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理論と実践(2)= 哲学とマインドフルネス実践 [2014年12月19日(Fri)]

理論と実践(2)
 哲学とマインドフルネス実践

 実践は、わけがわからずにするのではなく、理論に導かれる。 哲学者、中村雄二郎氏の続きである。参照したのは、1983年に出版された『西田幾多郎T』で西 田哲学の批判的読み方にあたる。西田哲学は、存命中から現代に至るまで、毀誉褒貶が著しい 。理解せず、否定する人は、絶対無につまづいているようだ。対象的にならないものなので、対象的な ものを言語にした哲学でも、理解できない人がいる。

 最も初期の仏典では、「もはや輪廻しない」と表現された(*1)こと、大乗仏教では無生法忍と言われた体験が数多くみられる。無生法忍の体験の後、不退転菩薩となる。僧侶も仏教学者も哲学者も理解できない人がいる。仏教では釈尊以来、多くの人が体験してきた「心霊上の事実」(西田幾多郎)であるという。 実践して体験しないと、こんなこと(たとえば、瞬間瞬間、自分の死と生がくりかえされていること(*2)が 自己の根底で起きているとは信じることが難しい人がいるようだ。しかし、語録、哲学書を読んで共感信じる人もいる。表層は直線的に見えるが、根底は円環的だという。
    (*1)古代インドでは、死後も輪廻するという思想があり、それは苦であると考えられて、輪廻しないことが仏教の理想と考えられた。初期仏典を見ると修行が実って喜ぶ人は「もはや輪廻しない。と表明している。生きているうちに自己の無の体験をするのだから初期仏教ではこういう表現になるのだろう。大乗仏教や襌では生なく滅なし、不生などという表現をする人が多い。

    (*2)道元や井筒俊彦がいう、生滅(死)なし、善悪なし、自己なし、仏なし、直線的時間も消える(円環的といわれる)・・・。
 中村氏もどちらかといえば、西田哲学に批判的である。それは、他の哲学者が検討しているから、おまかせしておいて、ここでは「哲学と実践」につい て語るのを参考にしている。

 前の記事で、哲学において、最後に行為や実践に結びつくのが当然なので、かえって行為や実践のために 理論の自律性をつよめ、理論をそれ自体として深めていった。その続き。

     「ところが理論の自律性の強化は、理論の自己目的化をもたらしやすい。いや、理論の自己目 的化も理論の進化・展開のためには、ある程度までは必要である。がそれが限度を超えるとき、行 為や現実へと立ち返る通路を失うことになる。理論であるかぎりどのような領域の理論でも、同じこ とがいえる。だが、そのことはとくに哲学について、哲学の知について問題になる。」 『西田幾多郎T』岩波現代文庫、中村雄二郎,p128
 実践が嫌いで、文献研究や思索が好きな人が多いので、理論がふくらんで、現実実現性からは曲がって思索して、実践と かけ離れていく。初期仏教のアビダルマは、ものすごく煩瑣になった。もう、今生では究めることが絶望的となる思想になる。修行者も4種の区別をして、根底のすべての人の平等はいわない。次のように、現実の人間の指針とはで きなくなった。大乗仏教は深く反省して、すべての人の根源が平等であるという事実を発見してそういう哲学になった。実践もそれに相応するように再構成された。 「人間行動の規範」となる実践も六波羅蜜として再構成された。そこには新しい実践がある。中国襌、日本襌ではまた変化していく。 (大田)

 中村氏の言葉、少し、とばして、19世紀後半以来、ドイツに「実践哲学の復権」の提唱があらわ れたという。
     「哲学はもはや人間の諸々の行為に対して規範や指針を呈示する機能を失い、さらにはそうし た議論を展開する基盤をも失ってしまった。このような事態の反省に立つとき、なによりも必要なこ とは、《われわれは何をなすべきか》という人間行動の規範となるもの、および《われわれはいかに 生きうるか》という人間の行為目標の考量と選択の在り様を確立することである、と(M・リーデル編 著『実践哲学の復権』U、序文、1972年)。」同上p128
 このあと、こういう。
     「《われわれは何をなすべきか》、《われわれはいかに生きうるか》というのは、たしかに行為や実 践にかかわる哲学上の根本問題でありソクラテス的な問題であるが、そうした問いに直接に答え るには、現代では一般に、理論のレヴェルと行為や実践のレヴェルとがあまりにかけ離れすぎて いると思うのだ。」p129
 マインドフルネスは、初期仏教、大乗仏教、襌などにもあった手法であるが、 最近はごく一部の宗教者、在家者だけによって実践されている。 医療、福祉やビジネス現場では活用されなかった。宗教者のいう哲学、理論が難しくて一般の人 は宗教から離れてしまった。

 ところが、2,30年前から医学者が用い始めた。医学者、ジョン・カバット・ジン氏の「マインドフ ルネス」という視点からの見直しによって、全世界の宗教者でない人の関心を集めている。その手 法だけである。 哲学はまだ考慮されていない。やってみたら、効果がみられたという報告である。 ACTには、哲学があるが、仏教、宗教からではない。哲学があるが難しく、その哲学を理解するこ とは一般の人には難しい。

 アビダルマという初期仏教の哲学も難しい。襌の哲学も難しい。西田哲学も難しい。そうではあるが、指針となる「哲学」ぬきで マインドフルネスをするのは限界がある。どこまで行けるマインドフルネスであるか(たとえば、不安症/不安障害、虐待、自己評価、人格、死の問題)、 哲学がないと動機づけが弱く、面倒な実践を続ける気に ならない。魅力を感じないと、 マインドフルネスもすぐにあきられる。実際、マインドフルネスの研究者も、マインドフルネス (ボディスキャン、ヨーガ瞑想、正座瞑想、食べる瞑想など) が自分にとって切実だからと、毎日、実践している人は少ないのではないだろうか。つまり、自分には必要ない が、何か問題を持つ人だけがするものだと思われているだろう。マインドフルネスは、仏教にあっ たものだが、そんなに魅力のないものだろうか。

 案外、知られていないようだが、襌の哲学、西田哲学には、我見我執に気づき抑制しよう=無我、無私に生きようという(生きる指針がある)とするマインドフルネスがある。《われわれは何をなすべきか》、《われわれはいかに生きうるか》の一つの 提案が含まれている。 哲学と生きる実践が対応している。松尾芭蕉、宮沢賢治、金子みすゞ、 東山魁夷、河井寛次郎など至誠の生き方をした人に特に実現しているのがみられる。 これらのひとは著名人だが、名もない人にもいる。日本人にはこういうところがあり、 習いたいものである。

 マインドフルネスの形式、手法は、欧米の人によってもう多数発表されて翻訳も多い。これからは、 その実践の根拠となる理論、哲学があってほしい。哲学があれば、活用しようと企画する領域における問 題と比較検討してみて、多数の手法の中から適切な手法を抽出できるだろう。 あまり難しくなく、あまり膨大でない、マインドフルネスの理論、哲学をまとめるのは、マインドフルネ スの発展に必要だろう。西洋哲学のACTは哲学として精緻だろうから、別にして、現代の社会的マインドフルネスを牽引するはずの実践的<東洋哲学>はまだまとめられていない。 マインドフルネスに関心のあるひとが多数とりくんでほしい。
最も深い自己を体験し、その哲学で生きた人

人格的自己のマインドフルネスへ
Posted by MF総研/大田 at 17:31 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL