(24)意識的自己を棄てる、私欲を離れる [2015年09月22日(Tue)]
現代的社会的創造的マインドフルネスへの実践とは
西田哲学は、古来から日本人が大切にしてきた精神を哲学的な根拠を与えようとした。禅や真宗の実線に共通の実践をほりこしている。
考えられた自己を捨てる、私欲を離れる「自分はこうだ」という考えられた自己、概念としての自己は真の自己ではないので、棄てよという。これを日本人は実践してきた。
己を空しくして徹底的に実践すると、自己がなくなる、自己に死ぬという。
「我々は行為に当たって何処までも思惟を盡さなければならないのは云うまでもない。しかしそれに先立って我々は己を空しうして自己を世界の中に置くと云うことがなければならない。行為的直観的に自己自身を深く世界の中に置き、絶対的表現と結合することによって、死して恨みなき大努力が出て来るのである。」(『実践哲学序論』旧全集10巻103頁)(A103) 坐禅、瞑想をすればそれでいいというものではない。世界、社会のために働く、創造的世界の創造的要素となる。自分だけが静かなところで、いい気持ちになるなどというのは、無用である。世界の創造ではないから。それが、西田哲学が東洋精神に見出した至誠の実践である。禅に誤解がある。社会創造に参画しないで自分の満足のものがある。西田は批判する。 それで結局、西田は、「瞑想ではない」という。そういえば、真宗やキリスト教は、坐禅せずに、深い境地を得ている。 西田は、それらも、禅と同じく、絶対無を基礎にした最も深い実存諭、至誠の実践諭を見る。 V・E・フランクルも、仏教、キリスト教などを包む共通の絶対者があるという。坐禅が一つの道ではない。坐禅して、社会創造をしないのは批判している。キリスト者にも至誠の人を見る。内村鑑三、神谷美恵子、永井隆などがいる。 坐禅をする場合には、自己を棄てる至誠の実践を軽視しているのではないか。 道元禅師は「我見我執を棄てよ」と生活時の実践を繰り返し注意している。 【目次】西田哲学からみる科学学問、そして哲学 〜マインドフルネスSIMTと表裏 |
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MF総研/大田
at 22:16
| 深いマインドフルネス
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