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科学は絶対の真理ではなくて、ある立場における真理 [2015年08月11日(Tue)]

科学は絶対の真理ではなくて、ある立場における真理

 (18)対象論理的にある立場に立つマインドフルネス、どの立場にも立たないマインドフルネス

 科学には、偏見があるといいました。  科学は、対象論理的に行為し、ある立場に立ちます。
    「科学者はいつも対象論理によって行為するのである。ある立場を限定することによって、科学が成立するのであ る。」(『哲学論文集第一 〜 哲学体系への企図』序文、旧全集8巻3頁)
 科学者は、自分のしていることが相対的であることを認識しているべきです。どこまでも、自分の立場、自分の利益の立場を去って、科学すべきです。西田哲はそういっています。
     「創造的となるということは、自己が世界の創造者となるということではなくてして 、逆に自己が自己の絶対否定を媒介として働くということである。創造的自己の立場から自己自身を否定して、自己が一者の自己表現として働く、即ち具体的論理的に働く。創造的要素として働くということは、かく働くことでなければならない。 科学と云うものは、かかる立場から成立するのである。 創造的自己が自己否定の立場から世界を表現する、世界の自己表現の立場に立つ、世界の一観点となる。自己自身の特殊性を否定して、即ち自己を中心とした特殊世界を否定して、創造的要素として、世界を映すものとなればなる程、知識は客観的となるのである。・・・ 」(旧全集10巻552頁)
 西田もその哲学を他の立場の人から批判されました。今もそうかもしれません。仏教、禅、浄土教と西田哲学は深い関係にあります。こうした学問に、その研究者の「ある立場」による偏見、独断が起こりえます。
 対象的にならない自他不二的な根源を知らない、理解できない、好きではない研究者は、仏教や禅などを研究する時に、テキストを対象論理的にしかみることができないことが起こりえます。しかし、大乗仏教や西田哲学によれば、真の自己は、対象的に見ることはできないといっています。ここに、偏見ある立場からの「学問的」といわれる解釈が起りえます。団体間、研究者間に、さまざまな論争があります。学問の形をとっています。しかし、研究者のある立場からの解釈(偏見にもなる)があり、事実ではないかもしれません。仏教学、宗学という科学のよそおいを見せていても、ある立場からの解釈、すなわち、偏見が起りえます。 研究者が自覚していればいいのですが、「わが解釈こそ絶対に正しい」と思いこむ人もいます。

 前の記事、 これですが、関連します。マインドフルネスも、さまざまな「立場」に立つものです。対象的自己からのマインドフルネスもあり、対象論理でないマインドフルネスもあります。通常の対象論理による「科学」では、説明できません。そういうものが日本にはあって、西田幾多郎は「形なきものの形、声なきもの声」といいました。それでないと解決できない問題、死や自己評価の苦悩があり、日本人は自己の外に神を見るのとは違う、自己の内にある絶対者に包まれて安心を得るということがありました。西田が説明してくれた哲学を理解して、その安心を得るマインドフルネスがあっていいはずです。 自分を尽くすのですから、自分だけではなく世界の安心になります。 時代が違います、世代が違います。現代を足場にした新しい東洋哲学実践を提案したいものです。

ブログ【目次】最も深いマインドフルネスの実践の哲学

Posted by MF総研/大田 at 11:46 | 深いマインドフルネス | この記事のURL