルネス
★(目次)人格的自己の「マインドフルネス」へ
★(目次)さまざまなマインドフルネス
★(目次)最も深いマインドフルネスの実践の哲学
★(目次)昔から日本にあったマインドフルネス

★(目次)人格とは何か
★専門家は独断におちいりやすい
 =人格的自己でなくある目的、立場の専門家としての叡智的自己だから

★自覚的直観、創造的直観
Posted by MF総研/大田 at 21:11 | 深いマインドフルネス | この記事のURL