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付加価値の高い社会貢献へ=真空妙有から真空妙用へ [2014年12月11日(Thu)]

マインドフルネスの段階
 = 襌の深まり(8)

 

第6 付加価値の高い社会貢献へ=真空妙有から真空妙用へ

 続きです。無や空の体験の前後で、自己、世界の見方が違ってくるのでした。 そこを「真空妙有」という。井筒俊彦『意識と本質』で、絶対無分節から「分節(U)」の局面である。  「真空妙有――この成句の指示する実在体験の中心軸を、意識論的・存在論的に構造化する ために、いま私はそれを「無分節から分節(U)」へ、と言い直す。確かに襌の説く「無」は、 意識的事実としてもまた存在的事実としても、絶対無分節と呼ばれるにふさわしい。だが、この絶 対無分節者は無ではあっても、静的な無ではない。それは本然の内的傾向に従って不断に自己 分節していく力動的、創造的な「無」である。真空は妙有に転成する、というより、転成せざるをえ ない。絶対無分節は自己分節するからこそ絶対無分節なのである。分節に向かってダイナミック に動いていかない無分節はただの無であり、一つの死物にすぎない。「死水、竜を蔵せず」(首 山省念)。それは 襌の問題にする「無」ではない。襌の考えている「無」は宇宙に漲(みなぎ)る 生命の原点であり、世界現出の太源である。この了解に基いて坐禅修行道としての襌は、「空」に 到って「空」に堕するなとか、「空」に眠り込むなとかいって修行者を戒める。「一念未生以前、切 に忌む者裏(その境地、すなわち空)に守住することを」(恕中無慍)」 (井筒俊彦『意識と本質』岩波書店、158頁)

 大乗仏教も無生法忍を究極としないように、襌も悟りで終わりとはしない。空、無、悟りを体験した ら、社会のために働くのだという。この社会のために働くことの重要さを強調するために、鈴木大 拙は「真空妙用」(しんくうみょうゆう)といった。
 鈴木大拙は、無を体験したあと、世界に日本の襌を紹介することに務めた。西田幾多郎は、西 田哲学を創始した。世阿弥は、能に新しい生命をふきこんだ。千利休、松尾芭蕉、河井寛次郎、 ほか多数の人がそれぞれの生きる場所で、花を咲かせていく。昭和になると、芸術や教育に活か した 人、 悩みを持つ社会人に坐禅を指導した人も多い(私も恩を受けた一人)。 寺院の中に眠りこんでいない。鈴木大拙は「働いて働きぬく」といったそうである。

 もし、悟りを得て終わりとして、社会に還元しないとしたら、いかにもエゴイズムの思想となる。こ のことを大乗仏教は批判した。職業を持たない僧侶が修行するためには、衣食住に必要なものを 社会人から布施、寄付してもらう。そして長い間修行して悟りを得て、社会人のために何もしない ならば、もらうだけの一方通行になる。こういう事態を大乗仏教は批判した。それで、社会の中で 修行をすべきだという新しい哲学を作り、家族を持ち、ストレス、苦悩が渦巻く社会の中で実践す る修行方法を生み出した。今の社会のためのマインドフルネスの思想と希望と似ている。 大乗仏教は、 専門家の宗教者のためだけの実践ではなくて、苦悩の現場にいる社会人のための仏教実践を 方針とした。現場の問題を知って、現場の苦の解決の助言をしていく。今のマインドフルネスは、 <最後の>大乗仏教運動といってよいかもしれない。今、仏教がマインドフルネスに乗ってくればである。乗ってこなければ、 仏教は壊滅するかもしれない。人口が減少していくので、檀家信者は減少していく。そして、医師、 心理士、種々の職業の人がマインドフルネスに乗り出すからである。マインドフルネスは仏教の実践に似ている上に、つらい問題が本当に解決する人が多いからである。 心理的な救いを求めるひとは、マ インドフルネス者のもとに行くだろう。

 大乗仏教の人や昭和の在家仏教者が、学問、芸術、苦悩する人の支援などそれぞれの職業 で活かしたように、マインドフルネスは多種多様な職場で活かされていくであろう。医師、心理士 に限らず、実に多様な職業の人がマインドフルネスを学習なさっていることが、その可能性を示し ている。


<全体目次>人格的自己のマインドフルネスへ
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Posted by MF総研/大田 at 21:31 | さまざまなマインドフルネス | この記事のURL