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ジョン・カバット・ジン氏のマインドフルネス7つの心得は道元襌の 哲学 [2014年12月13日(Sat)]

マインドフルネスの段階
 = 襌の深まり(10)

 

ジョン・カバット・ジン氏のマインドフルネス7つの心得は道元襌の 哲学

さまざまなマインドフルネス
という連続記事の中で、ジョン・カバット・ジン氏のマインドフルネス7つの心得について考えました 。
  • MBSRの背景にある哲学をさぐる  上記の「東洋哲学」の記事に道元禅師の最も象徴的な言葉を引用しています。
       「諸法の佛法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸佛あり、衆生あり(C)。
       萬法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸佛なく衆生なく、生なく滅なし(A)。
       佛道もとより豐儉より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生佛あり(D)。
       しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。
       自己をはこびて萬法を修證するを迷とす、萬法すすみて自己を修證するはさとりなり。迷を大悟 するは諸佛なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。諸 佛のまさしく諸佛なるときは、自己は諸佛なりと覺知することをもちゐず。しかあれども證佛なり、佛 を證しもてゆく。」(道元,1991)

       「佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは 、自己をわするるなり。自己 をわするるといふは、萬法に證せらるる なり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他 己の身心をし て脱落せしむるなり。」(B)(道元,1991)
       先の記事では、ふれませんでしたが、(C)が井筒俊彦氏がいう「分節(T)であることがわかる。自己の根底の無分節を知らない見方、生き方であり、無分節を知らない仏教、襌の書もこれでることになる。(A)が「絶対無分節」である。(D)以下が、「分節(U)」である。すべてが無分節(絶対的一者)の映したものという意識になる。 慈悲の 行を永遠に行っていく。
     (B)は、(C)から(D)に至るための修行「自己を習う」という。これがマインドフルネスである。 「自己をわするる」以下は、「絶対無分節」である。

     ジョン・カバット・ジン氏のMBSRは道元禅師の哲学が理論となっているとみられる。 MBSRの手法でわからないことがあれば、道元襌を参照すればいいのだろう。
     ただし、MBSRは、対人関係でない場面での感覚や身体動作の観察に重点がおかれている。無分節に至るものではないが、感覚、動作もすべて人間の評価がないところの無分節の映されたものというありかたからは、参考にできるだろう。 (C)も(D)も、現実の生活は、対人関係の中で社会の創造に参画していくから、社会生活の現場での規範やルール、道徳などに違背していないかどうかの「評価」「判断」は必須である。社会生活、対人関係の生活の現場は「評価」の観察が必須となるので、それにふさわしい観察訓練のマインドフルネスが必要である。

    人格的自己のマインドフルネスへ
  • Posted by MF総研/大田 at 21:00 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL