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(24)意識的自己を棄てる、私欲を離れる [2015年09月22日(Tue)]

現代的社会的創造的マインドフルネスへの実践とは

(24)意識的自己を棄てる、私欲を離れる

 西田哲学は、古来から日本人が大切にしてきた精神を哲学的な根拠を与えようとした。禅や真宗の実線に共通の実践をほりこしている。

考えられた自己を捨てる、私欲を離れる

 「自分はこうだ」という考えられた自己、概念としての自己は真の自己ではないので、棄てよという。これを日本人は実践してきた。
    「良心の声に従うというのは単に理性的となrことではなく純なる情意の要求に従うことでなければならない。ただ、考えられた自己を捨てることである、私欲を離れることである、無にして自己自身を限定するものとなることである、永遠の今の自己限定の内容は広義に於て良心の声として現れるのである。」 (「永遠の今の自己限定」)(旧全集6巻230頁)
 マインドフルネスSIMTの技法にも、自分のことを考える始めたらただちにストップしようという技法がある。 上記の西田哲学の実践には「私欲を棄てる」という高度の実践も指摘されている。 我利我執を棄てるのである。金銭的利益、名誉を得るという利益、高い地位を得ようという利益、私欲を棄てるのである。

己を空しくして

 徹底的に実践すると、自己がなくなる、自己に死ぬという。
    「真に自己に死することでなければならない。」 (「図式的説明」)(旧全集9巻334頁)
 考えられた自分は真の自己ではないので、自分に 執着せず、棄てる。たとえば、我利をはかろうとしないとか、馬鹿にされても、気に せずに、他者の利益のために、なすべきことをする。
    「何処までも己を空しうして、世界の自己限定の事実として働くことである。それは一々の場合に於て自己を世界に於て見ることでなければならない。」([『実践哲学序論』旧全集10巻102頁)

     「我々は行為に当たって何処までも思惟を盡さなければならないのは云うまでもない。しかしそれに先立って我々は己を空しうして自己を世界の中に置くと云うことがなければならない。行為的直観的に自己自身を深く世界の中に置き、絶対的表現と結合することによって、死して恨みなき大努力が出て来るのである。」(『実践哲学序論』旧全集10巻103頁)(A103)
 「私欲を離れる」ということは、自分(意識的自我)中心、自己の所属する集団(種的一般者)中心ではなくて、世界の立場、つまり、クライエント、顧客、患者などの立場になって行動していく。
 坐禅、瞑想をすればそれでいいというものではない。世界、社会のために働く、創造的世界の創造的要素となる。自分だけが静かなところで、いい気持ちになるなどというのは、無用である。世界の創造ではないから。それが、西田哲学が東洋精神に見出した至誠の実践である。禅に誤解がある。社会創造に参画しないで自分の満足のものがある。西田は批判する。

 それで結局、西田は、「瞑想ではない」という。そういえば、真宗やキリスト教は、坐禅せずに、深い境地を得ている。 西田は、それらも、禅と同じく、絶対無を基礎にした最も深い実存諭、至誠の実践諭を見る。 V・E・フランクルも、仏教、キリスト教などを包む共通の絶対者があるという。坐禅が一つの道ではない。坐禅して、社会創造をしないのは批判している。キリスト者にも至誠の人を見る。内村鑑三、神谷美恵子、永井隆などがいる。 坐禅をする場合には、自己を棄てる至誠の実践を軽視しているのではないか。 道元禅師は「我見我執を棄てよ」と生活時の実践を繰り返し注意している。
【目次】西田哲学からみる科学学問、そして哲学
 〜マインドフルネスSIMTと表裏

Posted by MF総研/大田 at 22:16 | 深いマインドフルネス | この記事のURL