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禅と西田哲学ゆかりの地の旅(1) [2015年08月03日(Mon)]

禅と西田哲学ゆかりの地の旅(1)
 =日本的マインドフルネスの源流をたずねる意味も

 1日と2日、マインドフルネス瞑想療法士の講座を受講なさったかたの 企画で、ツアーが企画されましたので、参加しました。20名ほどの参加がありました。 1日目は、鈴木大拙館の見学、大野こまちなみ(醤油の町)の散策、西田幾多郎記念哲学館で哲学講座を聞く。 2日目は、哲学講座の2回目、そして、羽咋の山中にある永光寺での坐禅でした。 マインドフルネスの自己洞察瞑想療法(SIMT)の源流をたずねる旅になりました。 永光寺は、町から遠く、観光客もこず、ひっそりとしていました。私は30年前、数年猛烈に禅を打ち込んだ時期がありました。 私の禅の師は曹洞宗で、師の系統をさかのぼると永光寺の開山、螢山禅師に、至ります。その3代前が、永平寺の道元禅師です。SIMTのマインドフルネスの手法は、道元禅師の教えによることが多いです(あとでふれましょう)。また、螢山禅師なければ、今の私はないわけです。そういうわけで、祖先のお一人の遺跡を参拝した感動の旅でした。

 西田哲学館の哲学講座は、「西田における知と絶対無」でした。 純粋経験、絶対無についての話でした。聞く人は、難しいようでした。

 お話で、印象深く残っているのは、「場所」とは「偏見」である、という解釈でした。これは面白いです。西田は、科学にも、ほとんどすべてに偏見があることを指摘していたのですから。絶対無の場所だけが、偏見のないところですから、それ以外の場所は「偏見」ですね。 そこで、西田は、己を尽くせという「至誠」が日本人の古来の道徳だといいました。西田は、仏教、禅についての偏見が多いことを強く警告しました。西田哲学の解釈も、偏見が起ります。西田が論文を発表した当時から、自分の立場からの批判もありました。偏見であるわけです。

 お話の中で、久松真一のことに触れて、「私は死なない」「私には煩悩はない」といったそうです。この言葉を誤解して、久松を批判する「偏見」も起ったでしょう。これは、いつか、このブログでも書きました。 久松は、根底の絶対無を自覚して、対象的自分がなくなったからですね。自分がないから、「私は死なない」、自分がないところに煩悩もない。しかし、彼は、自己なくして、世界のために働きました(=西田哲学でいう「創造的世界の創造的要素」として生きた)。世界には、煩悩、偏見、独断が充満して、人々を苦しめる人がおり、人々が苦しんでいますから。

 また、見えるもの、聞こえるもの、現れているものは何かあるものの表現であるというのが西田哲学の主張だとの説明もありました。時間がなくて、そこで終わったようです。さらにその先があります。表現されるものと表現するものが、絶対矛盾的自己同一なのですから。「何かあるもの」とは、表現するものと別ではない。さらに、それが、この自分の根底。さらに、それを実際に自覚するところまでいく(西田は己を尽くす「至誠」の実践という)。そうしないと、単に、思索するだけで、少しも自分を動かさない、自分の人生の現場で力を発揮しない、創造的世界の創造的要素とならない・・・。すぐれた思想や哲学は人を動かすのです。そういうことは、宗教の信者が行動するのに現れています。西田哲学は人を動かさないのでしょうか。人生の指針とならないのでしょうか。西田は、そのようなものを書いたのでしょうか。

 西田哲学が、西田哲学を学ぶ今の自分に直結するような部分をやさしく解説していく必要がありますね。非常に難しい哲学ですから、一生賢明、読んだら、実人生に役に立てたい、そう願います。西田幾多郎は、そのつもりで、哲学したようです。実際に多くの悲哀をかかえた人生でした。絶対無(絶対的一者、神、仏)に包まれて安住する自分を説明しきったものでした。すべての人の根底に、絶対者を持ち、自分が許されている。つらいことがあっても、自由意志がある、自分のいるところで世界の一角で、世界を創造していく。無数の人がそうする創造的世界。自分は創造的要素世界の創造的要素。みながそうなってほしいと願って書いたのでしょう。自分でも不十分なところがあることに気づき批判の余地のないほどに洗練していきました。そういう意味では、「善の研究」は、最初期のもので、全く不十分、西田哲学の真髄は、後期西田哲学にあるわけです。

 静かな山中の大きなお寺の坐禅堂で坐禅をするのもすがすがしいものでした。せみしぐれだけです。30年ほど前に、いくつかの寺で坐禅したころを思いだしました。特に福井の宝慶寺、雪解けの水の音だけの中で坐禅した時を。
 坐禅のお寺が、永光寺に変更になったときいた時、螢山禅師の寺になったので驚きました。そして、現地で、また、感動的なことがありました。明日、書きます。
 このコースは、マインドフルネスの関連の地をめぐるので、とても興味深いものです。毎年、実施したくなりました。マインドフルネス瞑想療法士の受講生の方(希望者)に、毎年参加してもらおうと思います。西田の弟子の久松真一、西谷啓治の遺跡をめぐりつつ、その発展した禅学、哲学の一端にふれるのもいいでしょう。日本には、「世界的な心の遺産」がありますが、遺産にしてはならないわけで、今も活かしたいものです。西田、久松、西谷もまだ生きている、過去が現在にある。V・E・フランクルに通じますね。
<目次>禅と西田哲学ゆかりの地の旅
 =日本的マインドフルネスの源流をたずねる意味も

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★西田幾多郎博士の稲村ケ崎の歌碑
Posted by MF総研/大田 at 21:30 | 深いマインドフルネス | この記事のURL