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(6)日本人は外的から見張られる神でなく 奥底で包みこむ仏を求めた [2015年10月07日(Wed)]

<連続記事>日本にあったマインドフルネス(6)
 =鎌倉時代に自覚された
 =絶対的アクセプタンスと絶対的マインドフルネス
 =その後長く日本文化の根底に流れた
 =明治以後現代もなお芸術で表現する人が現れる

 久しぶりに、この記事の連続としたい。  西洋と日本では、絶対者が違ったと西田幾多郎がいう。

(6)日本人は外的から見張られる神でなく 奥底で包みこむ仏を求めた

 キリスト教は、外的、または対象的な方向に絶対者、神を見るが、日本人は 「日本的霊性」というごとく、内的、自己の奥底に絶対者、ほとけを見た。 日本人の仏は、居場所である。根底の場所で、自分を包み受け入れてくれる。 こういう救済の意識が出るまでには、相当の実践が必要であるが。公案だけではなく、坐禅でも、指導者の説法を聴いてそれに導かれて、至誠、己を尽くす生活実践でそれを得ることができると西田は考えた。真宗の人は坐禅しないで、同じ安心を得た。
 この心のひるがえりを、禅では「見性」「身心脱落・脱落身心」といい、真宗では「回心」(えしん)という。 それを透過した人は、自分が根底で絶対者に包まれているという意識が出る。 自分の意識する一々が絶対者の表現となる。日常生活のすべての根底に絶対者があることを「平常底」という。中国襌の「平常心是道」というと、我利私欲まみれのそのままの生活がそれで悟りのありかただと誤解されるの を嫌って、西田は「底」といい変えた。中国襌の漢字「心」は浅い意味から非常に深い意味まであるが、誤解されやすい。「平常底」「平常心」は悟道、回心の人の家庭職場など日常生活の場にある。

日本の仏は根底でどこまでも包む

 日本人があこがれて、実践して、得られた安心は、絶対の愛でり、自分の内奥からささえる居場所(しかも世界創造の力)であって、受け入れてくれるのであった。 人間の母でさえも、子が悪をおかしてもかばおうとする。日本人が感じた仏は、つまらない自分、悪を犯す自分をも底から包み受け入れるものであった。どこまでも子をかばう絶大なる愛の母のようであった。
     「絶対者はどこまでも我々の自己を包むものであるのである、どこまでも背く我々の自己を、逃げる我々の自己を、どこまでも追い、これを包むものであるのである、すなわち無限の慈悲であるのである。」(「場所的論理と宗教的世界観」)(旧11巻435頁)
 自我の意識を出さなくても、つらいことがあっても世界のために生きていく力を与えてくれる慈悲である。 ただし、意図的に悪を犯すものは、この救済にはあずかれない。己を尽くす、至誠が条件であるから。真宗にも「至誠心」があると竹村牧男氏がテレビの「日本仏教の歩み」で紹介された。 家族や社会の働く現場で、至誠の生活実践によって暮らすうちに見性、回心にぶつかり、根底の絶対者を自覚できるのだから。自分と絶対者が分かれていない。いつも絶対者が自己根底にある。この境地になろうとしたのが、日本人であった。

日本の絶対者、仏はさばかない

 一方、西田によれば、神が対象的に外から監視していて、悪を犯すとさばかれる、死後の行き先も異なる、そういう絶対者があると西田はいう。自分と絶対者が分かれている。を西洋に多い。
     「どこまでも自己否定に入ることのできない神、真の自己否定を含まない神は、真の絶対者ではないと考える。それは鞫(さば)く神であって、絶対的救済の神ではない。それは超越的君主的神にして、どこまでも内在的なる絶対愛の神ではない。」(「場所的論理と宗教的世界観」旧11巻458頁)
 ブームとなっている「世俗的マインドフルネス」は、意識表面の五感覚と身体の動きを無評価で観察し、受け入れるという。 日本人の昔からのマインドフルネス実践にあたるものは、 五感、身体の動きよりも深い思考、感情、行為にひそむ悪心、さらに、自己自身までも観察にようとした。そして、自己自身はどこまでも意識で観察することはできないとされた。真の自己存在は、意識の対象とはならず、意識を内側に越えたものであることを見性、回心によってつきとめた。
 ブームのマインドフルネス、アクセプタンスでいえば、日本人は昔から、絶対的アクセプタンス、絶対的マインドフルネスを実践してきたといえる。至誠のマインドフルネス実践によって、絶対に対象にならない根底の自己と世界の存在の基礎になるものを観察(対象的意識でなく体験の反省により)して、すべて(*注:自己の死も、自己評価も)を包み受けいれる絶対的アクセプタンスであるから。

深いマインドフルネスのヒントが日本の禅や真宗に

 (*注)について触れる。うつ病や不安症/不安障害、過食症などは、意識現象の階層からいえば、浅い問題である。感覚、意志的行動レベルの葛藤である。うつ病には、自殺があるが、社会的行動ができないからである。自己存在そのものに発する苦悩ではない。これよりも構造的に深い問題がある。
 パーソナリティ障害、親に愛されなかった苦・虐待などによるトラウマは、行動レベルではなくて、自己存在レベルの深い問題であると思う。もちろんがん患者の死の不安、愛する人の死別の悲しみも深い位置から起きる問題である。行動できない苦しみではない、感覚的な苦痛でもない。現代の日本人は深い苦しみをかかえている。意志的自己レベルのSIMTは、うつ病、不安症/不安障害に限らず、健常な人が生きていく時に一生使っていただける。だが、深い問題には、もっと深い階層にまで届くマインドフルネスでないと効果がない。もう対象的な意識による観察ではなく、それよりも深い「立場」にたって探求していく。

 従来の 心理学の延長では、ある定義づけをした「立場」に立つしかないだろう。だから、従来の心理学的手法ではできないかもしれない。宗教者に期待したいが、宗教者もこのような深い問題の支援は目だった動きがない。深いものを見失っていると竹村牧男氏が書籍で、テレビで表明しておられる。 浅い集団的「定義」「立場」を超えて、それよりも深い「立場」に立つことができる新しい運動が求められる。西田は科学者は「立場」に固執する傾向があるという。あるがままの真実が見えなくなる。 V・E・フランクルがいうように、内在と超越の多層の立体構造を持つ人間のあるがままを解明していく科学は難しい。科学するつもりのものが、立場に固執して深い真実を見ないというマインドフルネスに反することをしてしまうおそれがある。人間は、他を否定して自分が世界になりたがる傾向を持つという。
<目次>昔から日本にあったマインドフルネス


(語句)
★SIMT:Self Insight Meditation Technology/Therapy。日本的マインドフルネス。大田健次郎 (2013)『うつ・不安障害を治すマインドフルネス』佼成出版社、大田健次郎(2014)『マインドフルネス 入門』清流出版。
★学問的マインドフルネス⇒この記事
★社会的マインドフルネス⇒この記事
★世俗的マインドフルネス⇒この記事
★宗教的マインドフルネス⇒この記事
 =それぞれの教団によって、哲学とマインドフルネスの方法が違う


【目次】西田哲学からみる科学学問、そして哲学
 〜マインドフルネスSIMTと表裏


参考

★<目次>NHK E テレビ、こころの時代「日本仏教のあゆみ」
 ある特定の集団の立場に立たないで、根源的な人間のありのままの立場から学問をしようとする例のようです。

★<目次>道元禅師のマインドフルネス
★(目次)人格的自己の「マインドフルネス」へ
★(目次)さまざまなマインドフルネス
★(目次)最も深いマインドフルネスの実践の哲学
★専門家は独断におちいりやすい
Posted by MF総研/大田 at 21:46 | 深いマインドフルネス | この記事のURL